さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

諸書雑記 星野源から宗左近まで

2023年01月29日 | 
諸書雑記

 今日は久しぶりにブックオフに寄ったので、購入した書名をならべてみよう。すべて二百円棚にあったものである。

 いま読了したのが星野源『甦る変態』(2014年5月刊初版)で、この人のアダルト・ビデオに対するリスペクトの言葉がすばらしい。もしまちがって出演して自殺を考えているような女性がおられたら、星野さんの曲を聴き、この本を読んで思いとどまってほしい。アダルトはまちがいなく星野さんの創作の栄養の一部だということである。

 このほかに著者は、かなり無理して自分の「ヘンタイ」を演出している気配がなきにしもあらずなのだけれども、このヘンタイというのは、繊細なアーティストの自意識を包むための一種のオブラートなのだろうと思われて、世の中は不正直な人間にあふれているから星野さんぐらいに正直だとつらかろうと思い当り、それやこれやの思いが湧いてきて、この文章を書き始めたのだった。以下はそのほかの廉価購入書。今日は芸能棚に集中した。

戸田奈津子『スクリーンの向こう側』(2006年、WOWOW発行、共同通信社発売)
水野学『グッドデザインカンパニーの仕事』(2008年12月第二刷、誠文堂新光社)
星野源『働く男』(2013年1月第3刷、マガジンハウス社)
マキタスポーツ『すべてのJ-POPはパクリである 現代ポップス論考』(2014年、扶桑社刊)
久世光彦『みんな夢の中』(一九九七年十一月第一刷、文藝春秋社刊)
壇蜜『どうしよう』(2016年、マガジンハウス刊)
青柳いづみ子『翼のはえた指 評伝安川加壽子』(2000年第6刷、白水社刊)

 一昨日読んだのは、深田祐介『歩調取れ、前へ』(二〇〇七年、小学館刊)で、これは戦前から戦後に及ぶ著者の少年時代に取材した自伝的・回想的な小説である。戦時中箱根に居た千人近いドイツ軍の兵隊たちの話や、キリスト教会の話、B29の海坊主のような怪異なデザインに対する恐怖など、新たに得られた知見が多かった。また、戦後のダンス・ブームの記述が川口美根子さんの歌の内容を裏書きしていて参考になった。翌日この本の話を神奈川西部地方の事情に詳しい人にしたら、その駐日ドイツ人との間に産まれた子供が「あいのこ」なんて言われて、戦後の進駐軍のアメリカ軍人のとの間に産まれたものと混同され、へんに差別されてしまうような時代があったということだ。

 深田祐介の本に触発されるような感じで手に取ったのが、昨晩読んでいた中村稔の『私の昭和史』(二〇〇四年十一月第四刷、青土社刊)である。父親がゾルゲ事件の判事だったという詩人の自伝で、父親はゾルゲを尊敬していたという。そのことはおくとして、古賀照一(宗左近)の『詩(うた)のささげもの』から引用された五月二十五日夜の四谷左門町一帯の空襲の体験を記した一節が哀切極まる。 ※ 以下の引用文の振り仮名は(括弧)に入れて示した。

 五月二十五日夜、四谷左門町一帯がアメリカ軍の空襲によって火の海になりました。母とともに逃げまどいました。脱出は不可能です。真福寺の墓地のなかに立ちすくみました。火がつかないのに、卒塔婆がいっせいに炎えあがるのです。最後です。十名ほどの少女たちの群れが泣き声をあげていました。「オ父(トウ)サン、コワイヨー」、「オ母(カア)さん、助ケテ」。わたしは立ちすくみました。癪です。この世にさよならする詩をせめて一行、生み出してやるぞ、一枚の灰になってしまったっていいのだぞ。考えました。でも、何も出てこない。ああ。やっと‥‥

  現(うつつ)よ、透明(あかる)い わたしの塋(はか)よ

 だが、これは、六ヶ月ほど前にノートに書きつけた一行にすぎないのでした。
そして一時間後、火の海から走り出たのは、わたし一人でした。」

 宗左近は二十余年後の昭和四十二(一九六七)年に『炎える母』という詩集を出した。私はそれを読んだことがないので、いずれ読んでみようと思う。それにしても、この泣いていたという少女たちのことが、無性に悲しい。

 東京空襲の犠牲者たちの多くが、銃後の女性たちや疎開していなかった幼少の子供たち、そして高齢者などの弱者だった。アメリカ軍のB29は、逃げられないように街全体を火の柱で取り囲み、そこに焼夷弾を計画的にばらまく絨毯爆撃を行って、市民を虐殺したのである。東京空襲を語り伝えることに尽力した早乙女勝元さんは、昨年5月10日に90歳で亡くなられた。私は中学生の時に岩波新書の『東京大空襲』を読んだことがある。





