さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

高田博厚のブロンズ像が藤沢北口から消えた

2020年08月04日 | 日記
※ 四日の投稿は消して、以下は翌日の五日の日記。

 今日は昼間ものすごく暑くて、朝から検診でバリウムをのんだ余波でおなかがぐるぐるするので、午後は年休にしてあったから、帰って二、三時間雨戸を閉め切って寝た。起き上がってから月次の月旦原稿を書いて送信し、夕方はチャーハンを作ってもらって早々に帰宅した息子と一緒に三人で食べた。それからブログにも何か書きたくなって机の前に坐りなおした。

当ブログの毎日のアクセス数は一度北海道で天災が起きた時にアクセスが三分の二程度に減ったから、北海度の方は東京方面の情報源のひとつとしてこのブログを利用しておられるのではないかと思う。先日NHKのブラタモリを見ていたら、釧路湿原の霧が摩周湖に行くのだと解説していた。そういえば高校二年の修学旅行で、私は晴れているときの摩周湖を見た。阿寒湖にも行った。湖面も空もひたすら青かった。私は胸の底にその青い色をしまいこんで帰って来たのである。移動する列車のなかでみたクラスメートの少女の寝顔が、とてつもなく美しくみえた。何十年たっても、そのときのままの姿で彼女は美しい。立原道造の詩の世界に通ずるような、ある種のロマンチックな青春の記憶である。

こんなことを書きたかったのではなかった。高田博厚編集の『ロダン・ブールデル・マイヨール素描集』という岩崎美術社刊の本の感想を言いたかったのだ。

巨匠の素描というものは、宮本三郎の教本でみたような正確なものではなくて、けっこうざっくりとした放恣なものが多く、知らないでみたらどこがいいのかわからないだろう。正直に言って、私はブールデルの神話的な場面の素描のよさがよくわからない。これは彫刻を知っていて、それから見ないとその良さへの認識が及ばない面があるのではないかと思う。彫刻の方は、特に箱根でみたその印象が強いのだが…。マイヨールのものは、誰がみてもわかる。彫刻の方はもっとも日本人好みのもののひとつだろう。問題はロダンで、最初みると、あんまり丁寧に描かれたものではないのでおどろく。それがしばらく見ているとその持っている雅味のようなものがじわじわとこちらに響いてくるのである。幸いにこの素描集は、一枚一枚が別々になっているから、さらに額に入れてしばらく眺めていたらいいのではないかと思う。高田博厚はそういうことをよくわかっていて、この本の造りを提案したのかもしれない。

私は四十年近く前に教え子のО君が高田先生のお宅にうかがったという話を聞いてから、高田博厚に興味を抱いてきた。しかし、最近の化粧直しで藤沢市の北口にあった高田博厚の彫刻はどこかに行ってしまった。高田博厚への関心のようなものが、一般にはもう高くないせいかもしれない。これは何とかしなければならないと思ってここに書いた。