こもれび

悩み多き毎日。ストレス多き人生。でも、前向きに生きていきたい。だから、自然体で・・・

ペスト

2020年05月24日 | Weblog
コロナが猛威を振るう今、世界中で売れ行き好調の本です。

北アフリカのフランス領、アルジェリアのオラン市をペストが襲う。その時、人々は何を思い、どう行動するのか。そしてどのように助け合うのかが描かれています。1947年に出版された大昔の物語で決して読みやすくはないのですが、とても心に響くものがありました。前半は読み進むのに時間がかかりました。でも、後半はぐんぐん進みます。物語の語り手が誰なのか最後の方で明かされます。カフカの「変身」と共に不条理文学として有名ですね。

近所の本屋さんが皆閉まっているので、アマゾンで注文しました。単行本と思い1700円支払ったのですが、なんと届いたのは750円の文庫本でした。なるほど、需要と供給のバランスですね。身をもって学びました。




ロベール・ドアノー

2020年02月20日 | Weblog
写真が好きな人であれば、ロベール・ドアノーを知らない人はいないだろう。

「伝書鳩が地図を読むことを覚えたとしたら、きっと方向感覚を失ってしまうだろう。自分にとって大事なことは、大きな好奇心をもってパリの雑踏の中を自由に歩くことだ。」

そう語るドアノーはパリ以外はどこにも旅行したことがないらしい。生涯をパリの街角の風景を写し取ることに捧げ、人々に向けられた彼の眼差しはとても優しい。

横浜そごう美術館でドアノーの写真展が開かれていると知り、早速行ってみた。「恋人」「街路」「子供達」「酒場」「芸術家」の5つのセクションに区分されていた。すべてモノクロの写真は皆すべて上品なタッチとユーモアにあふれていた。ここにある写真は京都現代美術館「何必館(カヒツカン)」のコレクションだそうだ。この美術館の館長梶川芳友氏は、「ドアノーの写真にはカメラという機械を全く感じない。ドアノー自身の一瞬の瞬きであるように思われる。」と語っているが、写真を前にすると本当にそう感じる。


この写真が一番好きだ。「パビヨンの子供」というタイトルが付けられていた。何気なく見ていたら通り過ぎてしまったかもしれない写真だが、これは1945年に撮られたもので、第2次世界大戦の傷跡が生々しいパリの街に一人の天使が降り立ったと説明がされていた。どんな悲惨な状況でも、子供たちの笑顔は大人を勇気づけてくれる。


またこの写真はユーモアにあふれている。犬の散歩をしている紳士が絵描きのヌードの絵を覗いている。よく見ると画家の向こうのベンチに女性の足が見えている。カメラを向けるドアノーを見つめるフォックステリアの表情も面白い。

私の拙い説明では何とももどかしいが、是非、会場でドアノーの温かいまなざしを感じてほしい。「コダック賞」「ニエプス賞」などを受賞し、1994年4月にパリで亡くなっている。

自由人の難しさ

2020年02月17日 | Weblog
昨年3月末で退職し、晴れて自由人の身になってもうすぐ1年になろうとしている今、つくづく自由人でいることの難しさを感じている。どのように説明したらよいのか言葉に詰まる。行きつくところ、自己管理の難しさというところだろう。

昨年の今頃、周りの人たちに、「4月から自由人だ! 嬉しい~」と誰彼構わず吹聴していたら、ある先輩がアドバイスをくれた。「自由人になったら、『きょうよう』と『きょういく』がとても大事だよ」と。「??」という顔をした私に、彼は説明してくれた。教養と教育ではない。「今日用がある」つまり、きょうよう。「今日行く所」つまり、きょういく。仕事に行かずともよくなるのは嬉しいが、することが何もなくなると酒の味も落ちるというのだ。なるほど。。。と納得したが、それは男性の話であって、家事など諸々の日常事をこなす女性の場合は当てはまらないんじゃないかと、その時は深く考えもしなかった。

