気まぐれで始めたコーナー。
ミナミは百人一首に対する知識は全然ないですが、歴史は好きなので歌の解説とかじゃなく作者の経歴に焦点をあてて書いてみます。
天智天皇
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
いわずと知れた大化の改新の主役。
645年、中臣鎌足と共に乙巳の変で当時権勢を誇った蘇我氏を滅ぼし、翌日、当時の天皇であった皇極天皇(35代)からその弟にあたる孝徳天皇を即位させて自身は皇太子となる。ちなみに皇極は天智の母、孝徳天皇は叔父にあたる。
で、大化の改新と呼ばれる一連の改革を行うことでこれまで飛鳥地方の豪族が権力を握っていた国政を天皇中心の国政にかえる。具体的には公地公民制・班田収授法により、全ての土地は天皇のものであり、それを国民に貸し与える、という制度を作り上げた。他にもいろいろあるけど最大のものは朝鮮半島への出兵、いわゆる白村江の戦いだろう。
当時、朝鮮半島は新羅・百済・高句麗の三国があったが、唐が新羅と結んで他の二国を滅ぼした。隋の時代には高句麗に4度も出兵したがいずれも失敗していたため、遠交近攻策をとったわけだ。
それに対して百済の遺民たちは復興運動を続けつつ、日本にも救援要請をした。実は百済の王子は日本におり、それを祖国復興の旗印とする目的もある。日本は大軍を送るがこれは周知のとおり失敗に終わる。
ただ、大化の改新の内容については当時本当に行われたかどうかいろいろ疑問がでてたり、そもそも大化の改新の中心人物だったのかどうかすら議論がでたりする。まぁここまで昔の話はあいまいなことはたくさんある。
その後孝徳天皇が崩御して、皇極天皇が再び天皇位につき斉明天皇(37代)となる。が、実権は中大兄皇子が握り続けた。ちなみに孝徳天皇の最後は悲惨で、難波京に遷都した孝徳天皇と、元の飛鳥宮に環都を主張する中大兄皇子の間で意見が対立した結果、なんと中大兄は天皇を置き去りにして皇太后(皇極)、孝徳天皇の皇后(中大兄の妹)たちを引き連れて飛鳥宮へ帰ってしまい、孝徳だけがぽつりと取り残され、そのままさびしく崩御するのである。
斉明天皇が崩御した後、皇太子だった中大兄が当然即位するはずなのだがなぜか即位せず、天皇が空位の時代が約7年続く。これは古代史の謎のひとつとされてる。
天皇に即位したあと、弟の大海人皇子を皇太弟に立てて、次の皇位継承者とするけど、結局大海人皇子は剃髪して辞退してしまったため、自分の息子の大友皇子を皇太子にする。
そして天智天皇が崩御すると大友皇子が即位するのだが途端に吉野で隠居していたはずの大海人皇子が叛旗を翻し、いわゆる壬申の乱が起こる。
勝利した大海人皇子が天武天皇となり、大友皇子は憐れなことに即位してたにも関わらず長い間天皇として認められてなかった。
明治時代になってようやく天皇として数えられるようになり、そこで初めて弘文天皇という諡号がおくられる。
諡号について触れると、漢風諡号(○○天皇)というのは崩御後に贈られるものなので、生前は○○天皇と呼ばれることはない。なのでもし歴史小説で在位中の天皇を○○天皇と呼ぶセリフがあればそれは過ち。わかりやすくするためにあえてそれを使いますと作者が断わる場合は別だけど。
諡号は元々中国の王朝が使ってたもので、生前の業績から選別されるのだが、中国の場合、例えば周王朝を一度滅亡寸前にしてしまった「霊王」や隋で悪政を敷いた「煬帝」のように貶めるものも使われる。が、日本の場合はそういう貶める諡号が使われることはない。他には過去の天皇の業績に似てるから、という理由で「後○○天皇」という諡号になる場合もある。あと、不遇な崩御の仕方をした天皇場合は、その祟りを恐れてあえて立派な諡号を贈ることもある。
