※2015年に「無人島」に掲載した文章を以下に掲載する。一部はブログ等に利用して載せたかもしれない。
最近はジャンルによって古書の値下がりが甚だしいので、私のような本好きにとっては、ありがたいような悲しいような事態が起きている。加えて国会図書館蔵書のデジタル化が進んだため、かつての稀覯本が安価に市場に出回るようになった。『桂園遺稿』上・下など、私が買った時は一万五千円したものが、最近「日本の古本屋」サイトを見たら約半分の価格に下がっていた。詩集、歌集は特に有名なもの以外は、たいていのものは千円も出せば買えるのである。なお国会図書館の「近代文学デジタルライブラリー」は必見。影印本まで見ることができる。あとは国際日本文化研究センターの検索データも「国歌大観」が見られない時は便利である。
閑話休題。淺川氏より近藤芳美について何か書けないかということなのだけれども、これは私の書くものよりも大島史洋の近著『近藤芳美論』などを見た方が時間の節約になる。ここでは近藤の五歳年上の先輩に当たる小暮政次の歌について書いてみたい。晩年より十年ほど前の近藤芳美に私は歌会の後の席で親しく接したことがある。その時に近藤は小暮政次の歌を読めと私に言った。これについては、砂小屋のホームページの「今日のクオリア」の五月十四日のところに書いた。
小暮政次の歌は、ある年齢をこえた者には、きわめて価値の高い生の指針となるようなものではないだろうか。私の手元には『小暮政次全歌集』と十冊ほどの歌集があるのだが、特に晩年に近い頃のものは、「全歌集」が便利である。どこを開いてもいいのである。たちどころに小暮の生きていた老年の思念の時間と、見聞きしていた周囲の事物の姿に触れることができるのである。これを見ると、歌がうまいとかへたとか、いい歌とかよくない歌とか、そういう所を完全に踏み越えたところを独歩する歌人の自在な境地に新鮮な驚きを覚えるのである。『閑賦集』(未刊歌集)の「来るべきもの」より。
束の間に息は定まるかなしさを告げがたきかなこれの世のこと
側になほ在るごとし思ふさへ自から疑へど致し方なし
ひつたりと寄り添ひてくる影なるかひとりはなれてゆく影なるか
眠らむとして安からぬ心なり暁となり樹々遠くゆらぐ
哀しみを試みとして受け入れむと思ひ至りし時暁は近し
眠りがたし思ひていよいよ眠り難しひとりのこころひとり思ひて 『閑賦集』
これは作者が平成七年に妻を見送ってのちの歌である。私は同じような境遇の方と接する機会があるので、こういう歌も歌会にしばしば出てくる。父母や子、兄弟をうたった歌とともに、普遍的な人間の心情を表現しているのではないかと思うのである。全体に心内語をつづった作品が多いのだけれども、「暁となり樹々遠くゆらぐ」というような、簡略でおおまかな自然の描写が、かえってわれわれの日常の感覚を思い起こさせるところがある。そうして、小暮の話法は、繰り返し自己の思考の跡をたどってゆくものである。言い直し、思い返ししながら、思考の流れを定着してゆく。「ひつたりと寄り添ひてくる影なるか」。もう一度。「ひとりはなれてゆく影なるか」。寄り添う影は、はなれてゆく影である。「眠りがたし」。思ひていよいよ「眠り難し」。「ひとり」のこころを「ひとり」思ひて。上句と下句に二度、繰り返しがある。こうすると、歌はいくらでも、後からあとから湧くように作ることができるのだろう。それが格調を持って、だらだらしないのは、文語と定型の功徳というものである。
解題の文章にも触れられているが、平成二年の土屋文明の没後の歌は、明らかに歌風がそれ以前と異なる。『暫紅集』『暫紅新集』『閑賦集』と続くなかで、『暫紅新集』は少しうるさい感じのする歌がある。それが『閑賦集』ではいたく鎮まっているのだが、『暫紅集』『暫紅新集』には、その分生気があるとも言える。もとより拾い読みの感触で、熟読したわけではないが、だいたい当たりをつけるとそんな感じだ。
噴飯、絶倒、大笑の例を集めたり人々我を笑止と見たま
へ
「酔望」の二字拾ひ得たり愉し愉し恰も青葉は光り狂へる 『暫紅新集』
この頃の若い人には謙遜の辞が通じないので、若い人の前で「笑止と見たまへ」などとは言わない方がいい時代になった。