退職後7か月頃までは、在職中にはできなかった長期旅行やいろいろなことがスケジュールを埋め、子育て中の娘たちからは気軽にSOSが入り、仕事中より忙しい時期もあった。が、切迫流産の危機を乗り切った次女の出産も無事に済み、産後のお手伝いも済んだら、手帳のスケジュール欄が真っ白になった。日々の雑用はあるが、なんだかとても物足りなく感じた。さぼろうと思えば、思いっきり何でもさぼれる。そうすると日々の生活が不規則になる。ということは健康にも良くない。つまるところ緊張感に欠けるのだ。人に厳しく、自分に甘い私は、このままではよくない方向に転げ落ちてしまうと感じ始めた。退職したら毎日運動をして、勉強をして。。。などと計画していたが、実行に移すのはかなりの意志力と情熱が必要であることを悟った。

ということで、現在のところ、自由人を謳歌するどころか、自由人の難しさを感じている。興味半分でなんにでも手を出し、すぐに飽きてしまう私は、今後10年を見据えて、本当に自分が情熱を傾けられるものを探す必要に迫られている。


多摩川散策

2020年02月04日 | Weblog
1月の中頃から風邪をこじらせ気管支炎を患っていた。熱はないものの薬のせいか体は怠く前向きな気持ちになれずにいた。3週間目に入り大分回復してきたので、リハビリを兼ねて多摩川の土手を散策してきた。六郷土手で電車を降りて多摩川駅まで歩いてみた。

まず驚いたのは昨年の台風の傷跡。河原敷きに泥やゴミが蓄積されているところがそこかしこにあり、かなり背の高い木の枝に藁くずやビニール袋などが沢山ぶら下がっていた。こんなところまで水嵩が上がってきたんだとビックリ。土手沿いの住民の方たちはどんなにか怖い思いをされただろうと改めて感じた。やはり現場に足を運ぶということはこういうことかと納得した。ニュースで聞いているだけではここまでの実感は湧かなかった。

あれから4か月近くがたち、今日の多摩川はいたって平和に流れていた。


そんな多摩川を眺めているご老人がいた。沢山のカモメを友人にして何を語っていたのだろう。何を見つめていたのだろうか。

今日は晴天を期待していたが、生憎空は厚い雲に覆われてきた。広く市民に開放された河川敷では、ゴルフやテニスを楽しんでいる人の姿が見られた。土手沿いの道では、たくさんの人がジョギングや散歩を楽しんでいる。気管支炎で仕事以外は外出を控え、ほとんど引きこもり状態だった私にとっては、多摩川の広々とした景色は久しぶりに気持ちをリフレッシュしてくれた。


ゴールの多摩川駅の傍に浅間神社があったので寄ってみた。境内から河原を眺めることができ、もう少し天候が良ければ富士山の雄姿も拝めるらしい。こんなところにも小さなビュースポットがあったなんて、ちょっと嬉しくなった。多摩川のお陰で気持ちが少し前向きに変わった一日だった。


お兄ちゃんの試練

2019年10月13日 | Weblog

 

次女に第二子が産まれました。可愛い可愛い女の子です。上の子は男の子。2年7か月でお兄ちゃんになりました。昔から男の子は育てにくいと言われてきましたが、見ている限り娘たち夫婦はさほどの苦労もなく上手に育児をし、これまでスクスクと育ってきたように思います。良くおしゃべりする、これまた可愛い可愛い男の子です。

そのお兄ちゃんに妹が生まれたことで大きな変化が! ヤダヤダマン全開です。「保育園には行かない。」「歯磨きなんか大嫌い。」「僕も赤ちゃんになりたい。」「おっぱいが飲みたい。」。。。。おもちゃを投げる、牛乳をぶくぶくしちゃう。。。産後の1ヵ月間、娘の家に泊まり込みでお手伝いに来ているばぁばはへとへとです。

でも、よく観察していると、子供ながらにいろいろと大人を試したり、自分の心と戦ったりしているのがよくわかり、そのけなげな姿がまたかわいい💛 ある時は、「保育園にはママと行く。ばぁばは赤ちゃんとお留守番してて。」と寝室に閉じ込められたり、またある時は、「ばぁば、大好き~~」と甘えてきたり。少年の心は揺れています。彼にとって一番つらいのが授乳の時間。機嫌よく遊んでいても急に荒れだし、今や、豆台風と化しています。本物の台風19号は大きな被害を出して日本列島を横切っていき、今日はスカッと秋晴れです。豆台風も秋晴れになってほしいところです。ちっちゃなちっちゃな豆台風も、人生の最初の試練をクリアしてお兄ちゃんになったことを受け入れられるといいなと願っています。まぁ時間の問題でしょうが。