崩御後に贈られると書いたけど、唯一例外が南北朝時代の後醍醐天皇で、この人は生前から後醍醐天皇と名乗ってた。醍醐天皇にあこがれてたから。
もっと書くと、そもそも漢風諡号が始まったのは奈良時代からで、それまでの天皇に諡号は当然なかったがまとめてつけられてる。
壬申の乱に話を戻すと、その後の皇統は天智系・天武系の2つのうち天武系が占めるが、それも称徳天皇(46代)で途切れて、天智系の光仁天皇に移り、次代の桓武天皇が平安京への遷都を行う。
┳舒明
┗茅渟王┳皇極(斉明)┳天智┳弘文
┗孝徳 ┃ ┣志貴皇子━━━━━━━━━━光仁━桓武
┃ ┣━━━元明 ||
┃ ┗持統 ||━━━┳文武━聖武┳井上内親王
┃ ||━━草壁皇子┗元正 ┗孝謙(称徳)
┗━━━天武━舎人親王━淳仁
上の系図はごちゃごちゃしすぎてわかりづらいが、即位の順番は以下のとおり
舒明->皇極->孝徳->斉明->天智->弘文->天武->持統->文武->元明->元正->聖武->孝謙->淳仁->称徳->光仁->桓武
||は婚姻関係
ちなみに百人一首に収録されてる天皇は
天智天皇
持統天皇
陽成天皇(百人一首では陽成院という名前で収録)
光孝天皇
三条天皇(百人一首では三条院という名前で収録)
後鳥羽天皇(百人一首では後鳥羽院という名前で収録)
順徳天皇(百人一首では順徳院という名前で収録)
がいて、この中では後鳥羽院が歌人として非常に優れてて、逆に天智天皇の歌はそもそも本当に本人が詠んだのかどうかはっきりしてないのが意外と適当というか、どういう事情があるのか気になるところである。ちなみに天皇が詠んだ歌のことを「御製」という
ミナミは百人一首に対する知識は全然ないですが、歴史は好きなので歌の解説とかじゃなく作者の経歴に焦点をあてて書いてみます。
天智天皇
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
いわずと知れた大化の改新の主役。
645年、中臣鎌足と共に乙巳の変で当時権勢を誇った蘇我氏を滅ぼし、翌日、当時の天皇であった皇極天皇(35代)からその弟にあたる孝徳天皇を即位させて自身は皇太子となる。ちなみに皇極は天智の母、孝徳天皇は叔父にあたる。
で、大化の改新と呼ばれる一連の改革を行うことでこれまで飛鳥地方の豪族が権力を握っていた国政を天皇中心の国政にかえる。具体的には公地公民制・班田収授法により、全ての土地は天皇のものであり、それを国民に貸し与える、という制度を作り上げた。他にもいろいろあるけど最大のものは朝鮮半島への出兵、いわゆる白村江の戦いだろう。
当時、朝鮮半島は新羅・百済・高句麗の三国があったが、唐が新羅と結んで他の二国を滅ぼした。隋の時代には高句麗に4度も出兵したがいずれも失敗していたため、遠交近攻策をとったわけだ。
それに対して百済の遺民たちは復興運動を続けつつ、日本にも救援要請をした。実は百済の王子は日本におり、それを祖国復興の旗印とする目的もある。日本は大軍を送るがこれは周知のとおり失敗に終わる。
ただ、大化の改新の内容については当時本当に行われたかどうかいろいろ疑問がでてたり、そもそも大化の改新の中心人物だったのかどうかすら議論がでたりする。まぁここまで昔の話はあいまいなことはたくさんある。
