里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

常山城

2006年01月12日 | 歴 史
今月のNHK野外講座は児島半島(玉野市)常山(つねやま、海抜307m)。

終日快晴無風のポカポカ陽気であった。
いきなり急坂の石畳の登山道(常山城への登城路)を登るが頂上まで目ぼしい植物
は無く、予想していたとは言えガッカリした。

しかし、頂上からの眺望は良好で、南には瀬戸内海と島々、北には広大な児島湾干
拓地が広がっていた。

常山から北側の眺望

岡山城築城(1583年)以来、江戸時代にも盛んに干拓して1600年頃には現在の児島
半島(当時児島と呼ばれていた島)が倉敷側と地続きになり、その後明治32年から
昭和38年にかけても約5500ha(後楽園球場約4058個分)干拓して出来た平野だそ
うだが、ここも他の干拓地同様に後継者難と米余りの難問を抱えて困っているらしい。

もうひとつ意外な物があった。
頂上の城址にある城主上野隆徳の腹切り岩と、そこから少し下った所にある侍女達
の墓である。


歴史を調べてみると、
 ・1554年 常山城主上野隆徳、備中松山城主三村家親の娘鶴姫と結婚
 ・1566年 家親、宇喜田直家に暗殺される
 ・1568年 家親の子三村元親、宇喜田直家に城を奪われる
 ・1571年 毛利元就の支援を受け、備中松山城奪還
 ・1572年 宇喜田直家毛利方となる
 ・1574年 備中松山城主三村元親、織田信長方となり備中兵乱始まる
 ・1575年 6月2日、三村元親自刃
      6月7日、上野隆徳ら自刃
とあった。

何と上野隆徳は、前回野外講座で訪ねた備中松山城の城主家親の重臣で、家親の子
元親の妹婿だったのである。
上野隆徳は、自分が織田側につく事を進言した手前、毛利・小早川の大群の猛攻を
受けた際、裏切りや逃亡の相次ぐ中、妻や侍女達34名まで徹底抗戦し、そして最後
には妻子共々自害したのだそうだ。 凄まじくも哀れな話であった。

しかも、織田信長は6年後には明智光秀に殺され、7年後には備中も豊臣勢力下に
入ったとあっては、弱肉強食の必然の末路を見る思いがした。
昨今の ”強い者が勝つ”と言うやり方が、果たして人間が幸せに暮らせる事にな
るのか改めて心配させられてしまった。


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