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【小倉百人一首】91:後京極摂政前太政大臣

2014年10月01日 02時10分54秒 | 小倉百人一首
後京極摂政前太政大臣

きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣片敷き ひとりかも寝む

本名は九条(藤原)良経。父は兼実で、祖父は忠通。鎌倉幕府成立直後、朝廷の最高権力者であった父・兼実の威光で順調に昇進していくが、兼実の意向によって征夷大将軍になった源頼朝は、娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させるために丹後局(かつての後白河の寵姫・宣陽門院の母でこの当時の朝廷の実力者)と、それに仕える土御門通親(村上源氏)に近づく。土御門通親は良経に官位で越された際には頭にきて出仕拒否を起こしたほどの反兼実派。そのため頼朝は兼実から距離を置き、土御門側に寄り添ったため、兼実は後ろ盾を失う。さらに、後鳥羽天皇に入内させていた兼実の娘・任子が男子を産まず、通親の養女・在子が皇子(後の土御門天皇)を産んだことで権力の失墜は決定的となる。
こうして兼実は政界を追われることになり、主だった貴族はみな土御門派に乗り換える。これを建久七年の政変という。西暦では1196年である。

ちなみに頼朝の長女・大姫は北条政子との間に最初に生まれた子で、実は結婚歴がある。
1183年、以仁王の令旨により挙兵した源義仲は信越に勢力を伸ばし、都への出兵を企図するが、背後を源頼朝につかれる懸念をかかえていた。頼朝も京へ攻め込みたかったが、関東を固めることに固執する配下の武士たちの意向を無視できるほど地盤は盤石ではなかった。そのため頼朝は義仲に平家討伐の先を越されることで、義仲が源氏の棟梁になってしまうことを恐れていた。そして駆け引きの結果、義仲の嫡男・義高が大姫を娶る形で頼朝側の人質になることで同盟が成立した。
しかし平家を京から追い、代わりに君臨した義仲は北陸宮(以仁王の遺児)を次代の天皇に推挙するという暴挙や、飢饉続きで兵糧不足に悩む兵士たちが京で狼藉をはたらいたことで朝廷の支持を落としてしまった。さらに平家追討のために出兵した播磨でも戦果を挙げることができず、その間に後白河は頼朝を京へ呼んで義仲を追い落とさせようとしたことが、史上名高い「寿永二年十月宣旨」につながる。
朝廷・平家・頼朝とすべてを敵に回した義仲は、京へ戻ったあと、御所を襲撃(法住寺合戦)して力づくで官軍の体裁を得るも、京へ攻め込んできた源義経・範頼勢と戦い敗れ、粟津で敗死する。はるか後、松尾芭蕉は義仲の生き方に感銘を受けたようで、墓所は義仲と同じ義仲寺とした。
京へ上るまでは連戦連勝でまさに「朝日将軍」の名にふさわしい武威を示した義仲だったが、頼朝と違い朝廷の内情に通じた家臣を持たなかったことや、飢饉による兵糧不足を招いたことは不運だったといえる。
さて、こうなると頼朝の元にいた義高は、人質としての価値がなくなったしまったために、いつ殺されてもおかしくない状況になる。だが、この時6歳(数え年)だった大姫は義高が処刑されることを耳にし、なんと彼を自分の従者に紛れ込ませて逃がしてしまう。義高はこの時11歳だったので夫婦とはいっても形式だけだったと思われるが、幼いなりに気持ちが通じ合っていたのだろうか。だが義高は入間河原で追っ手に討たれたため、大姫はショックを受けて病床に伏せてしまう。怒った母・政子は頼朝に詰め寄り、結果、義高を討った武士はさらし首にされてしまうのだから命令sれた側にとってはたまったものではない。

その大姫は後鳥羽への入内前に死去したため、三女・三幡を代わりにたてる。そして入内のために朝廷とのあらたなつてを探る頼朝は兼実に接近するが頼朝自身が急死したために兼実はついに復権することはなかった。ちなみに頼朝の死因は実ははっきりしておらず、兼実の日記『玉葉』では水の事故と記述があるが、そのほかにも落馬説など様々ある。その後の700年以上にわたる武士の時代を確立した一代の英雄の死としてはさびしいものがある。

土御門通親は外戚として朝廷の最高権力者となり、1198年には周囲の反対を押し切って強引に土御門を即位させる。
が、その絶頂期の1202年に死去。これ以降は後鳥羽上皇の院政が始まる。

良経は味方のないままで、朝廷で孤立することになるが、後に孫は鎌倉幕府の第4代将軍となる。