災害予防調査会(プラネット通信ブログ)自治州と環境と防災と新エネルギー

防災環境研究30年。危険な高層ビルや地下開発が進まないよう、防災環境基準作りと対策を州で行うよう訴えるブログを開設した。

集団的自衛権と岸信介の60年安保改定ー安倍首相の勘違い1

2014-07-11 22:03:47 | 憲法
前書き
今週中に書くと約束したので明日には立派なホームページに引っ越して、タイトルのことから「環境防災クラブ準備会」をはじめる予定です。
、約束を守って資料を集めてる証拠にまずこれから書くことの引用文献を前書きとする。

(1)安倍のおじいさん岸信介と我妻栄については我妻栄『民法案内1 私法の道しるべ』(勁草書房)付録「私の試験勉強」よりp230「いま世にときめく自民党の幹事長(当時後の総理大臣)岸信介君と特に親しくなったのはこの時からである。」p234「とにかく岸君は秀才だ。学者になっても立派な学者になったと思う。」と安保条約改定前の保守合同直後昭和31年書いている。戦犯岸の助命嘆願もやったらしいとのweb情報あり。
安保条約改定のときに袂を分かつこととなったらしい。日米安保条約改定後、岸は我妻が「総理を辞任せよ」と朝日新聞に寄稿した直後に辞任したという。
なお、我妻栄は戦後家族法を改正したときからの民法の戦後の一番の大家であって、司法試験から公務員試験上級甲種、司法書士公認会計士から労働基準監督官まで法学の受験勉強の基本書は、ずっと我妻栄だったほどの人である。
90年代に日米貿易交渉の一環でアメリカ法学が重要視される前には法学を学んだ人ならしらぬひとがないほどの学者だった。


(2)小泉首相のお目付け役をして売り出した塩じい塩川正十郎が岸信介の思い出を書いているが、岸にとって新安保条約改定の真意が「新技術を導入して日本経済を発展させることにあった」ことが塩川の「ナイロン」証言でわかる。技術導入と高度成長についてはこの後詳細を大内力(大内兵衛の子)編『現代日本経済論』(東大出版)ほかで私の感想述べる予定。
なお塩じいが青年会議所枠で初当選後であった岸信介は、「昭和の妖怪」ではなく弟の佐藤首相より気さくないい人だったらしい。月刊文芸春秋2010年3月号


(3)渡辺洋三・岡倉古志郎編『日米安保条約 その解説と資料』(労働旬報社)
安倍首相がやっていることは、塩じいの発言を聞いても岸信介の本意とは異なる。本書は莫大な資料でその中心は安保改定直後からの自民党安保調査会の中間報告や議事録である。安倍が洗脳されているのはこの論理ではないか?ところがこの委員会には岸信介は入っていないし、後で述べるが安保条約を双方向に日本もどんどん軍事的に進化することは岸の想定にはなかったのではないかと思う記述がある。
特にp201からの「Ⅱ国連警察軍および待機軍拘束についてー憲法上ならびに自衛隊法上の諸問題」は前国会の砂川事件最高裁判決や1972年参議院決算委員会提出の政府見解閣議決定「根底から覆される」などと並んで、自民党がなぜ前文削除にこだわるかを含めて、由来が書いてあると思うので、国会議員がみな一読すべきと思う。

(4)災害予防調査会プラネット・メイスン・スミスの岸新安保条約と伊勢湾台風すり替え論

 岸信介は、60年安保70年安保以後の世代以後は「何をやったか知らないが安保条約を改悪して対米従属とベトナム補給基地に日本をした」のイメージである。
もちろん私もそうだった。

「昭和の妖怪岸を社会党は党代表にしようとしたことがある」などと誰かに指摘されたら即社会党から逃げ出すほどイメージが悪い。
わが国では災害のたびに「東大戦争研究所」が国会追求をされないために他の問題にすり替える。阪神大震災のときは2月までは地震のことを追求していたテレビや新聞が、あっという間にオウムのハーレム話一色になった。オウム追求が共産党対策になるからではなかったか?
共産党はオウムは追求しても神戸で30%もが壊れた高度成長期の学校について追求することがなかった。
霞ヶ関という基準を見直すべき役所の中心がサリンで攻撃されて、同時に直前案で兵庫県警本部長だった警察庁長官が暗殺されそうだった。止めをさされても生き返った警察庁長官が仕事に復帰したら即首にされた。

