さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

雑記

2023年10月08日 | その他
 この夏は暑かったので、やっと涼しくなったことが例年になくうれしく感じられる。このブログも何か書かないといけないと思うのだが、日々の生活に忙殺されて、帰宅してから缶ビールを一本あけて手元の本をめくるうちに眠りに落ちる、というようなルーティンを繰り返していると、なかなか文章を書いてここにあげるというようなところまでいかない。文章は、電車のなかでメモ帳をひろげて、思いつくことをただひたすら書き続けるということを最近は意識してやっている。『スマホ脳』という本があったが、なるたけ自分の頭を自律的に使うということをやっていかないと、本当にあの本にある通りの「おばかさん」になってしまうだろう。私のスマホ依存度はかなり低いはずである。とは言いながら、棟方志功展がはじまった、などと美術館からダイレクトにメールが届く時代だから、一度予約に利用したりすると、あとが絶えないことになるわけだ。先のマティス展は、集英社の白い大判の美術全集で見慣れた作品ばかりがセレクトされていて、そういう意味では代表作の実物がみられたわけだが、あまり見たことがないものを見たいと思っていた者には、やや物足りなかった。私の職場の同僚で見に行った人がいて、その方は三体の大きなレリーフや画家が設計した教会堂の映像にいたく感銘を受けたと言っていたが、戦後の第一回の時の内容は「みずゑ」に詳細な記録があって、私はそれをバックナンバーで見たことがあるという、やや特殊な部類に属するギャラリーだ。美術館グッズに費やすお金は持ち合わせていなかったので、何も買わずに会場をあとにしたのだった。これも例外的なふるまいかもわからない。

寸感

2023年03月12日 | その他
 気に入った雑草の種をポケットに取り込んで、さてどこに蒔いてやろうかと思いながら、なかなかふさわしい場所が見つからずに、ずっとそのままになっている。
 だいたい舗道の脇も、電柱の下も、このごろはしっかりと舗装されていて、地面がむき出しになっている所など、まるでありやしない。

 要するに、これが息苦しい世の中というものなのだ。マンションの前の狭い坪庭の雑草を、徹底的に抉り出しているおじいさんや、おばあさんの姿を、四月も近づいて暖かくなったせいか、このごろはよく見かける。そんなに雑草はいらないものですか。

 妻が、玄関の入口にトレイを置いて、蛇苺を栽培している。実がかわいいから。でも去年は、せっかく実がなったのに、小鳥が来て食べてしまった。なんて酔狂。

 自分も雑草みたいなものだと、思ったことはありませんか。せっかく芽を伸ばしたのに、ばりばり根をひきむしられて、痛い。いたいなあ。

 鬱陶しい。邪魔だ。目障りだ。きれいじゃない。本当にそう思いますか。

 この日本人の潔癖症。湿潤多湿の気候を受け入れないで、欧米ふうの見通しを、都市の舗道に実現したいと願った、近代以来の病気だよ。雑草を排除しようとするのは。

 ああ、アンコールワットの遺跡のように、東京の道路という道路の上に、植物の根が這い廻り、高層ビルに蔦が茂り、路面の罅から雑草どもが繁茂する景色を、近い将来われわれは目にすることになるだろう。などと、彼は別に予言したりはしないが、銀座や品川、渋谷や新宿を歩きながら、そんな景色を思い描いて楽しんでいるという人の話を聞いて、いささか共感するところ無きにしもあらず。

 

日記

2022年12月06日 | その他
 夜中にサッカーをみていたせいか、目が冴えて眠れないので、先日床下から発掘した小林秀雄の本などを引っ張り出してみていたら、ますますねむれなくなった。頂門の一針、という言葉があったが、小林などを読んでいると、見せかけのもの、総じて体面にこだわる生き方を人がとらざるを得ないことが、ばからしくなる。やっかいなプライドと自意識過剰に発する虚栄心や、はったり、そういうものもうっとうしくなる。それで一週間前に自分が描いた文章にがっかりして、少し直してみたのだが、大して変わりばえもしない。それにしても、文字の薬を飲んだのだから寝ないといけないな。今から一時間でも寝ることにする。明日は仕事をがんばりましょう。

