さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

奈賀美和子『風を聴く』

2017年06月30日 | 現代短歌 文学 文化
 なつかしい、という単語に当たる言葉は英語にはないのだそうだ。では、何と言い換えよう。それと同じように、奈賀美和子の歌のよろしさを人に伝えるには、どのような言葉がふさわしいのか、にわかに私にはわからない。何しろ『ふたつの耳』以来のファンだから、奈賀さんの歌集は文字で書かれているけれども、たとえ言うと「香り帖」のようなもので、そういう物が世の中にあるとして、ちょっと広げると、たちまちに匂いやかな歌のことばの世界に包まれるのだ。だから、一度に通読してしまうなんて、そんなもったいないことはできない。ちびちび読むつもりである。

 徹底的に求心的な歌であり、そのようなこころの態勢を維持して歌を作り続けるためには、常にある種の集中と、平静な「観」のかまえが必要なのだ。それは別に求道的なものでもないし、禁欲的なものでもなくて、ゆったりとした自然体とでも言ったらいいか。要はその昔「未来」の私の先輩の歌人上野久雄が言っていた「どんな時でも歌が作れるこころの状態でいることが大切なんです」ということに尽きるのだが、そのような心のありようを追求することのなかに、願いのような、祈りのような何かが立ちあらわれるのだ。ふわっと風のようにこちらのセンスの総体を吹き抜ける気配がある。


 踏みて入る闇の霊場わつと寄りすつと去りたり思ひのなべて


 日照雨降るこのきらきらの時の間に呼ばれゆきたる雲一つあり

     ※「日照雨」に「そばへ」と振り仮名。


 この国の曖昧ゆゑの温とさの言葉眠らす言葉のあはひ


 こんなにも空が高いとおもふなりあなたの逝きて日々に仰ぐに


 細部に通い合う気息が、自ずとよく選ばれた平淡な言葉の一粒一粒を生き返らせる作用を持っているのである。これは日本語のわかる人のための贈り物だから、無粋な私の早々の推奨の弁、すぐに全部は読まないつもりでいるので、秀歌はほかにいくらもあるはずだ。

書かないで読者に委ねるつもりだったが、掲出歌についてやはり何か書いてみることにしたい。よく見ていると、奈賀さんの歌は、句と句の間の「切れ」が普通の人のよくありがちな「切れ」ではないのだ。この作者は。むろん短歌という定型詩の性格上、型通りのものもあるのだけれども、「わつと寄りすつと去りたり」というような一回性を感じさせるつかみ方のある歌が、どの一連を読んでいても必ず何首かある。

二首目、「このきらきらの時の間に」と言っておいて、ここまでは誰でも言える言葉なのかもしれないが、続く「呼ばれゆきたる雲一つあり」という四句目は、これはなかなか普通は出て来ない。そうして結句の「雲一つあり」は型だけれども、それは水盤の土台のようなものだから、ここだけ見て当たり前などと言ってはならない。

三首目。「この国の曖昧ゆゑの温とさの」、と来て「言葉眠らす」という四句目には、言うまでもなく批評の目が働いている。読みながらにやっとして、この人でも最近はこんな事を言いたい時代になっているんだな、と思うのである。四首目は、この歌が身に沁みるような人は奈賀さんの歌の新たなファンになるかもしれないと思って、引いてみた。

石原秀樹歌集『自転車を漕ぐ』

2017年06月28日 | 現代短歌 文学 文化
先日、平塚の公園で竹の花が咲いたという記事を新聞にみつけて、思いは千々に乱れたのである。竹の花が咲くのは千年に一度、というのは誇張だろうが、それぐらいめずらしいことである。石原秀樹の歌集が出たのを手元に置いたまま半年もたってしまったのを、そう言えば何か書こうと思っていたのだったと、竹の花の記事から記憶を辿り直すような歌は、たしかにあった。

  隠り世に差す光あらばやはらかき金環食の影のごときか

 これは実際に日食の時に詠まれた歌だ。一首前に「金環食メガネ」という言葉の出て来る歌がある。「竹取物語」に取材した一連も好ましいものだった。

  罪を得て翁おうなと住むといふ辺境の地の日ごろ月ごろ

  もと光る竹こそあらねうつしみの翁おうなが月を見ている

  みやつこの屋敷の門は閉ざされて泣きゐるぼくを抱へたる女

  千年を泣きゐるやうなわたくしが閉ざされし門のむかうにもゐる

  忘れえぬ物語なり挿し絵には高窓ありてひかり漏れ入る

  常闇の一夜を限り咲くといふ花のかをりを待ちて千年

 一首目は月の住人だった姫君のことだが、二首目は、自分のことになっている。三首目以下で幼時の記憶をよみがえらせて、記憶の中の「竹取物語」の絵本の月光を思い起こし、千年に一度咲くという花の香りを思う歌へとつなげてゆく。巧みな人生についての詠懐である。
 短歌の世界には、凹凸で言うと凹(へこ)んだ言葉を専ら得意とするタイプの歌人がいて、世間の人が凸型の「自己表現」を気にしている時に、誰にも知られずにひっそりと庭隅の花を育てていたりするのだが、石原秀樹もそのタイプだろう。

  人遠し、思ひつたなし炎天の街中をいつも独り歩き

 この感じ方は、わかる気がする。作者がどういう生き方をしているかも、伝わってくる。作者の仕事は学校の教師であるが、一冊の中にはいくつかの違った職場での経験に基づくらしい歌を散見する。それがどれも自分の生き方の重心の低い所から出た言葉でうたわれているのだ。

  闇について問ひし子のあり大人しき十七歳を受け持ちにけり

  抱きゐる闇、たもつべき花ありと傍らに立つ教ヘ子に伝ふ

  この子らの笑顔の際にふとよぎる暗きまなざしゆめ見逃さじ

  絶望が自転車を漕ぐやや遅れ希望が通る放課後の道

一、二首目。ここで「闇」というのは、人間の持つ悪意とか、ひとをいじめる気持とか、そういうものの喩だろう。具体的な事は捨象されているけれども、何気ない表情でそういうことを話題にできる先生、でもあるのだろう。作り笑いを浮かべて変なことを言ったりはしない。三、四首目は、いろいろな困難を抱えている子供たちが集まっている職場に勤務している時の歌か。四首目も同じ一連の歌で、集題ともなっている。この感じは、わかる人にしかわからないだろうと思うが、つまり「絶望が自転車を漕ぐ」と言いたいぐらいに心がふさいでいる瞬間があるのだ。希望は「やや遅れ」る。

