里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

一揆の英雄 “徳永徳右衛門”

2010年12月14日 | 歴 史
隣町に「江戸時代に一揆を指導した庄屋が居た」というので訪ねてみた。

先ず最初に、神辺町徳田の砂原池土手の生家跡地を訪ねた。

今は生家の痕跡も無いが、砂原池土手に金毘羅大権現の石灯籠が立っている辺りが
生家だったそうで、現在脇を流れている六反田川が高屋川へ注ぐこの辺りは満々と水
を湛えた沼沢だったという。
又、その生家は、明治10年頃に神辺からお嫁入りがあった時には、嫁入り道具を積ん
だ先頭の船が到着したというのに、最後尾の船は未だ神辺を出たばかりだ、というほど
のお金持ちだったそうだ。
南側から見た風景 (大木の下の金毘羅大権現石灯籠が立つ辺りが生家跡)
金毘羅大権現の石灯籠背後の砂原池

次に訪ねたのは、JR福塩線・湯田村駅の直ぐ北側の宝泉寺。

この寺の門前には、檀家10人が今年7月に建てた英雄の顕彰碑がある。
地元の作家・藤井登美子さんが、「天明の篝火」という小説で徳右衛門を主人公として取
り上げた事もあり「改めて、その功績を見直そう」という事になったらしい。
湯田村駅ホームから見える宝泉寺(左端が顕彰碑)参道を横切る福塩線!
参道脇にある顕彰碑

江戸時代は全期を通じて寒冷な時期で、冷害や 干ばつ、水害などが起きたばかりでは
なく、火山噴火も加わって凶作や飢饉が絶えなかったそうだが、
それに加えて、阿部氏が入封した時には石高が15万石から10万石に減らされていた上
に、幕閣の中枢に加わる事が多くて経費がかさみ財政が相当厳しかったらしい。

その為に福山藩では度々一揆が起きたが、この天明飢饉はよほど酷くて、いかな藩主
と言えども首謀者を打ち首にする事が出来なかったという事だろう。
「その後暗殺された」という説もあるらしいが、いずれにしても命をかけて訴えた庄屋に
対する村人達の思いが今に語り継がれているというわけだ。

政府に金はなく、ますます先細りの昨今の情勢を見ると、何だか「過去の江戸時代の話」
とは思えない。 「明日はわが身か?」と思うと身につまされる!

顕彰碑の碑文
 『江戸時代の天明年間(1770年代)全国的に飢饉があり、各地で百姓一揆が起こった。
  その中でも福山藩は、藩主が江戸詰めに在って大層な財政支出を余儀なくされた。
  未曾有な飢饉にもかかわらず、過酷な税金供出を迫られた民衆が一揆を起こした。
  安那郡徳田村の庄屋徳永徳右衛門は、藩に対して30ヶ条の要求を突きつけ越訴して
  一揆を成功させ、事実上の徳政令を勝ち取った。
  首謀者が獄門の刑に処せられるのが普通であった当時の法を省みず、立ち上がった
  徳右衛門は一人の犠牲者も出さずに一揆を成功に導いた』

江戸四大飢饉〕…Wikipedia から引用
名   称時   期被害の中心地原   因
寛永の大飢饉1642年~1643年
全国(特に東日本の日本海側)全国的な異常気象
享保の大飢饉1732年中国地方以西(特に瀬戸内沿岸)冷夏と虫害
天明の大飢饉1782年~1787年全国(特に東北地方)浅間山等の噴火による冷害
天保の大飢饉1833年~1839年全国(特に東北、陸奥国・出羽国)大雨、洪水と、それに伴う冷夏



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