2011年の東日本大震災ではサリンの変わりに嘘の原発情報でテレビジャックされたのである。チェリノブイリの方法で最初に砂と鉛をまいていたら違っていたかもしれないが、状況証拠から経済産業省が旧ソ連ロシアとコンタクトをとってくれたように感じているが、管が妨害したのだと思う。

その管は東大戦争研究所系列の原子力委員会と組んで事故処理をしたことを自慢してきたし朝日新聞出身の第4の原発報告書では近藤原子力委員長のパワーポイントが掲載されているがなんら菅の免罪にはならない!

管側近の枝野は2004年の中越沖地震の最中に「憲法改正の住民投票法」を提案した。今回もまさに枝野が再登場してあっという間に憲法改定の住民投票法を通した。これも東大戦争研究所系列の鉄道研究所の新幹線の横転と、宮内ダムと信濃川のJ変電所の長周期地震による破壊を隠す目的だったのではないか??

そもそも戦後すぐ、1950年耐震基準が2年後の十勝沖地震で壊れたときから、戦後の災害の原因追求の嘘謀略すり替えが行われる習慣になったと思う。耐震基準制定が名神高速道路の世銀融資の条件だったので、耐震基準の間違いを隠蔽したのだと思う。
当時はGHQがいたが東大戦争研究所はGHQもだましたのではないか?

だから1959年の伊勢湾台風で5000人死んだとき、その3ヵ月後に始まる1960年の150日の通常国会を、今よりはるかに強力でまっとうだった社会党の批判に耐えて乗り切るために、「戦犯岸がやった安保改定」を、伊勢湾台風の5000人の被害者原因追及を摩り替えるスケープゴートにしたのではないか?



1、このブログの今後

このブログはこの後は裁判用にする予定である。
(1)つまり東海南海地震や三陸津波や2000年の耐震基準や
2001年の耐震改修基準や20003年と2007年と2011年以後の原発災害対策や
、学校耐震からや笹子トンネルの改修アイデアについてネクスト中日本への請求とが、
鉄道局とJR北海道には電車が自動車になるアイデアが04年に鉄道局に提供したものとは違うのかの確認請求の確認訴訟、
2004年中越地震のときの自然ダムの水抜き以後、2004年12月の緊急アクションプラン以後紀伊半島の自然ダムで気象庁と河川局を結び付けて危機を脱したときの提案についての水害対策の私のアイデアについての報酬請求
それに2004年にできるはずだった特許申請や、原発を止めたせいでnedoへの実験用助成金申請ができなかった経験3回などなど、つまり今後は私が2004年に作った1円企業が得るべきだった助成金や会社が失った資本金やその後「災害予防調査会」名で続けた活動資金を請求する会社の損害賠償裁判
父と母が死んだことの責任追及と父や母が私と一緒に10年前に得るべきだった遺失利益と慰謝料請求裁判の訴訟を今後どんどんする。
その「ウエブログーweb上の日誌とするつもりである。

特に私が怒っているのは、犯罪者集団が支配している地域と犯罪に加担している企業によって私の身の回りにおきたとんでもないことの責任追及と、原発汚染水問題がこれによって顕在化が遅れてどうしようもないところまできてしまった責任追及である。
もっともっと前に、父母が生きている間に「わが子が地震の二次災害を防いだのか!水害拡大を防いだのか!から救ったのか!原発の危機を救ったのか!」と喜ばしてあげることができなかったことが最大の後悔である。
おかしな調停やおかしな仮処分を押し付けたもの共も徹底的に追及する。今回こそはこれを最優先でと始めた直後から、裁判所に相談に行った直後から、憲法9条改解釈改憲話になって訴
状や調停が4ヶ月ストップしてしまった。

ここには今後裁判の経過だけでなく、最高裁判所がどうして危険なのかとか、東京地裁高裁の建物は今の改修では関東大震災方が東京湾に来た場合は危ない理由とかもそのうち書くつもりである。