  五円玉落とす神あり雑踏に拾ひもて来るちひさこの神

  はろばろと泥田に出でてあたたかし歩めば尻にはねたる温み

  うなさかを渡つて来たるものおもひ 吾れ眼を挙ぐる泥田にありて

  神の庭ガラクタ市のにぎはひに恋をあきなふもの、零落す

作者は、師の藤井常世を介して釈迢空の作品世界や思想ともつながりを感じている。「ちひさこの神」にたとえられたのは、たぶん親しい近親の子だろう。孫という言葉はこの歌集には出て来ず、そういう自制は徹底している。私生活の具体的な断片はいったん抽象化されてから歌になるのである。四首目は、現代神道批判。作者は國學院で藤井貞文の講義を聴いたと後記にある。

日記 

2017年06月26日 | 政治
 もの言えぬ職場風土を作り出した、その結果としての東電の原発事故、東芝の斜陽というような実例を見ていると、社員が自由に意見を言える職場がどんなに貴重かということがよくわかる。

 この間の「前川の乱」には、私も多少の同情を持たないではないが、何しろ文部科学省というのは、学校現場における職員会議の採決をやめさせて、教員が自主的にものを決める決定権を奪って来た民主主義圧伏の張本人だから(オランダのような民主主義の先進国では絶対にこういうことはない)、その人たちがたまたま官邸の専権に頭を小突かれて、「苦しいです」と賢治の童話の象のオツベルみたいに訴えたからと言って、誰が同情するものか、と一方では思ったりもするのである。

 ポピュリズムというのは、両刃の剣だから、さんざん他党をばか呼ばわりして振るっていた刀が、今度はわが身を斬っている、というようなことになる。だって、あの大臣、見るからに答弁が☓☓すぎた。それで強行採決ならぬ中間なんとやらで、火刑ならぬ虚仮問題にも幕引き、なんて虫が良すぎる。飲酒運転で一発懲戒免職、というのがヒラの公務員なのに、何億円の使い道を決めた文書が行方不明だ、それでパソコンを廃棄して逃げ切るだって、ふざけるな、と思うのは人情というものでしょう。捜索に入る順番が違っている司法当局は、これもポピュリズムなのかしら。

※消していたが、四月二十日に再度アップすることにした。

『武術と医術』 甲野善紀・小池弘人の対話

2017年06月25日 | 近代短歌
 私はこの本をあらゆる分野の表現者のための手引き書として読むのである。

本人はいいと思っていても、よそから見たらぜんぜんだめである、というようなことは、表現の世界ではしばしばあることで、それを防ぐためには、謙虚なこころがけをもって、専心他者と関り続けるほかに手立てはない。

 とは言いながら、人間というのは弱いもので、自分が高く評価されたり、ほめられたりする場に固着しがちなところがあり、武道ではこれを「居つき」と言うそうだが、要するに「居ついたら」終わりなのが、表現の世界というものなのだが、一定の型がある方が何かと便利ではあるし、型を唱えられる程度に熟達すれば、その道の権威として通用するのが世間というものだから、自分の権威を守る方に走ってしまうのが、凡庸な人間の常である。だから、本音でものを言う人は、しばしば世間的には「異端」となる。

 礼儀作法にしてもそうで、礼は固定しているから礼である、と人は思いがちなのだけれども、本当にそうだろうかと考えてみると、時には「無礼」な方が礼にかなっているということもある。孔子が現代日本の就職斡旋のための礼儀作法講座をみたら天を仰ぐのではないか。

 …というようなことを、いろいろと考えさせられる本が、甲野善紀と小池弘人の対話集『武術と医術 人を活かすメソッド』(集英社新書2013年)である。

 表現というものは、ふだんから対面の場で本音をぶつけあっていないと、自家中毒に陥ってしまう。このことを私はネット好きの人には常に言って来た。この本では、負の「縮退」に陥らずに「創発」してゆくには何が必要か、というようなことが話し合われている。ネットで高得点のものをずらっと並べてみせたらせんぜんおもしろくなかった、というようなことも時には起こり得るわけだから、<道具>も「場」も、過信は禁物だ。それは武道で禁物の「居つく」ことになってしまうということなのである。



 

『桂園一枝講義』口訳 241-250

2017年06月25日 | 桂園一枝講義口訳
241
門さして人にはなしと答へけりいかゞはすべきうぐひすのこゑ
四五四 門さして人にはなしとこたへけりいかゞはすべきうぐひすのこゑ 文化十二年

□往年病気づきたる時、人はくる外になすべきこともあり。かたがた門人残らずことわりきりたり。さて外人のこぬために別屋をかりてすみたり。其時に門人両人つきたり。一人は伊丹の人。
「老らくのこんと知りせば門さしてなしと答へてあはざらましを」。「古今」。

○往年(自分が)病気づいた時、人は来るし外にしなければならないこともある。かたがたもって(それやこれやの理由で)門人を残らず断りきってしまった。さて外人(よそびと)が来ないようにするために別屋を借りて住んだ。その時に門人が二人付いた。一人は伊丹の人。
「老らくのこんと知りせば門さしてなしと答へてあはざらましを」。「古今」(にこういう歌がある)。

※「古今和歌集」八九五。

242 
うぐひすのこづたふ枝は見えねどもこゑぞ聞ゆる夜はあけぬらし
四五五 鶯の木づたふ枝は見えねども聲ぞ聞ゆる夜はあけぬらし 文化三年

□此れも岡崎にこもりたる時分の歌なり。庭に梅もあり。又岡崎は山ぎはなり。
○これも岡崎にこもった時分の歌だ。庭に梅もある。又岡崎は山際である。

243
ひるよりは大方くもる此のごろの朝毎になくうぐひすのこゑ
四五六 昼よりは大かたくもるこのごろの朝ごとになくうぐひすの聲

□初春より二月初迄の景色なり。朝より己(※巳の誤植)の刻比(頃)までは天気なり。午後くもるなり。「土佐日記」に「日てりて曇れり」と書けり。よく書きたるもの也。日てりて、と云ふは、きびしきなり。みじかき故にくもれりと出づ。語勢に早く己刻よりくもれる語勢なり。ことわりの外なり。詞のはづみによりてはかるなり。