それにしても娘三人を育ててきた私にとっては、新鮮な体験でした。やはり男の子と女の子は違うのでしょうね。こんな苦労は初めてです。若いパパとママもさすがに大変そう。ばぁばは1ヶ月過ぎたら引き上げますが、その後もしばらくは大変でしょうね。3人ともがんばれ~~ そんな騒動をよそに、赤ちゃんはお腹がいっぱいならスヤスヤと天使の寝顔を見せています。

 

 

 


ツールドモンブラン

2019年07月28日 | Weblog
 

6月の中頃から7月の頭にかけて、山の仲間とツールドモンブランに行ってきました。フランスのシャモニから、イタリア、スイスと経由してまたシャモニに戻る170キロの行程のうち、100キロ近くを7日間をかけて歩いてきました。毎日が晴天。シャモニでは記録的な暑さで42度を記録した頃です。標高2500メートルあたりのトレッキングルートを歩いている私たちの所でさえ32度でした。それでも、湿度が低いヨーロッパでは、日本の夏のような不快さはなく、雪渓の上を歩いたり、木陰に入ったりすれば、スーッと涼しさが戻ってきます。

  

海外の山歩きは初めての経験でした。7日間も歩き通したのも初めてです。牛たちが放牧されているのどかな風景の中からスタートして、高山植物がワーッと咲いている平原や雪渓の急斜面、眼下に村を眺めながらの急坂などを歩き、変化にとんだ素晴らしいコースでした。昨年参加した仲間は降雪も経験しているので寒さも心配していましたが、今回は晴天続きで暑さ対策が必要でした。

  

昨年から今年にかけての積雪量はとても多かったということで、その雪が今回の記録的気温上昇を受けて一斉に溶け出してきたため、あちこちに大小の沢が沢山でき渡渉の回数が半端なく多く、数か所はロープを張る必要があるほど水量が多いところもあり、ちょっとした冒険でした。それでも放牧地から上では沢の水が飲めるので、冷たい水で喉を潤すことができ幸いでした。 

 

フランス側から見るモンブランとイタリア側から見るボンブランとでは山の様子が大きく異なり、その名の通り「白い山」はフランス側からの景色でした。イタリア側からは谷を挟んで手を伸ばせば届くほど近くにそびえていましたが、南側ですので、雪はそれほど残っていませんでした。その代わり高山植物の花、花、花。とてもカメラには納めきれません。放牧されている牛は、7月に入るとエサを求めてだんだんと高地に移動してきます。それで、7月下旬ともなればこの高山植物が牛たちに食べつくされてしまうそうです。満開の花を見るには6月末が最高なんだとか。私たちはまさにその時期に行きました。本当に見事に咲いていました。 

 

スイスとフランスの国境バルム峠まで歩き、そこからシャモニまではロープウエイを乗り継ぎバスでシャモニに戻りました。ここで歩きながら見るモンブラン山群とはさよならです。日本の山々とはスケールも雰囲気も違うヨーロッパアルプスの一端に触れ、心に残る山旅でした。 


竹内栖鳳

2018年12月29日 | Weblog


ハスの葉の中の水がなんとイキイキしていることでしょう。ひと目ぼれです。作者は竹内栖鳳。上村松園の師です。熱海にあるMOA美術館で栖鳳の展覧会があると知り行ってきました。栖鳳の絵を改めて見るのは初めてです。でも私は以前から松園の大フアンでしたので、彼女の師の絵とはどのようなものなのか興味を持ったのです。そして一目ぼれ。


栖鳳の絵の「青」はとても魅力的に使われています。なんだか心が洗われるような青色です。


また、栖鳳は小動物や魚などを好んで描き、この絵のタイの目はまるで何かを語っているようでした。雀もよく題材にしていたようで、「チュン」と鳴く声が聞こえるように描かなければいけないと言っていたそうです。展示されていた作品数はさほど多くはありませんでしたがとても満足できました。