その後孝徳天皇が崩御して、皇極天皇が再び天皇位につき斉明天皇(37代)となる。が、実権は中大兄皇子が握り続けた。ちなみに孝徳天皇の最後は悲惨で、難波京に遷都した孝徳天皇と、元の飛鳥宮に環都を主張する中大兄皇子の間で意見が対立した結果、なんと中大兄は天皇を置き去りにして皇太后(皇極)、孝徳天皇の皇后(中大兄の妹)たちを引き連れて飛鳥宮へ帰ってしまい、孝徳だけがぽつりと取り残され、そのままさびしく崩御するのである。
斉明天皇が崩御した後、皇太子だった中大兄が当然即位するはずなのだがなぜか即位せず、天皇が空位の時代が約7年続く。これは古代史の謎のひとつとされてる。
天皇に即位したあと、弟の大海人皇子を皇太弟に立てて、次の皇位継承者とするけど、結局大海人皇子は剃髪して辞退してしまったため、自分の息子の大友皇子を皇太子にする。
そして天智天皇が崩御すると大友皇子が即位するのだが途端に吉野で隠居していたはずの大海人皇子が叛旗を翻し、いわゆる壬申の乱が起こる。
勝利した大海人皇子が天武天皇となり、大友皇子は憐れなことに即位してたにも関わらず長い間天皇として認められてなかった。
明治時代になってようやく天皇として数えられるようになり、そこで初めて弘文天皇という諡号がおくられる。
諡号について触れると、漢風諡号(○○天皇)というのは崩御後に贈られるものなので、生前は○○天皇と呼ばれることはない。なのでもし歴史小説で在位中の天皇を○○天皇と呼ぶセリフがあればそれは過ち。わかりやすくするためにあえてそれを使いますと作者が断わる場合は別だけど。
諡号は元々中国の王朝が使ってたもので、生前の業績から選別されるのだが、中国の場合、例えば周王朝を一度滅亡寸前にしてしまった「霊王」や隋で悪政を敷いた「煬帝」のように貶めるものも使われる。が、日本の場合はそういう貶める諡号が使われることはない。他には過去の天皇の業績に似てるから、という理由で「後○○天皇」という諡号になる場合もある。あと、不遇な崩御の仕方をした天皇場合は、その祟りを恐れてあえて立派な諡号を贈ることもある。
崩御後に贈られると書いたけど、唯一例外が南北朝時代の後醍醐天皇で、この人は生前から後醍醐天皇と名乗ってた。醍醐天皇にあこがれてたから。
もっと書くと、そもそも漢風諡号が始まったのは奈良時代からで、それまでの天皇に諡号は当然なかったがまとめてつけられてる。
壬申の乱に話を戻すと、その後の皇統は天智系・天武系の2つのうち天武系が占めるが、それも称徳天皇(46代)で途切れて、天智系の光仁天皇に移り、次代の桓武天皇が平安京への遷都を行う。
┳舒明
┗茅渟王┳皇極(斉明)┳天智┳弘文
┗孝徳 ┃ ┣志貴皇子━━━━━━━━━━光仁━桓武
┃ ┣━━━元明 ||
┃ ┗持統 ||━━━┳文武━聖武┳井上内親王
┃ ||━━草壁皇子┗元正 ┗孝謙(称徳)
┗━━━天武━舎人親王━淳仁
上の系図はごちゃごちゃしすぎてわかりづらいが、即位の順番は以下のとおり
舒明->皇極->孝徳->斉明->天智->弘文->天武->持統->文武->元明->元正->聖武->孝謙->淳仁->称徳->光仁->桓武
||は婚姻関係
ちなみに百人一首に収録されてる天皇は
天智天皇
持統天皇
陽成天皇(百人一首では陽成院という名前で収録)
光孝天皇
三条天皇(百人一首では三条院という名前で収録)
後鳥羽天皇(百人一首では後鳥羽院という名前で収録)
順徳天皇(百人一首では順徳院という名前で収録)
がいて、この中では後鳥羽院が歌人として非常に優れてて、逆に天智天皇の歌はそもそも本当に本人が詠んだのかどうかはっきりしてないのが意外と適当というか、どういう事情があるのか気になるところである。ちなみに天皇が詠んだ歌のことを「御製」という