※ 消してあったが、復活させることにした。
最近いろいろと考えてしまうのだが、私がここに或る人の歌を引くとして、その本は、もともと五百部とか七百部とか、限定された部数で出版されたものである。そこでは、従来ならば、本来読者はその人数だけでいいはずである。その限られた幾人かに、作者がごくひそやかに、わかる人にしかわからないようなかたちのメッセージを発したとして、受け取った側が、それをインターネット上で論評することは、極めて「非対称的」なことではないだろうか。
だから、最近私は自分のブログに引く歌について、ためらいを覚えることが多くなった。世の中には、歌の読み方をまったく学んでいない人も大勢いるわけだから、そういう人に、聞きやすい言葉で何かを論評する言葉を安易に届けてしまったら、それはそれで、暴力に近いものになるのではないだろうか。
そのため私は、このブログに全否定するようなニュアンスの言葉を書きづらくなっている。さらには、ちょっとした批評的なコメントも、むつかしいのではないかと感じている。読者のレベルが、わからないからである。 私は、ある人にごく私的な場で、或る人の作品について批評したことがある。それからしばらくして、逐一その時の私の発言がネット上に出ていた。本人は、特に何も考えないで書いたのであろうが、私は頭を抱えた。これも「非対称性」の一例である。
ネット上の批評には、常に「非対称性」がリスクとして存在する。そのことを踏まえたうえで、何かを書いていってみたい。その際に必要なのは、無名の作者への敬意である。
私は、ある場所で自己紹介をした時に、ある高名な批評家に、鼻であしらわれた覚えがある。その時に有名人と無名な人間との差が、骨身にしみてわかった。以後、私は有名な評論家には近寄らないように気を付けるようになった。不愉快な思いをしたくないからである。彼らは、自分の手持ちのカードだけで生きていけるわけだから、私が何か賛辞のようなものを彼に奉ったとして、それはたいしたことではないのだ。これは現実の人間関係における非対称性の例である。
私の家に届く本について、私はその多くを取り上げられない。それは、ネットというメディアに乗っかってふんぞりかえっているからではない。私の時間は限られているし、私はけっこう気まぐれである。思い上がっていると思われるのが、とてもつらい。ただし、作者が目の前にいれば、何かを言うことは出来る。でも、以前まともに彼の作品を批評しようとしたら、ビールのグラスでなぐられそうになったことがある。ことほどさように、ものを言うことは、むずかしい。
追記。とは言いながら、褒め殺しのようなものは書かないつもりだ。(2019.1.2)
最近いろいろと考えてしまうのだが、私がここに或る人の歌を引くとして、その本は、もともと五百部とか七百部とか、限定された部数で出版されたものである。そこでは、従来ならば、本来読者はその人数だけでいいはずである。その限られた幾人かに、作者がごくひそやかに、わかる人にしかわからないようなかたちのメッセージを発したとして、受け取った側が、それをインターネット上で論評することは、極めて「非対称的」なことではないだろうか。
だから、最近私は自分のブログに引く歌について、ためらいを覚えることが多くなった。世の中には、歌の読み方をまったく学んでいない人も大勢いるわけだから、そういう人に、聞きやすい言葉で何かを論評する言葉を安易に届けてしまったら、それはそれで、暴力に近いものになるのではないだろうか。
そのため私は、このブログに全否定するようなニュアンスの言葉を書きづらくなっている。さらには、ちょっとした批評的なコメントも、むつかしいのではないかと感じている。読者のレベルが、わからないからである。 私は、ある人にごく私的な場で、或る人の作品について批評したことがある。それからしばらくして、逐一その時の私の発言がネット上に出ていた。本人は、特に何も考えないで書いたのであろうが、私は頭を抱えた。これも「非対称性」の一例である。
ネット上の批評には、常に「非対称性」がリスクとして存在する。そのことを踏まえたうえで、何かを書いていってみたい。その際に必要なのは、無名の作者への敬意である。
私は、ある場所で自己紹介をした時に、ある高名な批評家に、鼻であしらわれた覚えがある。その時に有名人と無名な人間との差が、骨身にしみてわかった。以後、私は有名な評論家には近寄らないように気を付けるようになった。不愉快な思いをしたくないからである。彼らは、自分の手持ちのカードだけで生きていけるわけだから、私が何か賛辞のようなものを彼に奉ったとして、それはたいしたことではないのだ。これは現実の人間関係における非対称性の例である。
私の家に届く本について、私はその多くを取り上げられない。それは、ネットというメディアに乗っかってふんぞりかえっているからではない。私の時間は限られているし、私はけっこう気まぐれである。思い上がっていると思われるのが、とてもつらい。ただし、作者が目の前にいれば、何かを言うことは出来る。でも、以前まともに彼の作品を批評しようとしたら、ビールのグラスでなぐられそうになったことがある。ことほどさように、ものを言うことは、むずかしい。
追記。とは言いながら、褒め殺しのようなものは書かないつもりだ。(2019.1.2)