○初春より二月初迄の景色である。朝あけてから己(※巳の誤植)の刻比(頃)までは天気である。午後曇った。「土佐日記」に「日てりて、曇れり」と書いてある。よく書いたものだ。「日てりて」と言うのは、(一首におさめるのに)きびしいのだ。短いから「くもれり」と(言葉が)出る。語勢に、早くも己刻(十時頃)から曇ってしまったという語勢である。通常はないことなのである。詞の弾みによって(それをそう)推し測るのである。

※地味な歌だが、前の歌とともに佳吟。ここの文章論、近代の一流の批評家のような言葉である。『土佐日記』のなかなか舟が出航しないくだりに「二十三日、日照りて曇りぬ。」とある。

244
静なる月にとむかふあけぼのゝこころもしらぬもゝ千鳥かな
四五七 しづかなる月にとむかふ明(あけ)ぼのゝ心もしらぬもゝちどりかな 文政九年

□春夜の曙はよろしきことの最上なり。春曙は古へよりよろしき限と定めることなり。心あらん人に見せば(へ)や、と云ふ程の事なり。梅月堂にこもりて詠みたる夜なり。近世、涌蓮が「明日もまた朝とく起きてつとめばや窓にうれしき有明の月」となり。
百千鳥のやかましき、即ちおもしろき部類に入れるなり。したうれしきなり。俗諺に「かやうの御馳走ではいなね、ならぬ」と云ふ類なり。

○春夜の曙は、似合わしいことの最上のものである。春の曙は、昔から素晴らしいものの限りと定まったことだ。「心あらん人に見せばや」、という程の事である。梅月堂にこもって詠んだ夜である。近世、涌蓮が「明日もまた朝とく起きてつとめばや窓にうれしき有明の月」と歌ったそうだ。
「百千鳥」のやかましき(ことも)、すなわち興あることの部類に入れるのである。心うれしいのである。俗諺に「かやうの御馳走ではいなね、ならぬ」と(わざとだだをこねて)言う類(の非難)である。

※涌蓮(ようれん)、江戸中期の真宗高田派の僧。冷泉為村の弟子。

   此間十首欠席

245
をとめごがこがひの宮にちる花は眉をいでたる蝶かとぞみる
四六八 をとめ子がこがひの宮にちるはなはまゆを出(いで)たる蝶かとぞ見る 文化十二年

□こがひの宮の実景なり。もとたゝすなり。このしまのもりである。此の森へ入れば花ありとも見えぬところなれども、花がちるなり。さては花があるさうな、といつも云ふところなり。此の歌は実景と縁語とを兼備したる歌なり。歌によりて縁語ばかりよむもあるなり。

○蚕飼の宮の実景である。もと(は)糺の森である。この(川にはさまれた)島の森である。この森へ入ると花があるとも見えない所だけれども、花が散っているのである。さては花があるそうな、といつも言う場所だ。この歌は実景と縁語とを兼備した歌だ。歌によっては、縁語ばかり詠むものもあるのだ。

246
野の宮の樫の下みちけふくればふる葉とともにちるさくらかな
四六九 野の宮の樫の下道けふくれば古葉とゝもにちるさくらかな 文化十二年

□此れ野の宮の実景なり。宮の前はかし原なり。かしの葉は冬散らずして春にならねば散らぬなり。二、三月が散る盛なり。どんぐり、小ならしばの類皆春ちるなり。

○これは野の宮の実景である。宮の前は、樫原である。樫の葉は、冬に散らず春にならないと散らないのである。二、三月が散る盛である。どんぐり、こなら 、ならしばの類は皆春散るのだ。

※嵯峨野にある野宮神社。「こならしば」は二つの語を一緒に言ったものか。

247
只たのめ横川のおくにさく花も散りて後こそ浮びいづなれ
只たのめ横川のおくにさく花も散りて後こそ浮びいづなれ

□ひえの奥なる横川なり。仏場故にての歌なり。一節(※筋の誤植)に仏法はたのむがよいとなり。横川に桜がありやなしや知らねども散て出て見れば浮ぶなり。一筋にたのめば悪趣に堕落はせぬなりと云ふ歌なり。
空也の歌に「山川の末に流るゝとちがらもみをすててこそうかぶ瀬はあれ」。さる人の発句に、「身をすてゝ又身をすくふ貝杓子」。此は空也によるなり。

○ひえの奥にある横川である。(横川は)仏場であるから(そのことに)よっての歌である。一筋に仏法はたのむがよいというのである。横川に桜があるかないか知らないれども、散って(娑婆苦の世界を)出て見れば浮ぶ(すくわれる)のである。一筋にたのめば悪趣に堕落はしないのだという歌である。
空也の歌に「山川の末に流るる橡殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬はあれ」。ある人の発句に「身をすてゝ又身をすくふ貝杓子」(というのがあるが)、これは空也(の歌)に拠っているのである。

248
世の中はかくぞかなしき山ざくら散りしかげにはよる人もなし
四七一 世中はかくぞ悲しき山ざくらちりしかげにはよる人もなし 文化六年

□清水の歌なり。残花になりたるよし、故にひとり走りてゆきて見たるなり。花ある所は少く青葉多くなりたる頃なり。
「かくぞかなしき」、要の句なり。此句など骨折の句なり。

○清水での歌である。残花になったということで、一人いそいで行って見たのだ。花のある所は少く、青葉が多くなった頃だ。
「かくぞかなしき」が、要の句である。この句などは骨折った句だ。

249
ゑひふしてわれとも知らぬ手枕にゆめのこてふとちるさくらかな
四七二 ゑひふしてわれともしらぬ手枕(たまくら)に夢のこてふとちる桜かな 文政八年

□丹波亀山の三楽と云ふ人などゝ丸山に会に行きて、帰途青楼に登りたり。夜明けたり。晴天朗日なり。帰途南禅寺の丹後屋の前をとほりしに、桜散りて妙なり。幸に店上に休んで一杯また飲みたり。朋友なし。一人前夜のくたぶれと独杯とで、ゑひふしてねたり。さめて見たるに、花は皆散りたり。杯盤の上に散りうづみたり。おもしろき景色なり。
「われとも知らぬ」、荘周や我、我や荘周の所にかけて、「われとも知らぬ」の句心をつけたるなり。此れを詠みたる二三日後、相国寺にて「碧巌録」の講釈あり。誠拙の講義なり。それへ出たるなり。然るに和尚、此のうたを早く聞きて居て、賞美の余り趣意聞かれたり。然るに一等上の所をとけよと云はれたり。反てよみ人は知らぬは、和尚は其上を知ると云はれたり。大に問答ありしことなり。

