さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 88~95

2017年03月31日 | 桂園一枝講義口訳
88 夕対卯花
卯の花の咲ける垣根のゆふづく夜さすとはなしに物ぞかなしき
一三八 白妙のうの花がきの夕づく夜さすとはなしに物ぞかなしき

□きれいに云ふなり。夕卯花に対光のことを云ふが力なり。「夕づく夜」、いまださしたるけぢめなきなり。
「物ぞ悲しき」、夕ぐれがたのけしき、物思ひのつまとなるなり。「昔こひしき」とか何とか、おもひ出づるなり。
「徒然草」に、「物思ひの限りは夏こそ」とあるなり。景樹さも思ふなり。

○きれいに言うのである。夕べに卯の花に光が射すことを言う点が力である。「夕づく夜」は、まだそれといったけじめがない(時間帯のこと)である。
「物ぞ悲しき」は、夕暮れ方の景色が、物思いのいとぐちとなるのである。「昔恋しき」とか何とか、思い出すのである。
『徒然草』に「物思ひの限りは夏こそ」とある。景樹もそう思うものだ。

※一、二句が大きく改稿されている。現代の感覚からすれば、むろん刊本の方がよい。別稿は、調べはやわらかいが、装飾的になりすぎるようだ。「一枝」には、同じ初句の歌が三首あり、編者がそれと混同した可能性もある。「桂園一枝 雪」では「白妙のうの花がきの」である。

89 卯花隠路
卯の花のつゆふむ小野の山かげは浪にぬれゆくこゝちこそすれ
一三九 うの花の露ふむをのゝ山陰は浪にぬれ行こゝちこそすれ 文化二年 卯花の陰ふむ小野の山人は郭公にもあひやしつらむ

□「つゆふむ小野の山」、ふむばかりせまきみちなり。

○「露踏む小野の山」は、(誇張だけれども、そうやって露を)踏んでしまうぐらいに狭い路なのである。

90 山家卯花
ほととぎすなくと云ふなる山ざとの垣根もたわにさける卯の花
一四〇 郭公なくといふなる山ざとのかきねもたわにさけるうのはな 享和元年 二句目 なくとツゲタル 五句目 ウツキ花サク 文政六年 二句目 キキツル

□ほととぎすがなきます、聞きに御出なされ、など云ふ時節なり。
「垣根もたわにさける卯花」、「拾遺」にあるなり。
(小字注)資之曰、「後撰」にもあり。「拾遺愚草」にもあり。

○「ほととぎすが鳴きます。聞きに御出なされ」などという時節である。「垣根もたわにさける卯花」は「拾遺集」にある。 

(小字注)(松波)資之曰く。「後撰集」にもある。「拾遺愚草」にもある。

※「時わかずふれる雪かと見るまでにかきねもたわにさける卯の花」よみ人しらず『拾遺集』九三。『後撰集』一五三。ここで景樹は「『拾遺』にあるなり」と言っているが、私のみるところ、景樹が享和年中に作歌の参照として使っていた本の一つが「古今和歌六帖」であろう。景樹の「万葉」ぶりというのも、そのあたりを見る必要がある。この歌は、同書の八二「うのはな」の項に収録されている。

91 葵
神山のみあれの後のあふひぐさいつをまつとてふた葉なるらん
一四一 神山のみあれのゝちのあふひ草いつを待とて二葉なるらむ 享和三年

□「みあれ」は、すんだら二葉の用はすんだに、いつをまつとて、やはりりんとしてゐるなり。「あふひ草」、昔は「逢日草」と云ひたると見ゆるなり。古今の物名を見れば、逢日と云ひたると見えるなり。今は「あをい」とつかふなり。「あふぎ」、「扇あをぐ」とも云ふ。後に「あをぎ」など云ふもしれぬなり。何分昔は「あふ」を「逢」と云ひたるとみゆるなり。「藤」、むかしは「ふち」とすみてよみたると見ゆるなり。「土佐」では「ち」をすむなり。