林武 フイレンツヱ

2023年01月28日 | 美術・絵画
「フィレンツェ残照」と題が付されている林武のコンテと水彩による小品を見る。
これはコンテと水彩によってえがかれた色紙サイズの小さな絵である。それなりの経年劣化を被った中古品で、約四十年以上の歳月を経たものだ。額裏にフジヰ画廊取扱いのシールがある。絵をみると、河を行くボートを押し流すようにして川水が下ってゆく。その向こうに斜めの反り橋が見えている。ここに描かれているのは、<時間>的なものであると今の私は思う。最近になって、林武の滞欧最新作が巻頭に紹介されている一九七〇年の「みずゑ」を手に入れて、代表作のひとつであるエッフェル塔の図版を見た。この頃が日本の「洋画」にとって一番いい時代だったのではないかとその時にふと思った。

 この絵は、黒く描きこんだコンテの線描の上に二色、青灰色と淡彩の赤色が薄くのっている。画面右手の川岸に見える建物の壁面は、細部が多めの線に塗りつぶされていてよく見えない。けれども、何日か壁にかけて折々眺めているうちに、不意にその塊のように描かれた建物の「感じ」が、納得のできるかたちでこちらに伝わってきたのだった。そうして、若干の経年劣化のために少しだけ元の画面より暗くなっているとおぼしいこの絵が、もともと持っている雰囲気の明るさのようなもの、一種の日常感覚のようなものの把握を同時に受け取ることができるようにも思った。

 そのむかし私は高校の美術部で絵をかいていた。それで美術科あてのポスターをもらさず目にできる環境にいた。高校二年生のときに竹橋の近代美術館で開かれた林武展を見て、私はとても強い印象を受けた。林武の絵の持っている緊密な構図と、それを支える生きることへの意欲のようなものに感動し、私はしばらく林武ばりの絵をかくことに熱中した。展覧会を見てからその頃刊行されていた中公新書の林武著『美に生きる』を読み、その構図論のとてつもない主張に驚いたのだった。構図論だから徹底的に空間の処理にこだわるものであることは言うまでもない。

 しかし、一九七〇年のヨーロッパで画家が見ていたのは、時間的なものでもあった。この流れる水を描いた小品に見られるような、動く時間と、それを固形物によって永遠化しようとするヨーロッパの文化が持つ根源的なエネルギーの当体を画家は自分の肉体を通過させながら描こうとしていた。彼の代表作のひとつであるエッフェル塔は、フランスの文化そのものが持っている力が、物と化して突出したものであるように思われる。

 翻って日本では、それは富士山だ。日本文化のなかにおける永遠なるものの象徴として、この画家が富士山を選んだことには必然性がある。そこに動いているのは、あくまでも力動的なものと、その力動的な表現への関心である。すべての静止した状態のものは、内側にその存在物のみが持つ時間的な力を把持している。林武はそれを描こうとした。現在に顕現している永遠の相、つまり美なるものをつかむこと、それが画家に課せられた使命であった。

 林武には、一般の美術愛好家向けに企画された大判のデッサン集のセットと、石版画のセットがある。デッサン集の方は、官能的な印象の強い絵が多くあって親しみやすいので、どこかで再版したらいいと思うが、そもそもああいう絵の好みがいまの日本人の間にどれだけ残っているのか、とは思う。数年前に七千円で買った中古のデッサン集の絵の方は、何枚か交換用のマットを注文して作って、取り替えて見ることにしたのだが、ほとんど元手のかからない趣味で、そんなことをしていると気が紛れる。石版画の方は、きまじめな冷え冷えとした印象がある作品が多くて、額装してある二十号大の貫禄あるものがときどき中古でネットに出るが、厳粛な感じを受けるものだ。絵を写真版の画集を見るようにみるのではなく、自分のなかの正面をみる視線を一度編み直した「観る」態度にかえすことがもとめられる、とでも言えばいいだろうか。

 林武の絵は、余白の部分についての徹底的な思考があり、それは言い換えるなら存在や生命といったものに向き合う時の焦点・中心点についての思考でもある。そういう点で近代絵画・近代芸術の仕事は終わったわけではないのであって、近年のようにそれを軽々に忘れ去ってよいようなものでもないだろう。

諸書雑記ほか

2023年01月15日 | 
『「利他」とは何か』(集英社新書2022年6月第一四刷)より

 「見る」の古語「見ゆ」は、肉眼で何かを目撃することだけでなく、不可視なものを感じるという意味があります。そして「観る」という言葉は、人生観、世界観という表現にも用いられるように、目に映らない価値が観えてくることを意味します。「直観」とは、単に瞬間的に何かを認識することだけでなく、その認識が持続的に深まっていくことも指す言葉なのです。     若松英輔「美と奉仕と利他」