○丹波亀山の三楽という人などと丸山に会いに行って、帰途青楼に登った。夜が明けた。晴天朗日であった。その帰途南禅寺の丹後屋の前を通ったが、桜が散って至妙だった。幸いに店上に休んで一杯また飲んだ。朋友はいなかった。一人前夜のくたびれと独杯とで、酔い伏して寝た。覚めて見たところ、花は皆散っていた。杯盤の上を散りうづめていた。おもしろい景色だった。
「われとも知らぬ」は、荘周や我、我や荘周の所にかけて、「われとも知らぬ」の句心をつけたのだ。これを詠んだ二三日後、相国寺で「碧巌録」の講釈があった。誠拙の講義だった。それへ出席した。そうしたら和尚は、この歌を早くも聞き知っていて、賞美のあまり趣意を聞かれた。それだけでなく、(歌の意味の)一等上の所を解いてみせよと言われた。かえって詠んだ人は知らないではないか、(この)和尚はその上(のところ・境地)がわかるぞと言われた。大いに問答があったことであった。

※景樹が佳吟をなせば、それがあっと言う間に門人の間に伝聞で広まる様子がわかる。

250 
家にありてみるだにあるをなつかしき妹がたうげの山ぶきの花
四七三 家にありて見るだにあるをなつかしき妹が峠(たうげ)の山吹のはな 

□丹波但馬の境かと思ひたり。妹が峠あるなり。よほど打越えて高きなり。城崎入湯の節やすみたり。旅ならずして見るだになつかしき山吹なるを、旅にしてみると云ふなり。妹が峠を幸によむなり。
「万葉」に山吹を妹に似する花と云へり。山吹は妹にみたつる也。「たうげ」、歌にしよめば、「たうげ」とはよまず。「たむけ」と云ふべし、と云ふべけれども、それは理の当然にして、こゝらは「妹がたうげ」と云はねば実景の興がぬけるなり。「たうげ」は峯とはちがうなり。高ねともちがふなり。打越国境などの所に云ふべし。

○丹波但馬の境かと思った。妹が峠がある。(そこは)よほど打越えて高い場所である。城崎入湯の節に休んだ(ことがある)。旅でなくても見るさえなつかしい山吹の花であるのを、旅(の空)でみるというのである。妹が峠(という名の場所にいるの)を幸いと詠んだのだ。
「万葉」に山吹を「妹に似する花」と言っている。山吹は妹に見立てたのだ。「たうげ」は、歌に詠めば、「たうげ」とは詠まない、「たむけ」と言うべきだ、と(人は)言うようだけれども、それは理の当然のことであって、ここは「妹がたうげ」と言わないと実景の興が抜けてしまうのである。「たうげ」は、「峯」とはちがうのだ。「高ね」ともちがう。打越や国境などの所に言うのがふさわしい。

『桂園一枝講義』口訳 233-240

2017年06月18日 | 桂園一枝講義口訳
事につき時にふれたる
□此の部立ては何の例もなきなり。されども、見やすきためにしるしたり。
○この部立ては、何の先例もないことである。けれども、見やすいために記した。

233 
しのすだれおろしこめたる心をもうごかしそめつ春の初風
四四六 しの簾おろしこめたる心をもうごかし初(そめ)つ春のはつかぜ

□「東風暖入簾」の題をよみたるなれども、一等下りたるは、この部に入れたるなり。
何分上の四季の間は正風なり。此の部は一等下るなり。下るは、時が当世に近よるなり。さて詞書は選集にかたあるなり。それはこゝに煩はしきなり。それをさらりとはぶきたるなり。「しのすだれ」、以篠作る所の簾なり。畢竟小竹すだれなり。「うごかしそめつ」、すだれをあくる心になるなり。うかれてのどかになるは、簾につきて出たる詞なり。「万葉」に「わが宿のすだれ動かし秋の風ふく」とあるなり。此のすだれを動かす縁より心をうごかすにかけるなり。
「しのすだれ」、岡崎辺の山家のいやしきさまなり。「す」は、あみたる名なり。それを垂れる故に「すだれ」なり。

○「東風暖入簾」の題を詠んだのだけれども、一等下った歌は、この部に入れたのである。
何ぶん上の四季の(部の)間は、正風である。この部は一等下るのだ。「下る」というのは、時(代が)が当世に近よるのである。さて詞書は選集に型がある。それはここで(は)煩わしいのである。それをさらりと省いたのだ。「しのすだれ」、篠をもって作る簾である。畢竟小竹すだれである。「うごかしそめつ」は、すだれを開ける心になるのだ。うかれてのどかになるというのは、簾に付いて出た詞だ。「万葉」に「わが宿のすだれ動かし秋の風ふく」とある。このすだれを動かす縁から、心を動かすということに掛けるのである。
「しのすだれ」は、岡崎辺りの山家の下々の家の様子である。「す」は、編んだ時の呼び名である。それを垂れるので「すだれ」という。

234
都人とひもやくると松の戸をあけたるのみぞやどのはるなる
四四七 都人とひもやくると松の戸をあけたるのみぞ宿の春なる 文化二年 二句目 とフヤトケフハ

□岡崎にてのふるき歌なり。いつも門をさして居たりしなり。さすが元日にはあけたるなり。「松の戸」、松を以て作りし板戸なり。山家のさまなり。

○岡崎での古い歌である。いつも門をしめて居たのである。さすがに元日にはあけたのだ。「松の戸」は、松で作った板戸だ。山家のさまである。

235
音たてて氷ながるゝ山川にみゝもしたがふはるは来にけり
四四八 音たてて氷ながるゝ山水に耳もしたがふはるは来にけり 文政十年

□六十の春の歌なり。よき天気にして元日塾中の人と白川吉田辺を遊覧したりし事ありし。その時折にふれたるうたなり。「耳も順ふ」、耳につくは即ち耳に順ふなり。

○六十の春の歌である。よい天気で元日に塾中の人と白川吉田辺を遊覧した事があった。その時、折にふれてできた歌である。「耳も順ふ」というのは、(川の水音が)耳につくのは即ち「耳に順ふ」のである(そういう表現のあやというものだ)。