熱海にあるMOA美術館に来るのも初めてでした。そしてこちらも心地よい驚きでいっぱい。まず、入口に立つと駿河湾が見下ろせるのです。今日はあいにくの天気でしたが、晴れた日にはいかばかりか爽快な気分になることでしょう。建物そのものにも驚きが沢山詰まっています。上野の博物館や美術館に慣れた者にとっては、また違った美術館の楽しみ方を教えてもらった気分です。


MOA美術館は3点の国宝を所蔵しています。尾形光琳の紅白梅図屏風、野々村仁清の色絵藤花文茶壺、そして、奈良室町時代の手鑑です。今回は色絵藤花文茶壺を見ることができました。しっとりとした色合いがとても素晴らしい壺でした。紅白梅図屏風は年間60日しか展示できないため、梅の季節の時だけ展示するとのことでした。2月にまた来たいと思います。

暮れの慌ただしい中、今年1年の心の垢を落とそうと思い訪ねた美術館でしたが、思いがけず良い出会いがあり至福の時を過ごせました。

岩殿山

2018年12月11日 | Weblog

岩殿山に登りました。山名は知っていましたが、これまで機会がありませんでしたので今回が初めてです。まず、大月駅を降りると北側に大きな大きな絶壁がほぼ直角にそそり立っています。これが岩殿山です。あの山頂から一本の鎖が垂れていて、さあ、登ってくださいと言われたらすぐに帰宅したところですが、幸い山の東側から巻くようにして登るとのことで一安心。山の中腹にある丸山公園を目指して階段を上ります。このあたりから眺める富士の雄姿は素晴らしく、「富士山が一番美しく見える町」という立て看板には説得力がありました。大月市の南側に連なる山々の向こうに顔を出した富士の山は3割ほど真っ白な雪に覆われ、その雪の中に尾根の部分が黒い筋をひいてクッキリと浮かび上がり、静岡側から見る富士山とは趣を異にした「かっこいい」姿でした。

丸山公園の「ふれあいの館」を通り過ぎ、そのまま山道を進むとあっという間に岩殿山山頂に到着。標高634メートル、スカイツリーと同じ高さです。実はこの岩殿山には難攻不落の山城が築かれていたそうです。東西に長い大きな岩山はそのまま天然の要塞になり、実際に歩いてみると「なるほど」とよくわかります。この城は戦国時代小山田茂信が治めていました。織田信長に追われた武田勝頼が親戚筋である茂信を頼ってこの城に助けを求めた際、茂信は勝頼を裏切り入城を断ったことが武田家の滅亡につながります。あの城がここにあったのだと知り感慨深い気持ちになりました。


さて、岩殿山山行はこれからが本番です。「ここ登れるの~?」というような鎖場を数か所よじ登り先に進みます。一番怖そうな兜岩は残念ながら通行止め。右にぐるりと回りこんで進むと結構な下り坂に遭遇。張ってあるロープを頼りに気合を入れて20メートルほど降ります。その後、左手に街を見下ろしながら落ち葉を踏みしめて歩くと天神山のピークに到達。あの有名な稚児落としはまだかな~と言いながら歩くこと数十分。圧巻の「稚児落とし」に到着しました。600メートルに満たない標高にしては、高度感はなかなかです。何しろ200メートルの切り立った断崖絶壁の上から見下ろすのですから。ここで昼食をとり、秋色に化粧したモフモフ、フワフワの山肌の景色を十分楽しみました。


ところでこの「稚児落とし」は、先の小山田茂信につながります。勝頼を裏切った茂信が織田家に出向くと「武田勝頼を裏切るとは何たる不忠義もの」とあっさり処刑されてしまいます。それを知った茂信の側室は茂信の子二人、赤子と幼児を連れて岩殿山城を脱出するのですが、途中赤子が泣き出し、追手に見つかることを恐れた家臣が情け容赦なく断崖から赤子を投げ捨てたそうです。それがこの「稚児落とし」。なんともやるせない歴史を抱えた岩殿山ですが、歩くにはとても面白いコースで晩秋の山歩きを堪能できました。

