私にとっては、1人でボーッとする時間が、いちばん大切。
つくづく、本当に無為な時間の過ごし方だと思う。
普通の人は、あれをやろう、これがやりたい、と、
きっと、もっといろいろな欲求がわいてくるのだろう。
そして、そういった欲求を持てる人が、
何かをうみだすことができるのだろうと思う。
でも、私は、ただただ虚ろである時間が一番たのしい。
自分の血も、肉も、皮膚もなくなったかのように静謐になり、
その場で聞こえる音や波長に、
ただただ揺られているだけの時間が一番いい。
幼い頃からそうだった。
だから、なかなか宿題は終わらない。
勉強はしないし、課題もやらない。
一日中でもボーッとしていられる。
そして、母に怒られた。
今日は、通勤の満員電車のなかで、
昨日読んだ維摩経の内容を反芻し、
身近なことに置き換えて考えてみようと思った。
そうしたら、いつの間にか思考が中断して、
ひたすら自分が透明になったような錯覚に陥って、
ほんの少しの時間だけど、頭の底からボーッとした。
生産性のない時間の過ごし方だから、本当に自分が情けなくなるけれど、
もっとこんなボーッとする時間がほしい。
それで金銭的に貧しくなるのなら、それでもしょうがないか、と思い始めた。
つくづく、本当に無為な時間の過ごし方だと思う。
普通の人は、あれをやろう、これがやりたい、と、
きっと、もっといろいろな欲求がわいてくるのだろう。
そして、そういった欲求を持てる人が、
何かをうみだすことができるのだろうと思う。
でも、私は、ただただ虚ろである時間が一番たのしい。
自分の血も、肉も、皮膚もなくなったかのように静謐になり、
その場で聞こえる音や波長に、
ただただ揺られているだけの時間が一番いい。
幼い頃からそうだった。
だから、なかなか宿題は終わらない。
勉強はしないし、課題もやらない。
一日中でもボーッとしていられる。
そして、母に怒られた。
今日は、通勤の満員電車のなかで、
昨日読んだ維摩経の内容を反芻し、
身近なことに置き換えて考えてみようと思った。
そうしたら、いつの間にか思考が中断して、
ひたすら自分が透明になったような錯覚に陥って、
ほんの少しの時間だけど、頭の底からボーッとした。
生産性のない時間の過ごし方だから、本当に自分が情けなくなるけれど、
もっとこんなボーッとする時間がほしい。
それで金銭的に貧しくなるのなら、それでもしょうがないか、と思い始めた。