※三句目「山川に」は誤記か。

236
けさもなほまがきの竹に霰ふりさらさら春のこゝろこそせね
四四九 けさも猶まがきの竹に霰ふりさらさら春の心地こそせね

□早春さえかえりて霰ふりたりし時なり。岡崎の家、竹づくめなり。「さらさら」、霰の声にかけてさらさらとつかふ也。「古事記」に竹葉に霰ふりだしふりだしとあり。後にさらさらと云ふなり。いせの歌に「竹の葉にあられふる夜はさらさらにひとりはぬべきこゝちこそせね」。此れ等、さらさらの始めなるべし。

○早春に冴え返って霰が降った時である。岡崎の家は、竹づくめである。「さらさら」は、霰の声に掛けて「さらさら」と使うのである。「古事記」に「竹葉に霰ふりだしふりだし」とある。後に「さらさら」と言うのである。伊勢の歌に「竹の葉にあられふる夜はさらさらにひとりはぬべきこゝちこそせね」。これなど、「さらさら」(の用例)の始めであろう。

※「冴え返る」は歌語の一つ。春に寒さがぶり返すこと。
※。「伊勢」とあるが、和泉式部の歌のまちがい。二句目もことなっている。「竹のはにあられ降るなりさらさらに独はぬべき心地こそせね」「『和泉式部続集』三三〇。なお「竹の葉にあられふる夜」は、「新撰朗詠集」に「竹の葉に霰ふる夜の寒けきに独はねなむ物とやは思ふ 馬内侍」とある。両者を混同したか。念のため「夫木和歌抄」にはない。景樹の覚えちがいの歌には「夫木和歌抄」のかたちのものがあった。

237 
限なくまたせまたせてあらたまのことしぞふれるこぞの初ゆき
四五〇 限りなくまたせまたせてあら玉の今年ぞふれる去年の初雪 享和三年

□此れは正月七日の大雪のありし時の歌なり。冬の内にはとんと大雪なしに、春にこえてからふるなり。
「あらたまの」、「こ」にはかゝらぬなり。「とし」にかゝるなり。又「年」にいひなしたるよりして、「あらたまの春」ともつかひなれたり。みつね、はじまりなり。あらたま、足曳の、(山の)かなたこなた、足乳根の、(母の)おや、はぶきてとばすなり。年の春と云ふを、春と(ママ)とばすなり。

○これは正月七日の大雪のあった時の歌である。冬の内にはとんと大雪がなくて、春に年をこえてから降るのである。
「あらたまの」は、「こ」には掛からない。「とし」に掛かる枕詞である。また「年」に言い慣らしたことから、「あらたまの春」とも使い慣れた。みつね(の歌が)、はじまりである。「あらたま」は、「足曳の」が、(山の)かなたこなた(という語を)、「足乳根の」が、(母の)親(という語を)省いてとばすのである。「年の春」と言うのを、春をとばすのである。

※「とはすなり」、「問はずなり」もあるか。
※凡河内躬恒の雑体の部の歌、「冬のながうた」から末尾「白雪の つもりつもりて あらたまの としをあまたも すぐしつるかな」

238
青柳のいとのたえ間に見ゆるかなまだとけやらぬ大比えの雪
四五一 青柳の糸の絶間(たえま)にみゆるかなまだ解(とけ)やらぬおほ比えの雪 文化十四年

□此の歌は二條の橋にてよみたる歌なり。木や町より岡﨑へ帰る時、橋の上より川ばたの柳の間に比えの高ねがみえたるときの実景なり。「青柳」は、春云ふ名なり。夏も青柳なれども春を宗としていふなり。なれども、夏にもかりて云ふことあるべし。まだ芽をふかざる内よりして枝に青色を出すなり。それ故に青柳と唱へそめけるなり。「たえる」、糸よりきたる詞なり。糸は絶えるものなり。たえるは、きれるなり。「まだとけやらぬ」、糸より引つぱりていふなり。

○この歌は、二條の橋で詠んだ歌である。木屋町から岡﨑へ帰る時、橋の上から川ばたの柳の間に比叡の高嶺が見えたときの実景である。「青柳」は、春に言う名だ。夏の間も青柳だけれども、春を主として言うのである。そうであるけれども、夏にも(この詞を)かりて言うことがあるだろう。まだ芽を吹かない内から枝に青色を出すのである。それだから青柳と唱えはじめたのだ。「たえる」は、糸から来た詞である。糸は絶えるものだ。「絶える」というのは、切れるのである。「まだとけやらぬ」は、糸の方から引いて言った。

※どなたかこの景色の写真を送ってください。

239
山里のしのゝすだれの東雲にひまみえそめてうめが香ぞする
四五二 山里のしのゝ簾のしのゝめにひま見えそめて梅が香ぞする 文化八年

□此れも岡崎の歌なり。梅だらけにして桜の少き所なり。三十年も前には岡崎梅とて人々見に来りし事なり。時代のかはるは早きものなり。何分梅にふさはしき所なり。又古き所には岡崎の葡萄の棚といふこと、浄瑠璃あるなり。さればむかしありしと見ゆるなり。又ふぢの棚のこともあるなり。梅もその通なり。「しののすだれ」、即ちしのすだれなり。
しのゝめにかけるために「しののすだれ」を出すなり。此れなどは、かけずともよけれども歌はしらべにある事ゆゑに歌らしくするなり。
「しのゝめ」は目のあくることなり。目をさましたる所の名なり。其の人の目をかりて空のけしきにするなり。「万葉」には「しぬのめ」とあるなり。万葉時代には「の」が「ぬ」なり。今の都になりては、「の」になりたるなり。天然言語のうつりかはるならひなり。
「しの」「しぬ」は、物のしなびたる貌なり。「しぬの目のあけゆく空」とつかひたり。畢竟「あくる」といふことの枕詞なり。死ぬとふさぎたる目のあくることなり。それよりして色々と転じたるなり。延喜時代には、「あくる」の枕なり。「古今」には両様になりたり。

