前回の続きの雑談私説日本経済論総論である。
アメリカの双子の赤字」と日本がアメリカに代わった82-3年頃日本が実質世界一の経済になったと私は思う。ところが日本の学者やマスコミは日本が世界一になったとは誰も考えなかった。でも欧米やアジアの人たちは次は日本の時代だと考えていたのだと思う。
そしてアメリカがイギリスに変わる覇権国家になって50年、次は日本がアメリカに代わり、アメリカがイギリスのような没落国家になることを防ごうとして、特に冷戦中なので日本の行政機構に介入したとしてもおかしくないと思う。
それで前回書いたように日米の行政官の交換留学を提案したのだと思う。
さらに70年代に次のようなことが流布された。「日本は初等中等教育は世界一だが高等教育はだめだ」というのである。そうすると突然東大がブランドでなくなり、競ってアメリカやイギリスに留学ブームになった。
東大法学部の一番がブランドだった大蔵省で、新人甲種上級職を予算をひねり出して全員留学させようとしたのも、自分たちが一番であるという自負を逆手に取られたからではないか?日本の大学はまだ大学院教育が充実していなくて、競って英米の大学院に留学に行った。
これは企業でも同じで、各社はアメリカに80年代どんどん進出するに従い、新人を留学させてMBAを取得させるブームが起きた。でも当時の日本の企業は技術者出身の社長を選んで新製品開発を最重点とし、利益配当至上主義のMBA取得者の若造の意見を入れなかったので、80年代さらに日本企業が大きくなったのである。
ところが中曽根行革の為に、各省庁では留学させた新人が身に着けてきた知識に振り回されたのだと思う。世界一になった日本には、欧米各国の行政のように、分権して国民の身近なところで認可行政から脱却して、個別の監督行政が必要だった。が、定員を減らして何でも民営化するブームになってしまったのである。全く馬鹿なことであった。だからわが国には公務員が足りないのである。
アメリカは戦後すぐの頃は理想主義的な外交をした。国連憲章の提案国であり、第一次大戦の戦勝国のような、戦争で負けた国を植民地にする国ではない国だった。第二次世界大戦ではアメリカ本土に戦争被害がなく、志も高かったので、植民地化をしなかっただけでなく、負けた国から賠償金を取らなかった。日本の場合、沖縄や奄美諸島は除いてだが
むしろ東西冷戦の中、社会主義化を防ぐ意味もあって、ヨーロッパや日本に食糧援助をした。今までの、第一次大戦の戦勝国がドイツに課した賠償金に比べたら、アメリカは非常に寛大な国だった。当時としてはすごくまっとうな態度だった。
その後アメリカは東欧の社会主義国化と中華人民共和国の成立朝鮮戦争を経て、ドミノのように世界中が社会主義化することを恐れて、新植民地主義ー政府を親米にする為のクーデターもいとわない国になった。
だから、世界一になってアメリカを蹴落とす可能性が出てきた日本に対して、今まで以上の傀儡政権を作ろうとしてもおかしくはない。実質日本経済が世界一になった時に、新保守主義行革路線に呼応する勢力が日本にあったからこそ、中曽根政権で80年代に行革臨調路線に変質したとおもう。
その時一番熱心に行革臨調路線の宣伝メディアになったのは朝日新聞だった。朝日新聞は戦時中に戦争協力をして、今でも翼賛体質がしみこんでいて、似非左翼の実は右翼と思われる菅を応援し続けたのであろう。
日本は戦後70年代前半までは前回書いたように、西側というよりアジアアフリカ諸国の一員のつもりだったのではないか?戦争に行った大正昭和一桁世代は右左を問わず戦争を反対していた。特に6、70年代は戦争で一番犠牲になったこの世代が、日本社会の中心だったから公害紛争でも当時は裁判も今よりリベラルだったし、社会保障も受実させる方向だった。その中心人物が岸信介と一緒に勉強したという我妻栄東大教授だったとおもう。要するに東大社会科学が一番リベラルだった時代である。
ところが70年代後半から戦時中に官僚として体制翼賛体制を運営した若手官僚や戦時中の教育を受けた世代が中堅やトップになってきたことで、日本が右傾化してきた。それに乗ったのが中曽根行政管理庁長官だったのではないか?行革とは当時の3k「国鉄・米・健康保険の赤字解消」「公務員制度改革」がテーマだった。
石油ショックでスタグフレーションを経験したアメリカでは、ケインズ主義は効果がなくなってきていた。「税金の無駄遣いだから小さな政府を」という新保守主義が台頭していた。そのアメリカが中曽根行政管理庁長官を利用し、臨調路線で日本を変質させようとしたのだろう。
ロッキード裁判中の田中角栄がまだ自民党内で一番の勢力を持っていたところで、官僚が中曽根首相を田中に働きかけたのではないか?角栄はロッキード裁判中の自分の安全のために中曽根首相にかけたのではないか?