日日是好日

2018年12月02日 | Weblog

http://www.nichinichimovie.jp/

樹木希林さんの遺作ということで話題になり、鑑賞したいと思いながらそのままになっていました。そして、日常の忙しさに紛れていつしか心のひだに埋もれてしまっていましたが、最近、禅語に興味を持ち始め、「日日是好日」という言葉に再度出会いました。黄檗宗少林山達磨寺の副住職広瀬大輔さんによれば、「好日」の「好」は「好悪」の好ではないとのこと。「『嵐か、よし、嵐なにするものぞ!』、『失ってしまったか、よし、どうにかこれを改善しよう!』と、積極的に生きる決意 "よし" がこの "好" なのです。」とのこと。
http://www.daruma.or.jp/zen/detail.html?zen_id=11
楽しい日でも苦しい日でも、そのままを受け入れ清々しく生きていけばそれが、日日是好日なのだとか。

樹木希林さん、黒木華さんの主演の「日日是好日」は、まさにこの禅の哲学を具現したような映画でした。冬至、小寒、大寒、立春、雨水など、二十四節気をモチーフにして、その季節季節のお茶のしきたりを横糸にし、主人公がひとりの女性として成長していく見事な作品でした。そして、最後に観客も「日日是好日」の深い意味を体得できるような仕掛けになっています。

数ヵ月後に定年退職を控え、今後の生き方を模索している私にとって、「日日是好日」は、座右の銘になりそうです。

雲洞庵

2018年11月04日 | Weblog
雲洞庵の土踏んだか・・・

新潟県南魚沼市にある金城山の麓に佇む雲洞庵。曹洞宗の禅寺です。「庵」とつくのは、このお寺が元々は尼寺だったことを物語っています。それほど大きなお寺ではありませんが、とても魅力的なお寺です。赤門から本堂に続く山道の下には、法華経の一石一字が書かれた石が埋められているそうで、この参道を通ってお参りするとご利益があると言われているそうです。赤門の両脇には大きなわらじが奉納されていました。



私たちが訪れたのは、11月3日、秋晴れの清々しい朝でした。開門と同時に境内に足を踏み入れると素晴らしい紅葉に目を奪われました。他に参拝客もなく、静かで秋色に輝く景色を独り占めでした。



風もなく、池に映る紅葉はまさに水鏡です。



今から1300年ほど前、奈良時代に藤原の鎌足の孫が母の菩提を弔うためにこの地に雲洞庵を建立したとのこと。その後600年ほどは尼僧院として女人救済のお寺として栄えていたそうです。上杉憲定が禅寺として再興してのちは、あの直江兼続や上杉景勝が幼少の頃、ここで学んだということです。



「毎日お寺でお勤めをしていても、紅葉の最盛期と天候とがこれほどピッタリ会うのは珍しいのです。今日は最高です。」と庭仕事の合間に紅葉をカメラに収めていました。それほどに見事でした。スマホの写真ではなかなか伝わりませんが。。。



八海山登山の帰りにふと寄り道しただけでしたが、何とも言えず充実した時間を過ごせました。



Rio de Janeiro の思い出

2018年08月26日 | Weblog


「思い出は沖の白帆になおも似て、遠くなるほど美しい」
この言葉は、中学を卒業する時に、先生が卒業アルバムに書いてくださった言葉です。

7月の末からお盆の時期まで、リオデジャネイロに出張する機会がありました。帰国してすぐは取り立てて書き留めておくこともないような気がしていましたが、時間が経ち、ふと写真を見返していたらやはり記録しておきたいと思うようになりました。

初めての南米大陸。敬愛するセバスチャン・サルガドのふるさとブラジル。その第2の都市、リオデジャネイロは、1960年にブラジリアが首都になるまで同国の首都でした。もっと言えば、ナポレオンに本国を追われたポルトガル王室がブラジルにやってきた時からブラジルが独立するまではポルトガルの首都でした。

そのためリオはポルトガルの影響をとても強く受けており、このことが、人口が海岸に集中しすぎていたことと相まって、1950年代に内陸部のブラジリアに首都を建設し移転することになった主な要因だったようです。



リオ・デ・ジャネイロとは、ポルトガル語で「1月の川」という意味です。ポルトガル人探検家ガスパル・ジ・レーモスがリオを発見したのが1502年1月で、グアナバーラ湾を川と勘違いしたこの探検家達が「1月の川」と名づけたそうです。そして、ポルトガル人たちの搾取が始まったのですね。。。



