詩人の文月悠光の帯がいい。
「私はつい耳を傾けてしまう。/この人にのみ響かせることのできる、/とてつもなく魅力的な胸騒ぎに。/そして本当に驚いてしまう。/知ってはいけない/この世界の秘密が詠われているから。」
あとは、ここには引かないが作者本人の「あとがき」もなかなかよい。
海色の静脈に絡めとられては心臓だけを遠くへ鳴らす
巻頭の相聞的な気配をただよわせる一連のなかにある一首。イメージの絵が身体感覚とないまぜになって、わたくしの身体が無辺の海洋につながっているような気がしてくる歌である。
その一方で、次のような細かい動作の断片を映像として差し込んでゆくあたり、心憎い演出がなされていると感じる。同じページの二首。
靴底に玉砂利ひとつ入るたび誰かの肩を借りる聚光院
「調整中」と貼り紙のある時計台みつめてしまうよきみが黙れば
何となく気がかりな恋人らしい「きみ」の姿と、都市のなかで孤独な魂のセンサーとなって動いているわたくしの像とが時にオーバーラップして、「きみ」はわたくしでもあり、わたくしは「きみ」に発する他者性のおののきを自らのものとしながら、それを高度な自意識をもって解析してしまう。この一連に続けて一首だけ置かれている次の歌のように。
ペディキュアを塗ってしまえば素足ではないから散らばる硝子さえ踏む
ここから化粧という行為の本質というようなことを書きはじめたら、鷲田君なにをきみは始めようというのだね、ということになるけれども、この歌の「散らばる硝子さえ踏む」という強さの自覚が、先に引いた「『調整中』と貼り紙のある時計台」に応答する感性と地続きだということに注意してみたい。もう少し引かないと私が何を言いたいのかがわからないか。
とつぜんにスプリンクラーはまわりだし水のつばさのひかりにふれた
ひったりと手錠の代わりに嵌められた腕時計にはいくつの歯車
この二首は同じ一連にある。突然まわりだして大きな弧を描くスプリンクラーの水と、腕を拘束する腕時計とは、同じ円形でもベクトルが真逆である。これは決して意図せずに並べられた作品ではない。言わば激情とそれを抑制する機構とがここには形象化されている。だから、続く作品では、適度に開放されているようでありながら、実は高度化した〈自意識〉がそれ自体の歌をうたっている。
濃くしてと頼めば百円増しになる檸檬サワーのようなくちづけ
ええ、たぶんしあわせなのはひとつだけ足りないものがいつもあるから
一首目の「濃くして」の歌を読んだときに、何か痛烈な、と言いたいような感じに感情が発出する感じと、自己否定的にうごめく情動との両方を同時に感じさせられた。そうして、二首目からわかるように、たぶん〈自意識〉には、わたくしが「しあわせ」であるか、そうでないかなんていうことは、関係がない。「しあわせ」と言ってみせているその「欠落」の当体は、「頼めば百円増しになる」という「市場」性に媒介されて存在するほかはない現代のわれわれの〈魂〉とでも呼ぶほかはないような、摑み得ない何ものかである。
こころって気球のなかで燃えている焔みたいだ そらにふれたい
これは歌集のおわりに近いところに置いてあった作品だが、私がここでのべようとしていることの傍証ともなるだろう。
わたしよりたぶん正気だあんなにも首を揺らして近づいてくる鳩
さやさやと繰り返すだけもし吾が枯野であれば光る仕草を
炊き出しと献花のための行列とまじりあいつつ舗道に落ち葉
意外性のある言葉のすり合わせが心地よい詩を生み出している歌の中に、おしまいに引いたような歌がきらりと挟まれている。私はこういうスケッチを信頼する。
「私はつい耳を傾けてしまう。/この人にのみ響かせることのできる、/とてつもなく魅力的な胸騒ぎに。/そして本当に驚いてしまう。/知ってはいけない/この世界の秘密が詠われているから。」
あとは、ここには引かないが作者本人の「あとがき」もなかなかよい。
海色の静脈に絡めとられては心臓だけを遠くへ鳴らす
巻頭の相聞的な気配をただよわせる一連のなかにある一首。イメージの絵が身体感覚とないまぜになって、わたくしの身体が無辺の海洋につながっているような気がしてくる歌である。
その一方で、次のような細かい動作の断片を映像として差し込んでゆくあたり、心憎い演出がなされていると感じる。同じページの二首。
靴底に玉砂利ひとつ入るたび誰かの肩を借りる聚光院
「調整中」と貼り紙のある時計台みつめてしまうよきみが黙れば
何となく気がかりな恋人らしい「きみ」の姿と、都市のなかで孤独な魂のセンサーとなって動いているわたくしの像とが時にオーバーラップして、「きみ」はわたくしでもあり、わたくしは「きみ」に発する他者性のおののきを自らのものとしながら、それを高度な自意識をもって解析してしまう。この一連に続けて一首だけ置かれている次の歌のように。
ペディキュアを塗ってしまえば素足ではないから散らばる硝子さえ踏む
ここから化粧という行為の本質というようなことを書きはじめたら、鷲田君なにをきみは始めようというのだね、ということになるけれども、この歌の「散らばる硝子さえ踏む」という強さの自覚が、先に引いた「『調整中』と貼り紙のある時計台」に応答する感性と地続きだということに注意してみたい。もう少し引かないと私が何を言いたいのかがわからないか。
とつぜんにスプリンクラーはまわりだし水のつばさのひかりにふれた
ひったりと手錠の代わりに嵌められた腕時計にはいくつの歯車
この二首は同じ一連にある。突然まわりだして大きな弧を描くスプリンクラーの水と、腕を拘束する腕時計とは、同じ円形でもベクトルが真逆である。これは決して意図せずに並べられた作品ではない。言わば激情とそれを抑制する機構とがここには形象化されている。だから、続く作品では、適度に開放されているようでありながら、実は高度化した〈自意識〉がそれ自体の歌をうたっている。
濃くしてと頼めば百円増しになる檸檬サワーのようなくちづけ
ええ、たぶんしあわせなのはひとつだけ足りないものがいつもあるから
一首目の「濃くして」の歌を読んだときに、何か痛烈な、と言いたいような感じに感情が発出する感じと、自己否定的にうごめく情動との両方を同時に感じさせられた。そうして、二首目からわかるように、たぶん〈自意識〉には、わたくしが「しあわせ」であるか、そうでないかなんていうことは、関係がない。「しあわせ」と言ってみせているその「欠落」の当体は、「頼めば百円増しになる」という「市場」性に媒介されて存在するほかはない現代のわれわれの〈魂〉とでも呼ぶほかはないような、摑み得ない何ものかである。
こころって気球のなかで燃えている焔みたいだ そらにふれたい
これは歌集のおわりに近いところに置いてあった作品だが、私がここでのべようとしていることの傍証ともなるだろう。
わたしよりたぶん正気だあんなにも首を揺らして近づいてくる鳩
さやさやと繰り返すだけもし吾が枯野であれば光る仕草を
炊き出しと献花のための行列とまじりあいつつ舗道に落ち葉
意外性のある言葉のすり合わせが心地よい詩を生み出している歌の中に、おしまいに引いたような歌がきらりと挟まれている。私はこういうスケッチを信頼する。
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