中曽根行革の頃の3K行革推進の為のつながりが、今も闇の主流であるような気がするのである。もう一つの闇のルートが、1968年の十勝沖地震対策であった。その対策費を捻出するために、田中角栄は大蔵大臣として事務次官を銀行局出身者にかえたのではないか?と私見では思うのである。
中曽根教育改革にはいいところがあった
ついでに書いておくと、中曽根首相についての批判はあくまで臨調であって中曽根教育改革にはいいところがあったのである。それは日本が世界一の経済になって海外へ派遣される家族が日本の教育と海外のギャップで登校拒否になる現実を変えようとしたのだった。
それで海外で主流の子どもを大切にする教育を臨調路線の中でやろうという難しい舵取りをして、戦後民主教育の原点コアカリキュラムに戻る方向を当時の文部事務次官が推し進めようとした。」これを中曽根政権が支持したのではないか?
ところが欧米の教育を入れることは戦後民主主義の原点にもどる発想だから、社会党系の昔の労組はコアカリキュラムに理解があったが、共産党系は社会主義教育の観点からコアカリキュラム反対だった。それでいじめを防ぐいい教育だったのに、労組に支持されないで「国旗国歌反対の声だけで、中曽根教育改革の戦後民主主義に戻る教育改革そのものがかき消されてしまった。その時当時の文部次官がリクルート事件で潰されたのだった。
じゃあ今はどうかといえば、小沢一郎が国歌を法律にして「国旗国歌」で労組は痛めつけられている。教育委員会が国歌斉唱のとき教員の口の動きを監視するところまで来ているのを止める力もないほどである。
当時コアカリキュラムの精神を再度入れてたら、いじめ問題の解決になったはずである。が以後25年いじめの泥沼化が進んだのである。国会が作ったいじめ対策法など役に立たないと私は予想するのである。
私は民主党に債務不履行を要求できる
なおこの点についても、私は民主党に債務不履行を要求できる。98年参議院選挙で野党三党再生法を働きかけて私の「いじめ・地震・環境・高齢対策の児童館兼デイサービスセンター兼コミュニテイセンター」を、ニューディール案として学校耐震化と公共住宅増設と一緒にやってもらうはずだった。
これを最初に菅が裏切ったのであるが、98年から全国一斉に全ての中学校区に作られていたら、いじめ解決に必ず役に立っていただろうし、何より東日本大震災でも、避難民21万人を充分受け入れられていたからである。そもそも私の提案は東海南海地震で数百万人の避難民を受け入れる場所としてこれを考えたからである。
いじめと別の視点からも、戦後教育のコアカリキュラムを復活させるべきである。マッカーサーが日本の軍国主義教育の替わりに求めた、デモクラシーの市民を作る教育に戻すべきである。それがないと、裁判への市民参加は裁判官のプロだけより厳罰主義に利用される。そういう傾向が出ているので、裁判員裁判の有罪判決が高裁レベルで有逆転無罪にする判決が出ているのである。
中曽根政権の臨調にもいいところもあったことを書いたところで本題にもどる。
雑談私説日本経済論」と名づけたのは?
「この文章を雑談私説日本経済論」と名づけたのはそっちこっちに話が飛んでも「雑談だから」と整理しなおさないでもよいようにである。書いた中身は後でキーワードで整理して、災害対策から見た戦後日本経済論としてまとめるつもりである。
たとえば「なぜ高度成長第二期に建設国債が発行されたのか?」私は新潟地震で全国一斉に作り直す必要があったことが裏にあったと思う。伊勢湾台風と災害対策基本法と岸内閣の隠れ非常事態法など、いままではまったく説明されていなかった災害対策の視点で日本社会の変化や経済の変化を解明しようというのがこの文である。
まずは日記風に自由に思い出したところから記録しておこうという趣旨であるので時々間違いがあるかもしれないので見てくれている方々からの批判は喜んで検討し、修正するつもりだ。
歴代財務官の闇と癒着の原点は?ー建設国債の利子を低くすることか?
