さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

年末所感

2015年12月29日 | 現代短歌 文学 文化
 動きすぎてはいけない。むしろ積極的にリゾームを切断すべし。(『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』千葉 雅也)。

 色々なモノゴト同士をやたらとつなぐことよりも、過剰な接続を切断することの方が、大事なことであると、最新の哲学思想の本をめくってみたら書かれていた。全世界にインターネットの普及した段階での人類全体への警告である。スマホによる超絶的な加速化(私は使っていないが)に多くの人が慣れてしまった。そこで敢えて「切断せよ」、というのは、それなりに勇気の要ることである。隠者の志、というものが求められている。ここで思い出した言葉があった。それは、
 
  孤独とは守っているべきものではなく、むしろ常に人前にさらしているべきものだ。
                            小林秀雄「道徳について」

というものである。
 人前にさらされたら「孤独」ではないではないか、というのは、子供の反論である。インターネットという場所は、そういう子供の反論に力を与えてしまうところがある。念のため、私は<子供>をばかにしていない。ここで言っているのは、「何でも質問していい、何を聞いても許される」という資格が、社会的に無条件に与えられている立場にある、という意味である。一対一で向かい合っていたら、これを聞いてはまずいのではないか、とか、こんなことを言ったら怒られるのではないだろうか、といった相手への配慮が当然生まれる。インターネットの場においては、ときどきそういう常識が通用しない。メールのやりとりにおいても、そういうことが起こる場合があって、私はそれでだいぶ痛い思いをしたことがある。
 孤独とは守っているべきものではなく、むしろ常に人前にさらしているべきものだ。そのような「孤独」を行使できる人が、これからの時代の真の表現者であると私は思う。

※2018512付けで再度アップすることにした。
 
  

川崎あんな歌集 ぴくにつく

2015年12月28日 | 現代短歌
 この歌集には「あとがき」がないので、作者の年齢や仕事についての手がかりになる情報が簡単に得られない。歌だけを読んでほしいということなのだ。ただ、今度の歌集には、父母の墓参の歌があるから、相応の年齢の方ではあるのだろう。たしかもう三冊目の歌集になると思うのだが、何冊目とかそういうことも書いていないので、さてどうだったか…。以前は表紙も扉もまっ白いだけの本だったのが、印象に残っている。
 ※以下、引用作品の「青」「間」は、元の本では旧活字であるが、文字化けしてしまうのでやむなく新活字としている。

  ぱぱのおしつこがながいはやくきれてともふあけがたのときの間なりし

 私生活についての具体的な情報は極力抑制されて、伏せられているので、いろいろと読みながら推測するのであるが、この歌の「ぱぱ」は、もしかしたら自分の夫のことかもしれない。「はやくきれてともふ」は、「思ふ」を「もふ」と読んで「早く切れてと思う」の意味だろう。ここは多少読みにくい。歌集前半の歌をぱらぱらとめくってみているうちに、六十代から七十代にかけての、避暑に行く余裕のある、きわめて知的で趣味の洗練された人、というように作者のイメージができあがってきた。住所もヒントになるが、ここには書かない。何だか謎解きをしながら推理小説を読んでいるみたいである。

  蟲のねと犬の啼聲とかすかに聞こゆ めとろぽりたんてれゔぃの奥に

 こういう歌は、私の好みである。テレビの音は小さいのだろうか。それともテレビはついていないのか。「めとろぽりたんてれゔぃ」という言葉がおもしろい。「てれゔぃの奥に」が、やや曖昧な気がするが、だいたいがこういう朧化した歌の作り方をする人である。

  ゆんで、めて、かたみに擦りあはせつゝ羽の銀ラメを零すメードは

 でも、この歌は正確な描写があり、みごとである。羽根をつけたメードのはたらく、特権的な人々のための高級酒場のイメージである。日本ではない感じがするが、もしかしたら秋葉原かなあ…。

  はつかなる硝子のかけのゆるせずてすぐに棄てむとする小走りの

  マンションのゴミ置き場なる一隅にけさは駐機のスホイ24

 硝子が割れていた何かを、すぐに棄てようとしたのだろう。ロシア製の「スホイ24」は現物ではなくて模型飛行機のようでもあるが、思うに飛行機に見立てたい制作物の「硝子」が割れていたのだ。それを「私」は気に入らないのですぐに棄てようとしている、ということになるが、これはいったいどういう人なのかと思う。続く歌をみると、羽根の着いた生き物の実験試料の比喩かもしれないと思ったりもするのである。同じ一連から。

  死に際を青白くひかる線蟲のいうびのさまをおもふにつけ
  長廊下はるは踏みつつぷろれたりああとはぷれぱらあとに近き
  なかんづく背なに天使の羽ありしてふバカンティマウスの四月

 この「線蟲」とか「バカンティマウス」とかいう語彙が、どうやら作者の専門としている分野に近いようであるということがわかる。二首目は読みにくいが、「プロレタリアート」は「プレパラート」に近いというのだから、生命科学関連の研究所か何かで連日きびしいワークにいそしんでいる研究者の姿がイメージできる。「バカンティマウス」は、いま調べてみると、例のスタップ細胞事件にもかかわりの深い研究者バカンティの発明したものである。どうやらこの一連は、小保方事件に関連して作られたもののようである。作者のこのあたりの分野についての知識は、借り物ではなさそうだ。少なくとも研究職の人々の様子をよく見知っている人にちがいない。しかし、わかりにくい歌ではある。この一連をみてもわかるように、読者の読みやすさを考えない飛躍が多いけれども、仔細に検討してみて、一連の中での詩的な逸脱や比喩の用い方に技術的に破綻しているところはない。詩的なつじつまは合っているし、なかなか高度な言語技術である。

  すがのねの青き長椅子措かれある空間のなか あをはくすみつゝ

 私は自分では作らないが、こういう意味の希薄な歌も好きなのである。今度の川崎あんな氏の歌集は、なかなか良かったのではないか。

さいかち亭 ブログ開設

2015年12月28日 | 日記
 短歌についての文章を中心にしたブログを開設することにしました。

 昨年は二日おきに書いていました。同様なものを読みたいという読者
の要望があるので、ペースを三分の一ぐらいにして継続してみようと思
います。よろしくお願いします。