(11月5日)
新潟からの帰りに、久しぶりに上尾に住む義妹の家に泊まり、川越の市内観光に連
れて行って貰った。
観光案内を見ると先ず目に付くのが太田道灌の文字だ。
関東管領扇谷上杉持朝の家臣だったそうで、1457年に川越城を築いたと言う。
現在でも人気が高いらしく、市役所前には太田道灌像が建てられ、北の方には道灌
橋まで造られている。 その他にも氷川神社の例祭に太田道灌の山車が登場するが
29台ある内で最も大きいと言う。 残念ながら今回は全てパスした。
次に目に付いたのが“小江戸川越”。
何て事は無い、日本の各地にある“小京都”の江戸バージョンと言う事らしい。
その由来は、徳川家康が江戸の北を守る重要地として位置づけ、親藩や譜代の有力
大名を配置して来た事からも窺える。
例えば喜多院。
天台宗の寺院で、1599年に27世を継いだ天海僧正が徳川家康の厚い信任を得
ていた事から大いに栄え、1638年の火災(山門以外は全部消失)に際しては、
家光の命を受け江戸城の別殿を移築して、書院、庫裏に当てたほどだと言う。
因みに、家光誕生の間を客殿に、春日局化粧の間を書院に当てたそうだが、いずれ
も撮影禁止だった。
ここでは珍しい出会い(?)があった。客殿に面した庭の作者が小堀遠州だと言う。
この小堀遠州、備中松山城主(現在の岡山県高梁市)だった人で城下にある頼久寺
や岡山県矢掛町の大通寺の庭園を作った事は知っていたが、大名茶人にして徳川将
軍家の茶道指南役であると共に、桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築
や造園を手がけた大物とは知らなかった。
新潟からの帰りに、久しぶりに上尾に住む義妹の家に泊まり、川越の市内観光に連
れて行って貰った。
観光案内を見ると先ず目に付くのが太田道灌の文字だ。
関東管領扇谷上杉持朝の家臣だったそうで、1457年に川越城を築いたと言う。
現在でも人気が高いらしく、市役所前には太田道灌像が建てられ、北の方には道灌
橋まで造られている。 その他にも氷川神社の例祭に太田道灌の山車が登場するが
29台ある内で最も大きいと言う。 残念ながら今回は全てパスした。
次に目に付いたのが“小江戸川越”。
何て事は無い、日本の各地にある“小京都”の江戸バージョンと言う事らしい。
その由来は、徳川家康が江戸の北を守る重要地として位置づけ、親藩や譜代の有力
大名を配置して来た事からも窺える。
例えば喜多院。
天台宗の寺院で、1599年に27世を継いだ天海僧正が徳川家康の厚い信任を得
ていた事から大いに栄え、1638年の火災(山門以外は全部消失)に際しては、
家光の命を受け江戸城の別殿を移築して、書院、庫裏に当てたほどだと言う。
因みに、家光誕生の間を客殿に、春日局化粧の間を書院に当てたそうだが、いずれ
も撮影禁止だった。
ここでは珍しい出会い(?)があった。客殿に面した庭の作者が小堀遠州だと言う。
この小堀遠州、備中松山城主(現在の岡山県高梁市)だった人で城下にある頼久寺
や岡山県矢掛町の大通寺の庭園を作った事は知っていたが、大名茶人にして徳川将
軍家の茶道指南役であると共に、桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築
や造園を手がけた大物とは知らなかった。
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山門 | 拝殿 |
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拝殿(左)から客殿などへの渡り廊下 | 小堀遠州作「曲水の庭」 |
素敵な旅をなさいました様で御座いますね。
川越は幾度かその昔でかけました。
お写真もお綺麗で御座いますね。
又gooにも開業いたしました。
以前のは、開く事が出来ませず。
あらためて開業致しました。
お暇な時にどうぞ雑然と致しておりますが
「月と夢と花」ブログネームで御座います。
その愛犬も亡くなってしまった所へ、孫のお誕生日会をすると言うので、やっとこさ重い腰をあげました。
お陰で不義理をしていた親戚にも、幾らか面目を施す事が出来ました。