再度本題に戻して、国民に内緒で作り直しをする費用を、公定歩合を下げて捻出するやり方を十勝沖地震のときから東日本大震災まで地震対策としてやったのではないか?このつながりが一つの今の闇を作っていると思う。
ロッキード事件はそういうときに起きた。当時は英米のスタンダード石油など原油セブンシスターズの力が資本主義の企業として一番強かった時代であった。石油ショック後原油確保を独自にやろうとした角栄と通産省への陰謀の可能性も無きにしも非ずという角栄側の主張を、一部再検討してもいいかもしれないと思う。
土建国家がどうして角栄を捨てたか?
しかし角栄が潰された原因については。日本の闇にとって、角栄の利用価値がなくなったことの方が大きいのではないか?と思う。つまり今の日本を動かしている闇の土建側にとって角栄が利用価値がなくなったから、捨てられた可能性がある。
その理由は新潟地震対策として当時の建設省事務次官が角栄に提供した提案が、十勝沖地震で通用しなくなったことが大きいのではないかと災害対策のほうから思うのである。その頃の建設事務次官が河川局出身の参議院の隠れたボスであった。この人物が、小沢一郎の首相に反対したらしい。十勝沖地震については他にたくさん私には独自の説があるのである。
他の日本の闇の隠れた実力者は、戦時中も官僚の司令塔だった「日本企画院」であろう。戦後は経済企画庁と国土庁になって、今は内閣府の中枢を一部占めているのではないか?彼等は田中角栄を使って、角栄の議員立法として、土木建築関係の戦後の基礎となる法律をどんどん作った。
『日本列島改造論』には角栄の議員立法がたくさん並んである。自分で全て法案を作ったのではなく、官僚が作った法案を多少修正して議員立法としてだしたのであろう。が、戦後すぐの頃にはアメリカ流のこうした議員立法が本来のあり方ではなかったか?もう一度議員立法のあり方を見直してもいいのではないか?
村山政権と自衛隊
ここでもう一つ雑談。新潟地震は角栄の出身県で起きた大災害であったので、郷土を救おうと角栄は始めて自衛隊を災害救助に動員した。当時当たり前の感覚ではあったが、これを社会党が批判したことから、村山政権が自衛隊を阪神大震災で動かせなかったのである。私はむしろ自衛隊を平和な国連消防軍に改変するチャンスと思い、99年1月小沢一郎に手紙を書いた。その後小沢は自自合意を破棄して野党に戻ろうとして不幸にも小渕首相が会談直後倒れてなくなったことで孤立したのだった。
再度戻るが、建設省国土庁企画庁が角栄を利用したのは戦後復興から新潟地震対策においてである。その典型が1968年の田中幹事長時代の「都市政策大綱」であって、これを下敷きにして作ったのが『日本列島改造論』であった。
列島改造論は実は通産省側の協力で出来たのであって土建側はノータッチだったらしいことが、「土建のボス」初代国土庁長官下河辺の回顧録から判るのである。彼等土建族は角栄の政権は70年代後半にしたかったのに、先に通産省の後押しで出来てしまったことが腹立たしいことが、本の行間から窺えるのである。
ここに角栄現職逮捕の本当の理由があったのではないか?列島改造論にしたがって田中が総理大臣として、ブルドーザーのごとく十勝沖地震で全滅した耐震基準で、全国を作り直しては困るから現職で逮捕したのではないか?
