このところずっと、中村真一郎の『頼山陽とその時代』上・下の文庫本になったのを持ち歩いて通勤の合間に読んでいるのだが、たとえば江戸期の都市の文人の間に芽生えていた自由恋愛や男女平等の気風が、明治時代に入って再び男尊女卑の文化が強まって後退させられてしまったのだとか、いくつもの卓見に驚かされる書物である。これは頼山陽を取り巻くひとびとの評伝であるとともに、その漢詩文についての批評でもあるという書き物だから、だいたい文化・文政から天保以後までの時代の漢詩アンソロジーの性格も持っていて、ブルクハルトを引き合いに出すのは大げさかもしれないが、江戸漢詩の世界を介した壮大な文化思想史の下書きというような気配も持つ、柄の大きい書物なのだ。
そういう本を読んでいる、一種の陶然とした気分の延長にある時に読むに堪える現代短歌があるのかというと、それがあるのだ。たとえば内藤明の今度の歌集は、ちゃんと江戸漢詩を読んでいた気分ともつながるところを持っている。
愉しかる一日なりけり事どもの軽き重きを問はざりしゆゑ
それぞれの猫に七癖あるもので雑誌の小口で爪研ぐ夢二
※「小口」に「こぐち」と振り仮名。
江戸の漢詩人は、一首目のような内容もちゃんと詩に作っていたということが、中村真一郎の本を読むとわかる。日本の文化は、近代を一巡して、ようやく江戸のレベルに復したのかもしれない。肯定的な意味で、本当の文人の歌がここにあると言ってみたい。
二首めは、山崎方代や高瀬一誌や小池光といった幾多のユーモリストの系譜に連なる歌であるが、全体に自然(じねん)の詠みぶりのあらわれているこの歌集の持つ静かな力に、こちらははげまされる気がするのである。
さやうなら 暁の月齢読みながら少し滲める目をつむりたり
※「暁」に「あけ」と振り仮名。
壁を指し鼠が走るといふ人の言をうべなふ、ねずみがはしる
ともかくも今日をあらむと開く扉ねぢけ心を捻ぢ伏せにして
※「扉」に「ドア」と振り仮名。
韮の花白く浮き立つかたはらを汗垂りながらいづくへ帰る
平穏無事に暮らしていても、日々を乗り切るという事は、そうたやすいものではない。「ともかくも今日をあらむと開く扉(ドア)」という時は、誰しもある。またその夕暮れも、「いづくへ帰る」と言いたくなるような険しい時の斜面はある。この感じは生活者なら誰しも抱くことのある感慨だと思うが、内藤さんの歌は、そういう内容を卑近な「ぼやき」の歌にはしていない。そこに、文語の力がはたらいていると私は思うものだ。
短歌の文体の「口語」「文語」というものには、一長一短というものがある。「ねぢけ心を捻ぢ伏せにして」は、「ねじけ心を捻じ伏せにして」では、散文的な印象が強くなってしまうのである。「いづくへ帰る」は「どこへ帰る」では、おもしろくも何ともない。四句目の「汗垂りながら」も生きて来ない。文語は「いい加減」を生み出す言葉の魔法なのだ。
まだ少し時間があれば聴かむとす野の鳥のこゑ梢吹く風
感情が内へ内へと吸ひこまれ身動きとれぬからだなるべし
絶え絶えに闇の底よりひびき来る消音ピアノの鍵盤敲く音
※「消音」に「サイレント」、「鍵盤」に「キー」と振り仮名。
感情と身体(からだ)あってのことばなのだということを、内藤明の歌を見ていると思い出す。修辞優先の詩は、人間を生きにくくさせてしまう。世界を広げようとしてかえって世界をせばめてしまうのだ。作者は、はじめから修辞をめがけないところで修辞に至るというところがある。ここに引いた一首目のような平易な歌と地続きのところで、二首目の歌や、三首目のような歌があるということは、やってみればわかるが、なかなか難しいことなのだ。