それはさておき、今回の出張先は、リオのダウンタウンから30キロほど西のバーハダチジュカ。2016年のリオオリンピックの際は、選手村や競技会場などが置かれたところです。このオリンピック公園の隣に、パビリオン6棟とオフィシャルホテルからなる大イベント会場リオセントロがあります。この中のパビリオン3が、イベント開催の前日に火事になり、会場が急遽変更になったのですが、そんなことには全く無関心のように何のアナウンスもなく、最初から会場はパビリオン5だったかのように粛々と開会式が始まったのでした。 さすがブラジル!!

と感心しているのも束の間。今度は開会式で授与されたフィールズメダルが授与されて1時間後に盗まれたのです! セキュリティーカメラに映っていた容疑者の顔写真が翌日には公開されましたが、案の定、I Dを身につけてはいませんでした。会場入口には物々しい数の警備員が配置されていましたが、仕事はしていなかったということでしょうか。そんなこんなで始まったイベントもなんとか無事に(?)終了しました。

会期は9日間と長丁場ですので、なか日は一日お休みになります。そこで、「リオデジャネイロ: 山と海との間のカリオカの景観群」として2012年に世界遺産リストに登録されたコルコバードの丘(巨大なキリスト像で有名)とパンデアスカル(砂糖パン)に行ってきました。



このキリスト像は、日本の富士山のように街のどこからでもよく見えます。上の写真のてっぺんにあるのがキリスト像です。高さ約40メートルですから巨大です。1931年のブラジル独立100周年を記念して建設されました。中は礼拝堂になっています。私が訪ねた時も多くの観光客で賑わっていました。麓からトリムに乗って山頂下まで行きます。下の写真がトリムの乗り場です。



パンデアスカルは、砂糖パンのような形をした岩です。リオの国立美術館にも行きましたが、200年以上前の絵画や設計図、写真に至るまで、リオの街を描いたものには全てこのパンデアスカルが記載されています。それほどに、これはリオの人々のシンボル的存在なのでしょう。



標高約400メートルの岩山の頂辺まで、ロープウエイをふたつ乗り継いで行きます。そこからの眺めは見事というほかはなく、眼下に国内空港が見下ろせ、次々に飛行機が飛び立っていくのが見られます。




湾内には無数のヨットが停泊し、何とも穏やかな光景です。



ダウンタウンを散策していたら、カセドラルで日曜礼拝が行われていました。リオは建築に関心のある人には興味のつきないところだそうで、この建物もそのひとつでしょうか。これがカセドラルです。中に入ってみましたら、ノリノリのメロディーで賛美歌を唱和していました。




ダウンタウンの中心地セントロ地区は、日曜日なのでどこもシャッターが下りていましたが、観光地のビーチでは、レストランもオープン。ここは、かの有名な「イパネマの娘」が作曲されたという名物カフェ、ガロタデイパネマです。



ブラジルを代表する音楽ボサノヴァ。その中でも世界的にヒットした「イパネマの娘」。カフェの外壁にも店内にも、その音符の一部が記載されています。アントニオ・カルロス・ジョビンが当時ここでボサノバのアーティストたちとよくお酒を飲んでいて、その頃、10代の美少女がよく母親のタバコを買いにここに来ていたそうな。その少女の後ろ姿からインスピレーションを得て、「イパネマの娘」が誕生したそうです。

イパネマはコパカバーナと並ぶ、世界屈指の綺麗な海岸で、確かに納得の美しさでした。



砂はクリーム色できめが細かくしっとりしていて、何とも心地よい肌触りでした。

マーケットにも立ち寄ってみました。





陳列の仕方が日本のものとは違い新鮮な感じです。

リオの空はあくまで蒼く、大らかでした。



イベントの後半はあっという間に終わり、リオでの最終日の朝焼けも見事なものでした。



ガレオン国際空港からフランクフルトまで11時間、フランクフルトから羽田まで更に11時間。まさに地球の裏側。長距離フライトも帰路の方が苦にならない。さようなら、リオ。ありがとう、リオ。
そんな気持ちで、リオを後にしました。