最近はジャンルによって古書の値下がりが甚だしいので、私のような本好きにとっては、ありがたいような悲しいような事態が起きている。加えて国会図書館蔵書のデジタル化が進んだため、かつての稀覯本が安価に市場に出回るようになった。『桂園遺稿』上・下など、私が買った時は一万五千円したものが、最近「日本の古本屋」サイトを見たら約半分の価格に下がっていた。詩集、歌集は特に有名なもの以外は、たいていのものは千円も出せば買えるのである。なお国会図書館の「近代文学デジタルライブラリー」は必見。影印本まで見ることができる。あとは国際日本文化研究センターの検索データも「国歌大観」が見られない時は便利である。
閑話休題。淺川氏より近藤芳美について何か書けないかということなのだけれども、これは私の書くものよりも大島史洋の近著『近藤芳美論』などを見た方が時間の節約になる。ここでは近藤の五歳年上の先輩に当たる小暮政次の歌について書いてみたい。晩年より十年ほど前の近藤芳美に私は歌会の後の席で親しく接したことがある。その時に近藤は小暮政次の歌を読めと私に言った。これについては、砂小屋のホームページの「今日のクオリア」の五月十四日のところに書いた。
小暮政次の歌は、ある年齢をこえた者には、きわめて価値の高い生の指針となるようなものではないだろうか。私の手元には『小暮政次全歌集』と十冊ほどの歌集があるのだが、特に晩年に近い頃のものは、「全歌集」が便利である。どこを開いてもいいのである。たちどころに小暮の生きていた老年の思念の時間と、見聞きしていた周囲の事物の姿に触れることができるのである。これを見ると、歌がうまいとかへたとか、いい歌とかよくない歌とか、そういう所を完全に踏み越えたところを独歩する歌人の自在な境地に新鮮な驚きを覚えるのである。『閑賦集』(未刊歌集)の「来るべきもの」より。
束の間に息は定まるかなしさを告げがたきかなこれの世のこと
側になほ在るごとし思ふさへ自から疑へど致し方なし
ひつたりと寄り添ひてくる影なるかひとりはなれてゆく影なるか
眠らむとして安からぬ心なり暁となり樹々遠くゆらぐ
哀しみを試みとして受け入れむと思ひ至りし時暁は近し
眠りがたし思ひていよいよ眠り難しひとりのこころひとり思ひて 『閑賦集』
これは作者が平成七年に妻を見送ってのちの歌である。私は同じような境遇の方と接する機会があるので、こういう歌も歌会にしばしば出てくる。父母や子、兄弟をうたった歌とともに、普遍的な人間の心情を表現しているのではないかと思うのである。全体に心内語をつづった作品が多いのだけれども、「暁となり樹々遠くゆらぐ」というような、簡略でおおまかな自然の描写が、かえってわれわれの日常の感覚を思い起こさせるところがある。そうして、小暮の話法は、繰り返し自己の思考の跡をたどってゆくものである。言い直し、思い返ししながら、思考の流れを定着してゆく。「ひつたりと寄り添ひてくる影なるか」。もう一度。「ひとりはなれてゆく影なるか」。寄り添う影は、はなれてゆく影である。「眠りがたし」。思ひていよいよ「眠り難し」。「ひとり」のこころを「ひとり」思ひて。上句と下句に二度、繰り返しがある。こうすると、歌はいくらでも、後からあとから湧くように作ることができるのだろう。それが格調を持って、だらだらしないのは、文語と定型の功徳というものである。
解題の文章にも触れられているが、平成二年の土屋文明の没後の歌は、明らかに歌風がそれ以前と異なる。『暫紅集』『暫紅新集』『閑賦集』と続くなかで、『暫紅新集』は少しうるさい感じのする歌がある。それが『閑賦集』ではいたく鎮まっているのだが、『暫紅集』『暫紅新集』には、その分生気があるとも言える。もとより拾い読みの感触で、熟読したわけではないが、だいたい当たりをつけるとそんな感じだ。
噴飯、絶倒、大笑の例を集めたり人々我を笑止と見たま
へ
「酔望」の二字拾ひ得たり愉し愉し恰も青葉は光り狂へる 『暫紅新集』
この頃の若い人には謙遜の辞が通じないので、若い人の前で「笑止と見たまへ」などとは言わない方がいい時代になった。