 この文章は柳宗悦についての文章から引いた。典型的には小林秀雄と斎藤茂吉の実践態度・生き方に集約的に表現されているような、日本文化の持っている独自の「もの」に就いた、また「もの」に即した精神性というものにこの解説は触れている。ここに引用した「直観」についての言葉は、日本の芸術をとらえるうえでの勘所なのだ。

 戦後の進歩主義、それから反体制文化が、まとめて時の彼方に押しやられようとしている今この時代に、近代のなかの「非」近代を通して「超」近代を目指す、という筋道をつけることが、今後の見込みのある方向性の一つとして考えられる。また、近代を超克するために「前」近代を梃子とするという、従前の「反」近代の実践の多くも、その意味がわからなくされていっていると思う。だから、それらのやむにやまれぬ模索の持っていた意味を、批判的に継承し、また語り伝えることも、同時に必要になっているのではないか、と私は思う。何十年も同じようなことを堂々巡りで考えて来て、文学作品も「観る」ことができれば、と思ったりするこの頃の自分ではあるのだけれども。こう書いてしまうと、それはだいぶ「小林教」に染まっているように見えるのが片腹痛い、と言うか、何と説明していいのかわからない。

 ※ 以前ここに入管法をめぐる自民党に対する批判的な記事を書いたのだが、最後の法案調整を蹴った立憲民主党のやり方も肯定できないので、この記事はいったん消してあった。が、この記事の前半は、再読してみて目下の私の関心にかかわりがあるので、再度訂正してあげることにした。

森田茂 「ベニス」

2023年01月15日 | 美術・絵画
 夕映えの寺院や塔が、黄金の輝きを発している夕暮どき、建物の屋根や壁から反射した光が、空の色と反照し合いながら、わななくように震え、この都市を特徴づける運河の水面の光をきらめかせている。塔や伽藍の間からあふれ出した光は、空の光彩と一体化して反照し合っている。画家はその光の交響を大胆な力強いタッチで鷲掴みしている。からだの中から、皮膚と血管、目と指先を眼前の風景に溶かしこむようにして、筆を動かしている。だから、画家の肉体は、この絵の中にありありと生きて溶け込んでいる。

 もしかしたら人は、画面中央左の塔が明らかに左に傾いていることを奇異なことと思うのだろうか。それを言うなら、画面中央右側のドームの建物も、注意して見ると右に傾いているのである。ここにあるのは、遠近法でもなく、画面の主知的な構成への関心でもない。眼前にきらめいているベニスの街全体から受ける印象を、直接に表現しようとする強い欲求があって、何とかしてそれを伝えようとして即興的な精神を発動した結果こうなった、というような画面なのだ。近年の高齢者中心となりつつある公募展の大半の絵に乏しいのが、こういう精神である。

 色彩の基調をなしているのは、緑と黄色である。こんなふうな緑の使い方は、私は見たことがない。大胆で独自である。黄色も絵の具のチューブから画面にじかに押し付けて定着したのだろう。所によってすさまじく盛り上がっている。その一筆一筆が、自己存在を証明する出来事へと転化している。または、そうあらねばならない、という意思をもって迷いなく色としての絵の具が置かれている。

 別の日に。しばらく見ないでしまってあった絵を取り出して黄袋を払うと、たちどころに燦爛とした色彩と絵筆の調子が目を打って来た。それは生の躍動感となって、微動し、反射する光となって、風景をゆらぎの相のもとに開示している。だから、画面のなかに静止しているものはないのである。

身めぐりの本

2023年01月03日 | 本 美術
 年末に例によって片付けをしていると、岩波新書の黄色版の鹿野治助著『エピクテ―トス -ストア哲学入門-』が出てきた。それをしばらく読んでから、新刊で買ってカバーがついているためにタイトルのわからない本を拡げたら、みうらじゅんの『人生エロエロ』だった。その取り合わせに一人で爆笑したのだけれども、どっちも名著ですよ。

 同じ書店の棚に並んでいた正津勉の『つげ義春論』の赤い方は買って読んだのだけれども、下巻をまだ読んでいない。たしか、みうらじゅんの本を買ってしまったせいではないかと思う。いま検索してみたら、正津さんと谷川俊太郎さんの対談による鶴見俊輔と詩を語るという本も読んでいるのを思い出した。正津さんは「山」にまつわる本もたくさん出している。

