ご飯を作る使用人のことを「おさんどん」と呼ぶのは、三度三度ご飯を作るからだと思っていた。すなわち「おさんどん」=「お・さんど・ん」と考え、語頭の「お」と語尾の「ん」をとると「さんど」。これを「三度」と解したのである。だが、夏目漱石の「吾輩は猫である」に出てくる使用人(「吾輩」を主人宅に連れ帰った)は「おさん」と呼ばれている。ってことは、「どん」は西郷どんの「どん」と同く尊称の「殿」のくだけた形であり、「おさんどん」=「おさん・どん」と考えるべきか。すると「さんど(三度)」を根拠とする私の説は拠って立つところを失うこととなる。しかも、一日三食になったのは江戸時代からであり、それまで二食だったことを思い合わせると、「三度三度ご飯を作る」説は崩壊したと言わざるを得ない。潔く白旗を揚げよう。因みに、ドン・ジョヴァンニの「ドン」も尊称であり、偶然だろうが、和洋の一致を見るのである。
いずれにせよ、私がおさんどんであることには間違いない。ご奉仕申し上げる相手は猫様方である。痛風で足が痛くても、そんなことはご主人様にはかかわりのないこと。毎日三度三度決まった時間になると、脅迫鳴きをして私に奉仕をせがむ。その間、通風で痛む私の足を踏むこともしばしば。
ところで、猫様が廃油缶を倒して油を舐めたり食品庫から引っ張り出してぶちまけた小麦粉を舐めてお腹を壊して床で「シリコスリ」をしてさらに「おさん(私)」の仕事を増やしたことを書いたがその後はどうかと言うと、シンクをすのこで被い、ゴミ箱にはボーズのスピーカーを重しとして置き、食品庫の扉前には空気清浄機を置く等の本格的対策が効を奏し、「事件」はぷっつり起きなくなった。それでも、わずかな油断を見逃す彼らではない。むしゃむしゃ音がするから見ると、しまい忘れた猫缶の中身に食らいついている。狙われるのは猫フードだけではない。私のお椀によそったご飯をちょっと目を離したすきに食べていた。私のお椀によそったのは私が食べるためであって猫様方のためではない。当たり前だ、と思うのはしかし人間だけで、猫様方からすれば目の前にある食べられるものはすべて自分のためのご馳走なのであり、それを取り上げようとする人間の行為は略奪以外のなにものでもないのである。
そうやってつまみ食いをしたとしても、猫フードはもちろんご飯だって毒ではない。昔の猫は、「猫まんま」と言って米飯を食べていた(食べさせられていた)。人間だって米飯ばかり食べていると脚気になる。ましてや猫は肉食動物なのだから米飯だけで十分なわけはない。だから昔の猫は短命だったのだろう。だが、毒ではないのだからそれが原因ですぐにどうこうということはない。その他、良からぬものを食べた形跡は絶えてない。だからか、最近の猫様は滅多に吐かなくなった。いくぶんふっくらしてきた感じもする。
以前は、猫の成人病(成猫病)を気にするあまり肥満にならないことだけに気を遣ってきたが、私と同じで(つうか、実年齢は私より10歳は上である)、これから成猫病って心配はうすいだろうから、太ってほしいと願っている。だから良い傾向である。
私のわずかな隙を見逃さない猫様方も、「今日は戸締まりが万全だ」と観念すると(空き巣か?)、一転、くつろぎモードになる。
例によって、真ん中に私を置き、左右に分かれてくつろぐお猫様方である。さしづめ私は、荒川と綾瀬川が一番近くなったところの両川の間にある土手である。
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