里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

謙信死す!

2009年02月23日 | 歴 史
昨夜のNHK大河ドラマ“天地人”、
「上杉謙信は、能登の七尾城を攻略して織田信長と通じていた長続連らを討ち取り、
 更に七尾城の支援に駆けつけていた織田側の柴田勝家が落城を知って退却しよう
 とするところを追撃してこれにも大勝。
 ところが春日山城へ一旦帰還した謙信が、翌年遠征して信長を討ち、足利義昭を
 京に戻そうという大事な段階で急死してしまう」
とマァ、ここ迄が昨夜の設定だ。

この話、遠い越後の話と思いきや、意外にも我が備後と大いにかかわりがある。
その当時、信長に京から追放された征夷大将軍足利義昭が、毛利元就の庇護を
求めて鞆城(現在の福山市鞆町)に入り、“鞆幕府”を興して返り咲きを狙っていて
謙信はその命令を受けて戦っていたのだという。


当時の戦国大名の中には将軍に忠誠を誓い、この上杉謙信の様に信長を倒した後
は足利義昭を京に戻し将軍職に復帰して貰うという考えの者も多かったらしい。
ところが、信長に敵対する最大勢力であった謙信の死だ。 武田信玄に続き強敵の
謙信までもが急死するとは、信長という男よほど運が良かったらしい。

しかし、その信長も運が尽き明智光秀に暗殺されてしまった。
一説には、それまでの時代には大名達が“自分の領地を一所懸命に守る”という考
えであったものを、それを根底から否定し、
「領地は飽くまで将軍のもので、大名はただ預かっているだけで成績が悪ければ
 没収する」
という、大名達にとっては天地がひっくり返るような構想を持っていたという。

例えば、1582年の信長の西国大名配置構想では明智光秀(近江坂本城主)などは
その構想から外されていたというほどだから西国大名達が心穏やかであった筈も無
く、義昭を立てて戦ったり、或いは光秀のように謀反を起こす者が出て来ても不思
議ではなかったらしい。

信長の考えは飽くまでも能力主義だったらしくて抵抗も激しかったが、その後の
秀吉・家康の時代にはその仕組みが定着してしまったという。
現代も能力主義とやらがあまねく行き渡り、能力の無い者はホームレスになる世の
中になってしまった。 何時の時代も特に下々の者は生きて行く事さえ難しいとい
う事か?

嘗て生死をかけて戦った戦国大名達の辞世も興味深い!
信玄:「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
謙信:「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし
信長:「是非に及ばず」と最後に言い放ったのみで光秀と戦う。
秀吉:「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

足利義昭が征夷大将軍に就任した後の動き
1568年、織田信長に担がれて室町幕府第15代征夷大将軍となった足利義昭、信長の
    傀儡である事に不満を募らせ、
1571年、上杉謙信・毛利輝元・本願寺顕如・武田信玄・六角義賢・朝倉義景・浅井
    長政・松永久秀・三好義継らを糾合し信長に戦いを挑んだが、
1572年、信長打倒を目指して三方ヶ原で織田側の徳川家康を破った武田信玄は、翌年
    西上中に急死してしまい、
1573年、足利義昭は京に攻め上った信長に敗れ、朝倉・浅井氏も滅亡し、京を追放
    された義昭は各地を転々と移った後、
1576年、毛利元就に信長との開戦を求めて備後の鞆城に入り幕府再興を図った。
    しかし、
1577年、信長に敵対する最大勢力であった謙信は能登で織田方の勝家に大勝したが、
1578年、急死(享年49歳)。  更に、
1580年、本願寺顕如も降伏。
1582年、明智光秀の謀反により信長自刃。羽柴秀吉は交戦中の毛利輝元(元就の孫)
    と講和し京で光秀を討つ。義昭は津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移る。
1583年、毛利輝元は羽柴秀吉に臣従。
1586年、羽柴秀吉が関白太政大臣となる。
1588年、薩摩の島津義弘が秀吉の軍門に下り、遂に義昭は将軍職を辞し出家。
1597年、義昭、大阪で死去(享年61歳)


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