○これも岡崎の歌である。梅だらけで桜の少ない所だ。三十年も前には岡崎梅といって人々が見に来た事である。時代の変わるのは早いものである。何分梅にふさわしい所である。また古い所では岡崎の葡萄の棚ということが、浄瑠璃にある。だから昔はそれがあったとみえる。また「ふぢの棚」のこともある。梅もその通り(それと同じようなもの)である。「しののすだれ」は、即ち「しのすだれ」のことだ。
「しののめ」に掛けるために「しののすだれ」を出すのである。これなどは、(無理に)掛けなくてもいいのだけれども、歌は調べにある事だから歌らしくするのである。
「しののめ」は、目のあくことだ。目をさました所の名である。その人の目をかりて空のけしきにするのである。「万葉」には「しぬのめ」とある。万葉時代には「の」が「ぬ」である。今の都になっては、「の」になったのだ。天然に言語の移り変わるならいである。
「しの」「しぬ」は、物のしなびた相貌である。「しぬの目のあけゆく空」と使った。畢竟「あくる」ということの枕詞である。死ぬとふさいだ目があくことだ。それ以後色々と転じたのである。延喜時代には、「あくる」の枕詞であった。「古今」時代には両様になった。

240
みやこ人出でゝこぬまに山ざとの梅のさかりはうつろひにけり
四五三 都人いでゝこぬまに山里の梅のさかりはうつろひにけり 文化四年

□少しあたたまらぬと都人はこぬなり。岡崎実景にありしことなり。
○少しあたたまらないと都の人は来ないのである。岡崎の実景にあったことである。

※ここの「都人」は、景樹の仕えた貴顕の人々であろう。

大谷ゆかり『ホラインズン』寸感

2017年06月14日 | 現代短歌
 歌集から三首引く。 

  祖母の茗荷まんじゅう積み上がり一気に青の濃くなりし夏
  
 ※「祖母」に「おおはは」と振り仮名

  帰りたる夫の足音 庭草がそろそろ夜露を集めはじめる

  海を見にゆきなさいなと夢のなか凹む私に母が微笑む

肉親を詠んだ歌を三首引いてみたが、悪びれないというか、素直な歌い方で読みやすい。「一気に青の濃くなりし」というような、柄の大きい言葉の使い方も説得力がある。

  幾万のチューリップから天空へ立ち昇り鳴る春の本鈴

こういう歌がたくさんあり、決して平凡な見立てではないから、テンポをもって読める。少し分析してみる。

  三月の四角い皿におっとりとバナナの皮がヨガのポーズす

  ひといきに雲を脱ぎたる青空のはだかんぼうの明るさを見よ

  たんぽぽの絮の舞い込む一両目うっかり春の容れ物になる

 「春の容れ物」という一連から続けて引いた。一首目、三月と来ると坪内捻典の俳句が下敷きなのだろう。二首目、「雲を脱ぎたる青空のはだかんぼう」という擬人法は通俗すれすれである。三首目、「うっかり春の容れ物になる」というのは見立てで、これも前二首と同様のところがある。わるい歌ではないのだが、一首のなかで問答をした時に少し答えが早い気がする。

  伝えたきことを整え真夜中の青き湯舟をえいっと降りん

  わが犬の鼻腔に白き雲垂れて墨絵のようなCТ画像

 ここに引いたような、自分自身の動作や、日常のある局面をきちんと見てとらえた歌はどれも良い。むろん自分の住んでいる伊勢市のことを詠んだ歌もいい。「えいっと降りん」というような、自分の行為をおおづかみに把握する言葉の持って行き方は独特で、あまり小さくまとまってほしくない作者である。

糸川雅子『詩歌の淵源 「明星」の時代』に関連して

2017年06月14日 | 近代短歌
 四・五十代以上の人間が与謝野晶子の歌を読むとしたら、どこが入り口になるだろうかと考えると、まずそれは『みだれ髪』ではない。ところが与謝野晶子に関心を持つ人は、たいてい若い頃の晶子について読んだり書いたりするのに労力をとられてしまうから、よほど晶子にこだわる人以外は、だいたい大正から昭和にかけての歌に関しては、選抄ですませるということになってしまうのではないかと思う。この流れを変える必要がある。

 やはりそうかと、あらためて思ったのが、本書の末尾にある次の文章である。

 「自我の詩」をもとめて出発した「明星」であった。その「明星」の申し子のような与謝野晶子が、自身の晩年において、世界に対して自己を突出させるのではなく、景のなかに自己の心情を融け込ませようとする境地で作品を多く残していることについて、そこに重ねられたであろうひとりの歌人としての晶子の時間の重さを感じ、同時にまた、明治、大正、昭和と流れた近代短歌の時間をも思わせられるのである。 
    (一八三ページ)

 この言葉を出発点として、著者には後期の晶子の歌についても何か書いてもらいたいと思ったことである。その際にはぜひ、晶子の高弟というか実質的な同伴者と言った方がいい平野萬里の仕事についても、あわせて書いてもらえるとありがたい。
 
 晶子が亡くなったあと、戦時中に平野萬里が出した追悼の選歌集があるのだが、私はこれによって晩年の晶子の歌に対する目を開かれた。また与謝野晶子という歌人に対する深い敬意を抱くようにもなった。

 私は本書のなかでは、若書きの茂吉の「塩原行」の歌と五十代の晶子の歌とを比較した<『心の遠景』の「旅の歌」>という論文にもっとも興味を覚えた。だから、念のためにことわっておくと、この一文は本書の書評ではない。

 最初の問いにもどると、五十代の人間が晶子に接近するとしたら、若者(わかもの)には縁遠い『心の遠景』の「旅の歌」や、『白桜集』などがいいのだろうし、何と言っても平野萬里の選歌集がいいと私は思うのである。あれは岩波文庫あたりで再刊してもらいたい。

三木卓の本に引かれた大岡信の詩「春のために」 改稿

2017年06月11日 | 現代詩 戦後の詩
大岡信がなくなって、ひとつ思い出したのは、三木卓の『わが青春の詩人たち』という2002年刊の本に大岡信について書かれたくだりがあったことだ。そこに引かれていた詩を、ここに孫引きしてみよう。
 