今朝は

2022年04月17日 | その他
 このブログは、自分の専門でもないことについては、なるたけ書かない、ということでやって来たのだけれども、ウクライナの戦争が起きてから、どうもそうもいかなくなって、書いているうちに予測でものを言うようなところが出て来たから、それは良くないなと思った。それで、最近のコメントを全部一度消した。けれども、この件に関して、私の書いたものでも参考にしようという方はおられるので、SNSの情報に飛びつく前に、とりあえず「世界」の今月号の特集などをごらんになったらどうでしょうか、と申し上げておきます。

 私の身の回りの若い人を見ていると、スマホのニュースしかみていない人が多い。新聞もたいしたことはないが、それでもまだしも細かい情報が載っていることがあって、あまり馬鹿にしない方がいいのではないかと思う。そもそも新聞社系のニュースの断片がSNSにのっていることが多いわけだから、知らず知らずのうちに〇〇新聞的な発想に感化されたり、〇〇的な発想に染められたりする、ということが起きるわけなのである。

 報道される死と、まったく報道されない死があって、命の重さがちがうのは不公平・不平等である。もっと言うと不当である、という文章をどこかで読んだ。たしかにそうで、今度のウクライナの記事の下に、イエメンの紛争で飢餓に陥っている人々についての記事が小さく載っているのを見るにつけ、われわれの浮薄な関心、または無関心の酷薄さというものについて考えさせられるのである。

 以前このブログでとりあげた西巻真さんの歌集が、神奈川県歌人会の第一歌集賞になったということである。最近うれしかったことの一つである。短歌の話ができる平和な世界がありがたい。

 
 




雑感

2021年10月29日 | その他
二〇二一年も余す所あと二ヶ月。コロナの影響で毎月の例会も何度か休会になった。あらためて思うことは、この間の政治の無策である。コロナ禍が長引いたのは、圧力団体の日本医師会にまったく手出しのできない政府とそれへの反対キャンペーンも張れないマスコミの惰弱に責任の一半がある。夜七時代のNHKの番組編成が、ニュース番組から衆愚路線に変更されて、即効的な報道の実をあげられなかったことも、コロナの抑え込みに失敗した原因の一つだと私は考えている。自粛警察なる現象も飛び出して、日本人が公的な動きをする際の後ろ暗い一面を再び見せられた。

最近私は馬場マコト著『戦争と広告』(二〇一〇年白水社)という本を読んだが、戦争の時代の日本人の行動について知ることは、今を反省するうえでとても大事なことだ。

それとは別に、同時並行で岩波文庫の『ローマ皇帝伝 上・下』を再読し始めた。そこには、よくもここまで赤裸々に描いたものだというような、むき出しの野望や感心できない振る舞いが歴代皇帝の姿として描かれている。ローマ時代も今もやっていることが変わりない人間の姿というものが、そこにはあって、短歌を含む詩歌はそうした「人間苦」の諸相を止揚するためにあるものだと、私なりに思ってみたりもする。しかし、怒りや憤りといったものは、なかなか歌になりにくい。
    一首。
  志操なく廉恥心なく生き延びて「はりつけ」の字を指にかき居り 

  
 

スマホの画面の下をうごく広告について

2021年10月17日 | その他
 私はこのブログをパソコンの画面でみて、パソコンを使って書いているのだけれども、先日スマホで自分のブログを開いて見たら、動画の広告のキャラクターが画面の下を走るように動き回っていて、とても落ち着いて見られたものではない。私は大量に画像や写真を投稿したりしていないので、有料の課金サービスを利用するメリットがあまりない。弱ったことである。それとも余分に料金を払って広告をなくすように仕向けるための方策だろうか。担当者には、善処をもとめたいところである。

と書いて、いま検索してみたら、やはり画像が下段をうごいてとても読みにくい。ひとつ対策としては、親指で隠しながら読むことで、長時間でないなら、これが一番いいかもしれない。