さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

駒田晶子歌集『光のひび』

2016年01月23日 | 現代短歌 文学 文化
 第一歌集が「現代歌人協会賞」など三つの賞をとっている歌人の作品集である。Ⅱ章の入院中の病院のベッドの上で東日本大震災の揺れに遭う歌のあたりから、歌集は俄然ドキュメントの精彩を発しはじめる。Ⅱ章の冒頭の三首を引く。

 ベッドの上のわたしが、ベッドが、病院がゆれて明かりのすべて消えたり
 窓際のベッドの寒さ 院内の医師召集のアナウンスつづく
 低き長き地鳴りありまた揺れるなとうすく覚醒して受けいれつ

 これは、すごい。定型を一度にはみだして、切迫した思いがつづられた瞬間に、短歌という形式が生きて働きはじめる。三首目の「うすく覚醒して受けいれつ」という語の選び方も冴えている。この歌には、強固なゆるぎないリアリティが感じられる。
「二〇一一年 水無月」と詞書がある歌。

 この朝のひとつのひかり生まれきたる子の濡れている髪がまぶしい

 こういう人もいたんだなあ、と素直に事実に感動する。ページをめくると、すぐ次の章のタイトルが「この夏のふくしま」とあって、続けて次の歌が来る。

 三人の子を連れ福島の空気をすこし浅めに呼吸していつ

「すこし浅めに」というのは、放射能が気になって空気を胸いっぱいに吸い込めないような気がする、というような、そこにいる当事者でなければ言えない実感だろう。子育ての歌を引く。


 ゼロ歳と三歳の眠る昼すぎにああこんなにも降る鳥の声


「甲状腺は蝶や鳥が羽根をひろげたようなかたち」と詞書がある歌。

 ひとりずつ喉に棲まわせたる鳥のちいさなつばさの見えざる傷よ

この歌は、被爆のことを詠んだ当事者の歌のひとつとして残さなければならない。Ⅱ章のおわりの一首。


 福島の誰も帰れぬ地に降りる雪はしずかに嵩を増やしぬ

よくわかるけれども、東北の歌人たちがここ数年の間に出した震災関連の歌が含まれた歌集のなかに置くと、この歌は平凡かもしれない。
そうしてⅢ章のはじめ、凡庸な生活詠が続いたあとに説得力のある歌が出てくる。


 もういいと帰らぬ決意を待つだけの大いなる国という機関あり

言いたいことはわかるけれど、無骨な歌だなあと思う。


 なかなかに引き抜きにくい釘抜けぬままぬけぬけと都市の明るし

これが帯の文章に載っている歌だ。「釘引き抜きにくい」は早口言葉だった気がする。これも前の歌にくらべれば機知的なところがあるけれども、やっぱり無骨な歌だ。短歌は自分の体質に合った歌い方でやっていけば、それでいいのだ。ほかに作者の立っている位置が明確な歌として。

 ふくしまと設定されたる幕間の舞台はライトもなく暗いなぁ
 力点はオリンピックにもう置かれ天秤の皿の上の東北
 みんなもう忘れかけてるとりどりにスカイツリー色をかえてきれいだ
 逃げてった帰ってきた地震ののちに罅われてゆくわれのふるさと

モームの新訳から思い出話 

2016年01月19日 | 日記
 最近はサマセット・モームの小説の新訳が、文庫本で出ている。私はかれこれ四十年も前のことになるが、高校二年の時に文芸部の「群季」という雑誌に、モームの小説のおもしろさについて書いた文章を投稿して載せたことがあるから、自分にとってはなじみの深い小説家なのだ。紺色とモスグリーンの印象的な表紙デザインで新潮文庫からたくさん本が出ていた。家の本棚に父が古書店で売却しなかった河出書房の世界文学全集のモームの巻が残されていて、それには『劇場』と『月と六ペンス』が収録されていた。ヘッセの『知と愛』などもあった。いずれも官能的な描写が、中学生にはひどく刺激的だった。別にそういう描写の部分だけ読んでいたわけではないが、未知の性の香りがする文章に酔った。
 同じ頃に川端康成の文庫本はほぼ全部読破して、『禽獣』や『みずうみ』や『眠れる美女』のような、変なものをみんな読んでしまっていた。高校に入る頃に小学館の『GORO』という雑誌が出て、篠山紀信の「激写」シリーズが始まっていた、と言えば同世代の男性諸君にはわかるだろう。赤瀬川原平の絵が毎号ページの真ん中に載っていた。文学系の女子は倉橋由美子や辻邦夫を読んでいた時代だと思う。それは私も多少は読んだけれども、あまり趣味に合わなかった。高校三年の時に、白水社の「小説のシュルレアリスム」のシリーズが出始めて、唐十郎が「月下の一群」などという雑誌を創刊した。文庫本で「全集戦後の詩」が確か五巻本で出て、それも何冊か買った。その中の渋澤孝輔の詩にいかれた。受験勉強のかたわら幻想小説を書いていた。志望していた法学部はみんな落ちて、ひとつだけおまけに受けた大学の文学部が受かっていたので、そこに入学した。おかげでいまの自分がいる。もっともいまだに語学は駄目である。あの時期に、もっとちゃんとやっておけば良かったと思うが、仕方がない。
 最近はどこも英語重視で、英語のできる学生の方が偏差値上位校に受かりやすいようだ。でも、私は作家の水村美苗の英語教育論の賛同者なので、英語は得意な人にまかせて、別の方面に得意なもののある人は、そっちに精力を集中した方が、社会全体としては生産的だと思う。負け惜しみのように聞こえるだろうから、この話はこれでやめる。さてそれで、そもそも何の話だったかというと、サマセット・モームの新訳が出たという話だった。モームはイギリスの作家だ。新訳は『渚にて』というタイトルだったかな。最近は読んでも本の名前をすぐに忘れてしまう。いま調べたら、『片隅の人生』(ちくま文庫)だった。モーム、魂の肩を揉まれるような気がする小説家だ、なんて駄洒落は、だめか。そう言えば、一昨年の十一月に出た岡井隆と曽野綾子の対談集『響き合う対話』のなかでモームの話をして、盛り上がっていた。曽野綾子は、モームが好きなのだそうだ。曽野綾子が、長い間アフリカで苦しんでいる人たちのために支援活動をして来たということを、私はこの本ではじめて知った。

※しばらく消してあったが、2018五月十二日に復活させた。