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アルジャーノンに花束を

2018年05月19日 | Weblog


「Flowers for Algernon」を読み終えた。最後の数ページは朝の通勤電車の中で読んでいた。涙が溢れてきてバッグを濡らしたが止めることができず、そのまま読み続けた。周りの人はどう思っただろうか。。。いやいや、都会のラッシュアワーで隣の人が泣いていても気に止める人など皆無だ。

最初に発表されたのは1959年だからかなりの古典で、小説の題名だけは聞いたことがあるような気がして読み始めたのだが、素晴らしい物語である。ジャンルとしてはSFモノになるが、宇宙人や近未来を扱ったものと違いヒューマンドラマである。知的障害を持つチャーリーが知能指数を高めるための試験的な手術を受け天才になっていくという設定である。チャーリーは32歳だが知能は幼稚園児並で、周りの友人たちが彼をいじめて大笑いしているのを見ては自分も一緒になって笑い、みんなに受け入れられていると思っていた。ところが手術後は徐々に知能指数があがり本当の姿を理解するようになる。幼い時の経験も蘇り、6歳のチャーリーが両親や妹からどのように扱われていたのかを理解するようになる。このあたりは大変衝撃的で悲しい。知的障害ゆえに母親に愛されなかったチャーリーは「頭が良くなりたい」といつも思っていた。そういう理由でこの科学実験の被験者になったチャーリーだが、知能指数が高いということと「人に愛される幸せ」とはイコールではないことを学んでいく。

作者のダニエル・キースは「いじめ」や「虐待」の原因について考え、知能と愛情との関係についても深く考えていたようである。天才になったチャーリーは障害者施設を訪れた際、かつての自分と同じ虚ろな目で訪問者を眺める入居者たちをみて、自分は決してここには入りたくないと思ってしまう。

物語はチャーリーの「progress report」という日記形式で書かれている。書き出しはこうだ。「progris riport 1 martch 3, Dr Strauss says I shoud rite down .....」 これには困った。知能指数が低い状態から日記を書き始めるので、スペルも文法も滅茶苦茶で始まる。きちんと書かれた英文ですら読むのがおぼつかない私のレベルでこれが読み通せるのか心配になった。でもまあ、なんとかストーリーにはついていけそうなので読み進めると、知能が上がるに従って、文章も使われている単語もグレードアップしていく。とても斬新な手法だと思った。

「アルジャーノンに花束を」と言うセリフは物語の最後のセンテンスに登場する。そして、ここが泣けるのである。この小説は映画化もされ、日本ではドラマ化もされているようなので、ストーリーをすでに知っている人も多いと思う。が、この物語の真髄はやはり読まないと得られないように思う。この作品はヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞している。物語の発想、展開、結末、手法、全てが図抜けている。

たまたま手にした「アルジャーノンに花束を」だが、この作品に巡り会えたことに感謝、感謝である。

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静かな幸せ

2018年01月08日 | Weblog


今年のお正月は、初めて夫と二人だけで迎えました。静かで寂しく物足りない元旦でした。
3人の娘達がそれぞれに家庭を持ち、お正月はそれぞれの夫の実家でお祝いをしているからです。
娘を持った悲しさだね~などと夫と話をしていましたが、大きな勘違いに気づきました。

娘たちには日頃言っていることがあります。「パパとママはどんな時もあなたたちの父親であり
母親なのだから、連れ合いのご両親に可愛がってもらいなさい。」と。

3人ともそれぞれの夫達の家庭に温かく迎え入れてもらい、可愛がられ新年を祝っているのですから
親としてこんなに幸せなことはない、ということに思い至りました。本当にそうです。
友人の中には、娘に子が出来た途端にその父親が姿を消してしまったり、精神的なDVで離婚騒動に
なったり。。。と辛い経験をしている人もいます。寂しいなんて贅沢です。

昨年は孫二人に恵まれ、どこの家の子よりも(!)元気に可愛く、すくすくと育ち、
若き母親たちもだんだんと親らしく落ち着きが出てきて
あ~、世代交代だなと感じているところです。親としてこんなに幸せなことが有りましょうか!
何かに感謝せずにはいられない気持ちです。
皆、健康で穏やかな1年が過ごせますようにと初詣で祈りました。

