タイトルを見たときに、今の時代と作者イメージとがうまく合っていると思ったのだった。先日砂子屋書房の現代短歌文庫の『谷岡亜紀歌集』が出たばかりだから、作者としては、ここでいったん自分の仕事を整理しておこうというところなのだろう。いつまでも三、四十代のような気分でいたかったのに、気づいた時には還暦になってしまって、髪にも白いものが混じってきている。さて、これからどうしたものか。…というような人生の転換点で、香港のスコールのような激しいものを依然として希求し続けている。早朝の新宿の路上の空の光のような曙光のみずみずしさを追い続けている。それはなかなか格好が良い。でも、もう生き急ぐ必要はないはずだから、これからは過去の自分のイメージにこだわらずに歌境を深めていってほしいと、私としては思うものだ。巻末の一連に見える次のようなスピリチュアルな歌が実にいい。
心とは光の渚 その人が振り向くときにふと翳りたる
霧雨の墨を流した曇天に淡く消えゆくつかのまの虹
少し脱線するが、酒を飲むことが純粋な詩心の発露と等しいような文化というものが、かつてはあった(過去形である)。こういう文藝と飲酒(大酒)が絡んだ場を大切にする気風を持った日本の社交文化というものは、谷岡も含めて昭和三十年代生まれまでの世代でおわりつつあるのかもしれない。先日博覧強記で知られた坪内祐三が六十一歳で急死したが、そのことを象徴する出来事だったような気がする。坪内は「ユリイカ」の特集の追悼記によると、亡くなる前も連日の大酒だったようだから、本人はそれで死ぬことになるなんて少しも思っていなかったようである。文学者の回顧談には欠かせない飲酒文化、酒を飲んで酔うことに無上の価値を置く文化は、いまコロナ禍によって相当なダメージを被っている。それをしも「どしゃぶり」と言うべきだろうか。谷岡氏も私も、河岸は異にしていたが、そういう文化的雰囲気のなかで生きて来た。もっとも私はどちらかと言うと下戸であって、二合半ほど飲むと記憶をなくす。
全て終わりあるいは全てが始まらずけさ乳色の朝を迎えつ
生きて遭う今日の辛苦としてわれは冬の便器に跪きたり
二首目は、これは単に二日酔いで苦しんでいるだけではないのであり、一首目の「全て終わりあるいは全てが始まらず」というもどかしさと、いらだだしさに直面しながら生きている感じの極まりにおいて、こういうことになるのだけれども…(共感的に苦笑)。
こうして一冊になったものをみると、短歌雑誌の初出で読んで記憶に残っているものがけっこうたくさんある。付箋もたくさんつけながら、後半のⅡ部とⅢ部を入手したその日のうちに先に読んでしまった。そうして上の文章を書いておいて、別の日に最初から読み始めようとしたのだが、タイミングを失してしまって、書けないうちにどんどん時間がたっていくので、Ⅰ部はざっと読みのままにしておいて、最初の印象に頼った抜き書きだけでも以下に残しておくことにする。
鎮魂の旗黒く立つ町に来て無傷なること罪のごとしも
エーテルを青く湛える空の下忘れられたるごとくわたくし
ウクライナ、ウクライナいま名指しされ氷の椅子を立ち上がりたり
空は今朝海面のごとし宇宙での殉職飛行士二十一人
※「面」に「も」と振り仮名。つまり「海面」を「うなも」と読む。
帰還事故ののちも軌道を回りいる宇宙飛行士のブーツを思う
※「宇宙飛行士」に「アストロノート」と振り仮名。
目隠しをされて荒れ地に跪く 夢にはあらず魂の冬
もうすでに期限は過ぎて五分ほどアラビアの空思い祈れり
おしまいの二首は同じ一連から引いた。これは、人間の暴力と人間存在の徒労のような営為の意味を問おうとしている。三首目に引いたウクライナの歌にもそういう性格がある。現代の日本人の一人として生きていると、マスコミ的な言辞が一般に共有されすぎているから、どうしても空虚な軽薄な表面的な意識に陥りがちなのだ。そういう風船のように浮きあがってしまいそうな日常的な意識を異化して、突き放し、詩の重しによって自己存在の軽さを徹底的に抑えこみながら、屹立した自己というものを持って、一人の死の意味を本気で考え、本気で感じ取ろうとしている。