  春のために     大岡 信

砂浜にまどろむ春を掘りおこし
おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う
波紋のように空に散る笑いの泡立ち
海は静かに草の陽を温めている

おまえの手をぼくの手に
おまえのつぶてをぼくの空に ああ
今日の空の底を流れる花びらの影

ぼくらの腕に萌え出る新芽
ぼくらの視野の中心に
しぶきをあげて回転する金の太陽

ぼくら 湖であり樹木であり
芝生の上の木漏れ日であり
木漏れ日のおどるお前の髪の段丘である
ぼくら

新しい風の中でドアが開かれ
緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
道は柔らかい地の肌の上になまなましく
泉の中でおまえの腕は輝いている
そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
静かに成熟しはじめる
海と果実

 一応、註してみる。 
一連目、三行目、これは「古今集」の歌を踏まえている。
二連目、三行目、これは三好達治の詩を踏まえている。
三連目、三行目、ランボーの詩への連想をさそう。
四連目、三行目、『月下の一群』でもいいし、「フランシス・ジャム詩集」でもいいが、要するに「木漏れ日のおどるお前の髪の段丘」というのは、翻訳詩の文脈の中の詩句である。
五連目、三、四行目、エリュアールの詩のような感じがする。

 嶋岡晨の訳で引いてみる。

「絶えない歌」(一九四六年)

なにものもかき乱すことはできない
ぼく自身にほかならぬ 光りの秩序を
そしてぼくの愛するもの
テーブルの上の
水をみたしたポット 休息のパン
すみきった水でおおわれた手につづき
おごつた手にはおきまりのパンにつづく
一日の二つの斜面は
新鮮な水と熱いパン

(略)

だがぼくらのなかで
燃える肉体から暁が生まれる
そしてきっかりと
ただしい位置に大地を置く
しずかな歩みでぼくらは前進する
自然はぼくらに敬礼し
日はぼくらの色彩に肉体を与え
火はぼくらの瞳に 海はぼくらの結合に肉体を与える
     『エリュアール詩集』(飯塚書店世界現代詩集Ⅹ)
     1970年刊より

ここで、「道は柔らかい地の肌の上になまなましく/泉の中でおまえの腕は輝いている」という詩句を読んでいるうちに、何て精巧な完璧な模造品であることよ、という思いが突き上げて来て、私は思わず激してしまったのだった。近代詩以来、ずっと日本の詩はこういう西欧詩の翻案を繰り返して来た。これは極めて人工的な、架空の青春、血の通っていない生への賛歌ではないのか。

これは私の青春嫌悪、青春憎悪がなさしめる言葉であろうか。そうではなくて、この翻訳調の詩語に魅惑された世代の言語感覚というものに、根本的な疑義を抱くということを言いたいのである。むろん私にも、大岡信には、心を惹かれる詩がいくつもある。しかし、この詩に限ってみるなら、こういう戦後の青春を神話化したような詩は、再び回帰したモダニズムを肯定する心性を無根拠に押し出したもののようにしか見えないのである。同じエリュアールに示唆されるのにしても、田村隆一などの行き方とはまったく別物ではないか。

一九五六年刊の詩集だから、ずいぶん昔のことになる。平成もあと数年という時代に入って、「そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて/静かに成熟しはじめる/海と果実」という詩句との不思議なほどの感覚の落差というものに、私はめまいがするような気がする。どうして何の反語もなく「静かに成熟しはじめる」という言葉を書くことができたのだろう。

こうした詩を書いた人が『折々の歌』を書き、連詩にこだわったということのなかには、余人のうががい知れぬ自分自身の詩的出自というものへの持続的な反問というものがあったはずである。それは、翻訳文学から出発した「現代詩」というものへの問いでもあったのだと私は思う。

追記 このあと「ユリイカ」の大岡信追悼号を読んだ。この詩にも見えるようなきらきらした恋愛詩を作者はずっと続けて作っていき、大成させた人だということがわかった。ここに引いた詩の頃はいささか器用で秀才的なエリュアールの翻案のような詩を作っていたわけである。誰でも初期というのはそのようなものだ。「ユリイカ」特集の恋愛詩のすぐれた作者としての大岡信という全体的な取り上げ方は、とてもいいと思う。

『桂園一枝講義』口訳 224-232

2017年06月11日 | 桂園一枝講義口訳
224 歳暮
あらたまの年のうちにもうぐひすの初音ばかりの春はきにけり
四三七 あら玉のとしの内にも鶯のはつねばかりの春は来にけり

□岡崎などの実景なり。反て春は聞えぬ時あるなり。年内立春也。題はわけずあれども、年内立春の体なり。最初はあらたまの年の内よりとなり。後あらためし。

○岡崎などの実景である。かえって春は聞えない時がある。年内立春である。題では分けていないけれども、年内立春の体である。最初は「あらたまの年の内より」となっていた。後に改めた。

225
徒にあかしくらして人なみのとしのくれともおもひけるかな
四三八 いたづらに明(あか)しくらして人なみの年の暮とも思ひけるかな 享和二年

□此れは、津の国中村に居たりし年に、二時百首を詠じたる中の歌なり。千蔭、春海が「筆のさが」は、此の二時百首の中より十八首出したり。いよいよおとなげなかりし。毎日梁岳法師と赤尾可官と三人、ものよみしたりしなり。巳刻よりして人々講釈によるなり。其の人々のよるまでに二時の間によみたりしなり。赤尾七十首、梁岳六十首出来たり。此の三つをよせて□□(二字欠字)とせり。

○これは、津の国中村に居た年に、二時百首を詠じた中の歌である。千蔭、春海の「筆のさが」は、この二時百首の中から十八首を出した(批判書である)。(だから)いよいよ大人げない所為であった。毎日、梁岳法師と赤尾可官と三人で、歌を詠んだのである。巳刻から人々が講釈に集まる。その人々が集まるまでに、二時の間に詠みおおせたものだ。赤尾が七十首、梁岳が六十首出来た。この三つをよせて□□(二字欠字)とした。

※有名な「筆のさが」一件については、景樹関係の諸書に必ず出て来るので特に注記しない。

226 
年の緒もかぎりなればやしら玉のあられみだれて物ぞかなしき
四三九 年の緒もかぎりなればやしら玉のあられみだれて物ぞ悲しき 文化二年

□「年の緒」すべて連続して長きものを「を」と和語に云ふなり。年も連続してつづくものなり。「みだれて」「かなしき」と云ふやうにつづけるなり。玉は穴あり。数珠の如く緒を通しておくなり。其きれたる所よりしてみだるるなり。此歌、歳暮のもの悲しきことを云ふなり。
門人云、此歌大人自得の歌なり。