と、寂しがっていたのも束の間、1日の夜には長女達が夫婦でお泊り。
そのあとは、次女夫妻も孫を連れてきました。あ~、静かな年明けが懐かし~。
人間って勝手なものですね。。。

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雲取山

2018年01月03日 | Weblog


2018年元旦の日の出ではありません。これは2017年12月に登った標高2017メートルの雲取山山頂からの日の出です。
気温が低く、とても寒かったものの、天候に恵まれ気持ちの良い山行でした。2017年のうちにどうしても
2017メートルの雲取山に登りたくて駆け込みセーフの計画でした。

この時期は木々の葉も落ちて見通しも良くなり、また空気も澄んでいて、大雪にさえならなければ
気持ちの良い山歩きが出来ると思い12月にしました。三峰神社から入り鴨澤に下山します。山頂下の雲取山荘に一泊し、
夜には奥多摩の山々の向こうに街の灯が見え、オリオン座も北斗七星も綺麗に見えました。暖房のない山小屋の部屋は
とても寒く炬燵に足を入れたまま寝ました。翌朝は、キーンと冷え、歩き始めだけアイゼンが必要でしたが、
下山は雪もなく快適な歩きになりました。山頂から子雲取山までは富士山がお供をしてくれ、素晴らしい眺めでした。



遠くには南アルプスの峰々もくっきりと見え、八ヶ岳独特の稜線や浅間山も白く輝いていました。
気持ちの良い登り納めができ、2018年につなげられたらと思っています。今年の登り初めは大山からです。
健康で穏やかな1年を過ごせますように!

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秋を楽しむ

2017年10月01日 | Weblog


紅葉の季節が始まりましたので、かねてから訪れたいと思っていた涸沢ヒュッテに行ってきました。
週末とあり大変な人出でしたが、それはそれは見事な紅葉でした。スタート地点の上高地は
まだまだ緑が優勢でしたが、標高が上がるにつれて色付きが増し、ヒュッテの周りは正に最盛期。



百名山一筆書きで有名な田中陽希さんもヒュッテに来ておられました。そういえば、登山途中で
日の丸のマークをつけた筋骨逞しい男性が私たちをスイスイと追い抜いてまるで駆け抜けるような勢いで
登っていった人がいましたが、あれが田中さんだったようです。記念に一緒に写真を撮ってもらいました。
その後、彼は紅葉の景色の中で自撮りをしていました。



それにしても、前穂、奥穂、涸沢岳、北穂を眺めながらの紅葉は感慨深いものがあります。
来年はあの峰々の上に立ちたいという思いがこみ上げてきます。



翌朝にはかすかですがモルゲンロートも見ることができました。



登山道は素晴らしくよく整備されていて歩きやすい道でした。ガレ場も道なりに平らな石が敷き詰められていて
登山者に優しいコースだと思いました。片道6時間ですが初心者コースとされている所以かな。

翌朝は6時前にヒュッテを発ち、お昼には上高地に戻りました。帰りのバスの時間までかなり余裕があったので、
皆でウエストンのレリーフを見に行きました。



英国人宣教師ウォルター・ウェストンは1888年から1894年まで(一度目の来日)日本に滞在し、この間に
穂高岳を含め、日本各地の高山に登り、帰国後の1896年にイギリスで、『MOUNTAINEERING AND EXPLORATION
IN THE JAPANESE ALPS』(日本アルプスの登山と探検)を出版しました。ウェストンは、「趣味としての登山」
という概念のなかった日本に「山登り」という楽しみを紹介してくれた人として、上高地に石碑が建てられました。
それがこの碑です。梓川沿いの静かな山の麓にひっそりと佇んでいました。



梓川の辺の散策のあとは、帝国ホテルであの有名な「登山者のためのプリン」を食べようと立ち寄ったのですが、
生憎売り切れていて残念でした。それでも、その代わりに頂いたケーキセットは山で疲れた体を癒してくれるのに十分でした。



次回はウェストンのガイド役だった嘉門次さんの小屋で提供される岩魚を食べにまた来たいと思いながら
上高地、涸沢、そして穂高連峰をあとにしました。最高のお天気に恵まれ、秋をとことん満喫できました。

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