 山と言えば、山好きの歌人が一人亡くなられた。来嶋靖生さんだ。数回しかお会いしたことはないが、拙著の『香川景樹と近代歌人』の活字本の書評を書いていただいた。そのあと一度だけ和歌文学会で発表した「『桂園一枝講義』」口訳」の手製版冊子をお送りし、返事の葉書をいただいた。来嶋さんは一文字のタイトルの歌集が多かった。私は高所恐怖症なので、登山は活字で読むだけであるが、山を見るのはすきで、それを思うさま絵にかいてみたいと思いながら人生の年月をへてきてしまった。今年はどこかで機会をみて来嶋さんの歌について書いてみたいが、手元に本がないので今日はできない。

 山の絵というと、戦前の世代だと足立源一郎がいるけれども、この人の若い頃の『春陽会画集』に掲載されている女性をかいたモディリアーニ風の絵が、もし現存して居るなら、私はぜひそれを見てみたいと思うものだ。だぶん、まちがいなく空襲で焼けてしまったのだろうが、背景の市松模様の壁の模様は和洋の意匠をみごとに折衷したもので、戦後の林武の女性像などの先蹤をなすものと言ってよいものだろうと思う。

 昨年は、ナカムラクニオという人が『洋画家の美術史』という楽しい本を出して、自分の持っている安価なリトグラフや、もしかしたら贋作かもしれない絵の写真を、「どうなんだろうね」なんて言いながら、堂々と本に掲載して楽しそうに語っているのをみて、我が意を得たり、というか、同好の士がいるものだなあと思ったことである。バブル時代のばか高い美術品相場と比較して、いまは「洋画」が文学全集と同様の運命をたどっているのだけれども、自分の好きなものを見つけたらそれを手に入れられるわけだから、貧乏な美術愛好家にとっては決してわるい時代ではないだろう。ただし、自分の収集品が、手に入れた時と同様に、いずれは二束三文で叩き売られてしまうかもしれないということについても覚悟しておかなければならない。大成してのちの梅原龍三郎が「洋画家」と呼ばれることに抵抗を感ずる、と述べたことがあるが、そうは言いつつ油彩を主として描くのが「洋画」であるということは否めない。

 何日か前に画像を上げた栗原信の絵は、処分品価格で手に入れたもので、いずれ画家の出身の県の施設に寄付しようと考えているものだが、気に入っているので手離せない。一辺が一メートルもある古い大きい絵はきらわれるので安い。このほかに紙が経年で変色しているのを上から売り手が白色を塗ってしまったスケッチなども購入したが、そういうことは本当にやめにしてもらいたいものである。そのむかし梅原龍三郎が「骨はたしかに自分のものだけれども」と語っていたことがあるが、ネットではその手のものがけっこうある。あとは本体の絵は自分の手元に置いておいて、その拙い模写をこころみた油彩も買わされたが、しばらく見ていてたのしくないので、やられたな、と思った。ペインティング・ナイフを用いた描き方と、オーソドックスな写実的な画風は真似しやすいと思われるのだろう。栗原作品にはヨーロッパの景勝地の複製の工芸画がたくさんあって、今では考えられないが、昭和三、四十年代にはそれなりに需要もあったものらしい。私は三点ほど見たが、まだあるかもしれない。

 栗原が描いた戦前の中国大陸の風景画は、軍事郵便葉書で大量に発行されたものが、いまはネットに出ている。それをみると、当時から画風はあまり変わらない。大陸在住の日本人が家財一式残してきたもののなかに栗原の絵も含まれていただろう。いまはネットの時代だから探索可能な気もするが、そもそも栗原の絵はどちらかというと地味だから、値もつかないし、目先のきらびやかなものが幅をきかせている今の時代に、どこがいいのかわからないかもしれないのだが、私はおもしろく感じる。
栗原は井伏鱒二といっしょに雑誌を出していた時期もあり、このブログで前に少しだけ言及した井伏の『徴用中のこと』にも名前が出ている。栗原は初戦の頃のシンガポール攻略戦に武器を持たずに従軍して本まで書いたが、前線取材で弾雨にさらされて危うく死にかけている。同じ従軍画家でも戦後になって田村孝之介や宮本三郎のように脚光を浴びはしなかったが、再評価されてもいい画家である。
 後年のスケッチをみると、ごく一般的な描線を持ちながら、後期印象派的なマチエールへの関心が一貫してあって、特に構図へのこだわりがある。写実的な画風に見せつつ、注意してみると、どの樹木や電柱もしばしば斜めに傾いている。木だけでなく、道や地面、河川の見え方に逆三角形を用いた構図を好んで配するところがあり、栗原の描く河川は多くが湾曲している。そして日本人の画家らしく余白についての独特の感覚がある。当時は「和臭」と言ったらしいが、そこのところでどこまで意識的でいられるかが、当時の「洋画」家の在り方を大きく規定した。それは今でもそうかもしれないのである。
もっと連想の糸を引っ張るつもりだったが、だんだん眠くなってきたので、この辺でやめにする。明日から出勤の方々、よい一年にしましょう。