韓国はまさに食の宝庫だった。中国、韓国と週末ごとに国を代えて過ごすという贅沢な生活。その中で一番の楽しみは食べること。私はその国の食を目一杯食べることを心掛けているが、今回も食べ過ぎた。毎日、焼肉三昧。
オフの二日間、夕食は全日本プロレス・チームの西村修、征矢学、ボンバー斉藤レフェリーと合流。ホテル付近の韓国料理屋で、食べて飲んだ。西村選手は世界を回ってきただけに、博学の持ち主。とにかく飲 . . . 本文を読む
マルティナ・ナブラチロワ…チェコスロバキアから亡命し、ウインブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。
クリス・エバート…アイスドールという異名を持ち、冷静沈着なプレイヤーとして全仏オープン女子シングルス「7勝」の大会最多優勝記録保持者。4大大会女子シングルス通算「18勝」は、 . . . 本文を読む
”イス大王”こと栗栖正伸がメキシコ遠征していた80年代初頭、ルードという立場でマスカラスとも何度か対戦していたのだ。メキシコではヘビー級のトップだけに、マスカラスは栗栖をものともしなかった。今となっては貴重な写真となった。 . . . 本文を読む
私にとって12年ぶりの韓国は実に新鮮な旅となった。NKPWA(新韓国プロレス協会)の大会に日本の女子選手をブッキングしての渡韓だが、興行というよりもTVテーピングが目的。それでも観客はプロレス・ファンで埋められたため、アメリカ的なノリで第一試合から盛り上がった。
風香はKAZUKIと、この日がデビュー戦というキム・チヘイとの3WAYで対戦。地元のキムに声援が集まると思ったが、風香のたたづまいに . . . 本文を読む
長谷川咲恵&デビー・マレンコの”日米新世代コンビ”は、私にとって懐かしいチームだ。発展途上の爽やかな二人を組ませ、当時の小橋健太&ジョニー・エースをなぞったのだ。正直言ってその頃はあまり仲がいいとは言えなかったが、とても魅力的なチームではあった。スタイナー・ブラザースを真似たポーズも様になっていたし、未来を感じさせるには十二分だった。2001年にアルシオンの企画でデビーを8年ぶりに招聘したが . . . 本文を読む
ウルティモ・ドラゴンのプロデュースした「ルチャ・フィエスタ」に行ってきた。会場はお台場にあるZepp Tokyoだ。この大会、一言で面白いパッケージだった。女子あり、ミニあり、オカマあり、そしてエストレージャあり…それぞれの試合が絶妙なバランスで構成されていた。観客は一見さんが多いため、単純明快な方がいい。
この日のベストバウトはミニの対決、マスカリータ・ドラダvsペケーニャ・ダミアン666 . . . 本文を読む
秘蔵サイン集の中から、外国人スポーツ選手や歌手、俳優のお宝を披露します。
モハメド・アリ…史上最高の知名度を誇る偉大なボクサーで、世界ヘビー級王座を2度獲得。ジョー・フレージャー、ジョージ・フォアマンとの対決は歴史に残る試合だった。”蝶のように舞い、蜂のように刺す”という軽快なフットワーク、予告KOと話題を振りまき、その極めつけは猪木との異種格闘技戦。
ジョージ・フォアマン…。「象をも倒す . . . 本文を読む
今や大御所になったマスカラスだが、70年代はまだ30歳代だっただけに、この世界の大御所との顔合わせも多く実現している。特に日本では同じシリーズに参戦したガイコク人レスラーとのツーショットは貴重な限りだろう。
▲ボボ・ブラジルと並ぶ。昭和47年5月の写真だ。
▲テキサスでのライバルだったジョニー・バレンタインと。
▲2大正統派であったビル・ロビンソンと。 . . . 本文を読む
全女の専属カメラマンになったばかりの私に、朗報が舞い込んだ。「12月にグアムで興行があるんだけど、撮影に来てほしい」と松永社長から撮影依頼がきたのだ。当時20歳、海外に行ったことなど無く、「こんな重要な仕事を任されて、大丈夫だろうか…」と、プレッシャーを感じたが要望には応えなければならない。カメラマンの仕事では、試合などを撮影したポジフィルムを現像して事務所に持参していくたびに、5万円のギャラを . . . 本文を読む
▲自宅を初めて雑誌で見せた。
▲ドス・カラスとの特訓風景も茨城さんの成せる業。
▲ALLLのベルトを巻いた勇姿。
今回はあのW★ING茨城清志代表が、海外通信員時代に撮影された写真の中から何枚か紹介しよう。茨城さんは月刊プロレスの編集者を経て、単身アメリカに渡り通信員となったこの世界の先駆者だ。「華麗なる世界」のパート2では巻頭から自宅を披露したり、ドス・カラスとのトレーニングも公開し . . . 本文を読む
日本では時間を気にして生活しているため、南京での5日間は比較的のんびりできた。部屋でも特にやることがなく、TVを見ても、言葉がわからないから面白くもない。だから十二分な位に睡眠を取ったのだ。日本では考えられないほど寝れたし、休養万全だった。それにバスルームで湯船に浸かりながら、なんてのも至福の時間だった。
散打のナショナルチーム強化選手である魏守雷(ウイ・シュウレイ)が何かと便宜を図ってくれ、 . . . 本文を読む
この2枚の写真は私が初めのメキシコ旅行の際、エル・トレオのバックステージで撮影したマスカラスのポーズ写真だ。1990年12月30日というから、もう18年も前のことだ。メキシコ旅行の最終日に念願のトレオに行くことが出来た。メインカードはマスカラス&イホ・デル・サント&ティニエブラス親子vsブラソス&カネックだった。ブラソスもオロ、プラタ、エル・ボラソと揃っているのが、今となっては懐かしい。
私 . . . 本文を読む
初めての中国、それも南京に行ってきた。普通なら北京か上海に行くものだが、今回は風香の散打修行に同行取材。とにかく言葉がわからない。同じ漢字でも読み方が全く違うから、もう身振り手振りしかなかった。短い滞在だったが、それでも十分、成果はあったと思う。思いのほか楽しかったのだ。
南京大学内のユースホステルみたいなホテルに泊まり、構内には学生を対象にした食堂も完備する。中国全土がそうであろうが、南京 . . . 本文を読む
マスカラスのゴングか、ゴングのマスカラスか…こんなフレーズでマスカラスを売りまくったのが、昭和時代のゴング誌だった。何しろ初めて掲載してから、初来日まで約3年間、ゴングはマスカラスの写真や記事を載せまくった。これもマスカラス番記者だった竹内宏介氏の、努力の成せる業でもあったのだ。
我々は”竹内ワールド”に酔い、マスカラスを追い続けた。ゴング誌は毎回、毎回、マスカラスを表紙に起用しその人気を煽 . . . 本文を読む
「かけめぐる青春」で歌手デビューしたビューティ・ペアだが、最初は鳴かず飛ばずだった。しかし昭和51年6月にマキ上田はジャンボ宮本を破り、デビュー1年3ヶ月で早々にWWWA世界王者になった。ジャッキー佐藤もキャリア1年5ヶ月で同年10月、第2回ワールド・リーグ戦」で優勝。今では信じられないハイ・スピードでトップの座に駆け上がっていった。世界のベルト、ワールド・リーグ戦という響きはプロレス・ファンの . . . 本文を読む