○「年の緒」は、すべて連続して長いものを「を」と和語に言うのである。年も連続してつづくものだ。「みだれて」「かなしき」というように続けるのである。「玉」は穴がある。数珠のように緒を通しておくのだ。その切れた所から乱れるのである。この歌は、歳暮のもの悲しきことを言ったのである。
門人の言うには、この歌は、大人の自得の歌である。

※「門人云」は後の書き込み。

227 雪中歳暮
白ゆきのふる大空をながめつゝかくて今年もくれなんがうさ
四四〇 しら雪の降(ふる)大空をながめつゝかくてことしもくれなむがうさ

□ありのまゝなり。此のやうに雪のしきりにふる頃が歳暮なり。
降を打ちまもりて見るを、直に「ながめ」にかけるなり。物思ひつゝと云ふ意になしてみるべし。「くれなんがうさ」、くるゝぞ、ういと云ふを云ふなり。

○ありのままである。このように雪のしきりにふる頃が歳暮である。
(雪が)降るのをじっと見守るように見るということを、直に「ながめ」にかけているのだ。物を思いながら、という意味になしてみるとよい。「くれなんがうさ」は、暮れるぞ、憂い、という(心事)を言うのである。

228
明日からはふるとも春のものなればことしのゆきのつもる也けり
四四一 明日からはふるとも春のものなればことしの雪の積る也(なり)けり

□大年に大雪降しけしきなり。冬の雪があたりまへなり。それ故に春の領内ではなきなり。冬のうちにふりておかうとて、つもるなりと云ふなり。

○大晦日に大雪が降った景色である。冬の雪(の方)が当り前である。だから春の季節のうちではないのである。冬のうちに降っておこうといって、積もるのだ、というのである。

229 歳暮近
限あれば我が世もちかくなるものをとしのみはてと思ひけるかな
四四二 限(かぎ)りあればわが世も近くなる物を年のみはてと思ひけるかな

□五十余の時のうたなり。
○五十余歳の時の歌である。

230 都歳暮
百式の大宮びともいとまなきとしのをはりになりにけるかな
四四三 もゝしきのおほみやびともいとまなき年のをはりに成(なり)にける哉 文政五年

□憶良の「大宮人はいとまあれや」より取て来たる也。憶良の家に中将が少将があつまりたるなり。扨々大宮の御方には富貴にしてひまあるなり。この方貧乏のものは中々かなはぬことなり。梅をかざして元日めでたくも御出なりと云ふ事なり。此れを「新古今」に直してとんと聞えぬことにしたり。定家郷(※当て字)などのあやまりなるべし。「桜かざしてけふもくらしつ」としたり。とんととんと合はぬなり。上の句下の句、自他たがへり。「あれや」は、他を推量するなり。「今日もくらしつ」は、自らくらすなり。此でちがふなり。

○憶良の「大宮人はいとまあれや」から取って来たのである。憶良の家に中将が少将が集まったのだ。さてさて大宮の御方には、富貴でひまがあることである。私らのような貧乏人には、なかなか適わないことである。梅をかざして元日めでたくも御出になったという事である。これを「新古今」で直してとんと意味不明の歌にしてしまったのである。定家卿などのあやまりであろう。「桜かざしてけふもくらしつ」としてしまった。まったく少しも合わないのだ。上の句下の句、自他くいちがっている。「あれや」は、他を推量するのである。「今日もくらしつ」は、自身が暮らすのである。これでくいちがうのである。

※景樹は「憶良」と言っているが、赤人のかんちがい。「和漢朗詠集」に赤人の名で所収。私が注意したいのは、「古今和歌六帖」にもあることで、景樹の「講義」で口をついて出て来る「万葉」歌がほとんど「古今和歌六帖」にあるものだということだ。

※元は「万葉集」巻十の作者不明歌。「ももしきの-おほみやひとは-いとまあれや-うめをかざして-ここにつどへる」一八八七(一八八三)。しかし、ここには例によって景樹のテキスト考証力の一端が示されている。「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらしつ 赤人」「新古今和歌集」一〇四。ここで「赤人」とあるのは平安時代以来の誤伝を踏襲したもの。

231 山家歳暮
うぐひすのこゑより外に山里はいそぐものなき年のくれかな
四四四 鶯の聲より外に山里はいそぐ物なきとしのくれかな 享和三年

□いそぐ、元来用意するなり。春のいそぎをするなり。春のためにいそぐことなり。一つ越えたる語なり。春のためにいそぐ用意なり。それ故いそぎをするといへば用意することなり。世上ではいろいろ用意して春いそぎをするなり。山家は用意なく、今日中にせねばならぬなどとすることはなきなり。

○「いそぐ」は、元来用意をする、の意味である。春のいそぎ(用意)をするのである。春のためにいそぐことだ。一つ(冬の季節を)越えた言葉だ。春のためにいそぐ用意である。それだから、「いそぎをする」といえば、用意をすることである。市中ではいろいろと用意をして春の支度とするのである。山家はそんな用意もなく、今日中にしなければならない、などというような用事はないのである。

232 老後歳暮
なれなれて年のくれともおどろかぬ老のはてこそあはれなりけり
四四五 なれなれてとしの暮とも驚かぬ老のはてこそあはれなりけれ

□老いて見ればよくわかるなり。おいては頓とかなしからぬなり。年のくれのつらさは、三十五、六より四十にては大に覚ゆるなり。五十、六十彌かなしきなり。

○老いて見るとよくわかることだ。(ある程度まで)年をとってしまうと(数え年での加齢の近づく年の暮れといっても)ちっとも悲しくはないのである。年の暮れのつらさは、三十五、六から四十歳頃の年齢ではずいぶん感ずることだ。五十、六十となるといよいよ悲しいのである。

※結句「けり」はテキストのままでおそらく誤記。
※以上で春歌、夏歌、秋歌、冬歌の部の講義を終わる。秋歌の後半から冬歌の前半が欠けてしまっており、特に冬歌の前半には名歌が多いので残念。