つまり、新潟地震対策として考えた耐震法を実行したところが、十勝沖地震で全滅したと角栄に伝えずないで次の対策を作るのに5年必要だった。そこから法律を作って78年頃に角栄の政権にしたかったのだろうと、いつもの土建のやり口から私は想像するのである。
その十勝沖地震のときに、角栄大蔵大臣のときに、今につながる金融のやり方が生まれたのではないかと私見では思う。これらも詳しくはいずれ又である。いまは総論で一気に書いている。そのほうが謀略が私を襲えないと思うからである。
私は災害予防調査会として何人助けたか①
ついでに私の身の安全の為に書いておくが、私は災害対策で今までたくさんの人を救ってきた。私がいなければ、東日本大震災も全く対策ゼロで襲ってきていたら、2万人どころかその何倍も死んだ可能性がある。
最初に助けたのは中越地震の時で、自然ダムの水を雪解け前に抜けと河川局に働きかけた。雪が来る前にほとんどの応急対策を終了するように、その工事は雪国の業者を使うことを、北側大臣と国土交通省の各局に働きかけたから、二次災害がほとんどなかったのである。
これで自然ダム崩壊を防いだ以外に、豪雪で壊れた家屋や道路や橋に加重がかかって二次災害を起こス事を防いだので、100人ぐらい死ななくて良かったはずである。ちなみに善光寺地震のときは自然ダムの崩壊で1万人が死んだが、このときはもっと大きな地震で、善光寺の祭礼だったからだった。山古志村で自然ダムの水を抜かないで雪解けで山体崩落したとしても、元々人口が少なく避難していたから、そんなに死者はないと思う。
なぜ世界一になった日本は、自殺者が増えて社会保障は下がって就職できないのか?
「なぜ世界一になった日本は、自殺者が増えて社会保障は下がって就職できないのか?行政当局はまるっきり逆の経済政策ばかりをするか?」が、日本が世界一になった82、3年頃からの私の疑問であった。その原因が、財務菅の円安公定歩合安の誘導と、その手段としての海外への円ばら撒きであったと私は思う。
このボタンのかけ違いを直さないと、最後までつまり日本が破産国家になった時までボタンを留めても穴が余るか、ボタンが余る。日本はし、経済が世界一になっても国民はそのことを知らないで、賃金を下げてリストラをしてむしろ残業時間が増えた以前より貧しくなってしまった。
このようなボタンのかけ違いを直す一助になれば幸いと思い、庶民の実感としての戦後日本経済論を団塊の世代に合わせて、時折現在の現象の解説として雑談戦後史を書こうと思うわけである。
なぜ民主党の顧問榊原英資黒田や経済企画庁出身岩田一政にちぎんふくそうや丹呉や菅直人が団塊の世代の敵であるか?
新人類お子チャマ議員の言い分である、「現在の年金制度は、若い世代の年金で現在の高齢世代の年金を払っている賦課方式である」という理解が間違っているかなどを、歴史的経過で説明したいと思うのである。
災害時の金利下げが阪神大震災以後18年間ほとんど金利なし状態を生んでいる。金利を下げて年金制度の改悪をして、海外へ日本円を流出させたい者たちが、さらに78年の宮城沖地震の低金利を経て、中曽根政権以後の日本の政権を主導してきたのではないか?と思う。財務官銀行局官僚の80年代日本支配から今の黒田財務官・日銀総裁につながる闇の原因がここにあると思う。
経済学についての新人類の勘違いを正すーなぜ雑談私説日本経済論を目論むのか?
経済学の属する社会科学は因果関係の学問である。「同じ量の物質にある変量の力を加えたら」、あるいは「何かの原子と原子の化学反応は」必ず同じ反応が返ってくる自然科学とは根本的に異なる。
時期と場所と風土によって同じ要件を変数としても反応は異なるのである。経済学は他の社会科学に比べて、自然科学に近いというが、私はウエーバーの経験科学という言い方が、やっぱりあっていると思う。
まさに歴史条件によってやるべきことが異なるのである。日本経済が世界一になったら、失業者が多くなって、社会保険料は上がるが給付は下がるようになったのはどうしてか?おかしな話ではないか?
日本経済が世界一になったら、日本人はより豊かになるのが当然である。が、たとえば「GNP世界第二位」になった68年からも長期トレンドでは1997年までは成長していたのであるが、70年代いつも、「世界恐慌が着て日本経済はだめになる」との風評があった。
私もマルクスの恐慌論でアメリカがこけるぐらいだからアメリカに輸出している日本は大不況になると最初は思った。
実際高度成長期の日本は、」「アメリカ咳をしたら日本は風邪をひく」といわれていた。輸出品は必需品ではないし日本しか作っていないものでもない。どっちかというと、消耗品は長く使い不用品は節約するような製品から戦後アメリカへの輸出が始まったのである。
以後は各論で戦後最初から、簡単に日本人が知っておくべき戦後史について私見で災害論の見方を加えて、金融財政に力を入れて説明しようと思うのである