○(葵祭の)御生れ(の神事)は、それが済んだら二葉(葵)の用は済んだというのに、稜威(いつ)を待つといってそのまま凛としているのである。「あふひ草」は、昔は「逢日草」と言ったと(諸書に)見える。古今の物名を見ると、「逢日」と言ったと見えるのである。今は「あをい」と使うのだ。(同様に)「あふぎ」(は)、「扇あをぐ」とも言う。(これも)後には「あをぎ」などと言うようになるかもしれない。何分昔は「あふ」を「逢」と言ったと見えるのである。「藤」は、むかしは「ふち」とすんで読んだと見えるのである。土佐では「ち」を清音で発音している。

※この段、「を」の表記を一部旧仮名のままにした。

92 葵露
あふひぐさ日かげになびくこゝろともしらでや露のおきかへるらん
一四二 あふひ草日影になびく心ともしらでや露の置かへるらむ 文政五年 二句目 日影にムカフ

□「日かげになびく」、日かげにむかふなり。葵は根をかくすなり。
葵は日になびくのに、露はしらでや、おきては、おきてはするなり。おいたるなり、の意なり。俗に「りきみかへるにえかへる」とは、かへすがへすゆくことなり。又「しづまりかへる」ともつかふなり。そのまゝにすと行くことなり。ゆるんでは、またりきむではなきなり。「消かへりて」も、消え入るやうに、なり。

○「日かけになびく」は、日かげに向かうのだ。葵は根を隠すのだ。
葵は日になびくのに、露はそれを知らないでか、置いては、置いては、ということを繰り返すのである。置いたのだ、の意である。俗語に「力み返るにえ返る」とは、返す返す行くことである。又「静まり返る」とも使うのである。そのままにすっと行くことだ。ゆるんでは再び力むのではないのである。「消かへりて」も、消え入るように(の意)、である。

93 時鳥
ほととぎすしのぶが原になくこゑをねらひがりする人やきくらん
一四三 ほとゝぎすしのふが原に鳴こゑをねらひがりする人やきくらむ 寛政十二年 詠草

□「しのぶが原」、奥州なり。狩人をよみ合せり。先づ、ほととぎすの初声は、卯月なり。さかりなるは五月なり。さて「しのび音は」、ちさき折々の時分なり。それを忍ぶとは、郭公は夜に多き故しのぶと云ふなり。鶯のはじめになくを「しのびね」とは云はぬなり。
「ねらひがり」、五月五日をさかりとするなり。「ねらふ」は、ひかへてためらふなり。「ねらひ」と云ふことは、わが身をねりて、ためつすが(※す、の一字誤入あり。トル)めつすることなり。しづかに伺ふなり。ねりこしてゆくゆゑに、じつとすることになるなり。狩人はきくつ(※「く」の一字誤入、トル)もりではなきなれども、しのびて居るゆゑ調度きくなり。

○「しのぶが原」は奥州だ。狩人を詠み合わせた。はじめに、ほととぎすの初声は、卯月だ。(この鳥が)盛りなのは五月だ。さて忍び音は、(声が)小さい折々の時分である。それを忍ぶとは、郭公は夜に多いのでしのぶと言うのだ。鶯がはじめに鳴くのを忍び音とは言わないのである。
「狙い狩り」は、五月五日を盛りとするのだ。「ねらふ」は控えて躊躇うのである。「ねらひ」ということは、わが身を静かに歩ませて、ためつすがめつすることである。静かに伺うのである。そろそろと歩んでゆくので、じっとすることになるのである。狩人は、聞くつもりではないけれども、忍んで居るのでちょうど聞くのである。

※夏の夜に照射(ともし)をたいて鹿狩りをすること。

94 
こゝろから深山いでゝもほととぎすよをうのはなのかけになくらん
一四四 こゝろから深山いでゝもほとゝぎすよをうの花のかげになくらむ

□「心から」「よを卯花」といふなり。「郭公 深山いでても 心から よをうの花」といふことなれども、それでは口調をなさぬなり。「深山出ても」、「も」は嘆息なり。出ずともよきに、いでゝからといふ位なり。
○「心から」「世を憂の」花と言うのである。「郭公 深山いでても 心から よをうの花」ということであるけれども、それでは口調をなさないので(「かげになく」とつづけるので)ある。「深山出(いで)ても」の「も」は嘆息である。出なくともよいのに出てから、というぐらい(の意味)である。

95 粟田山松の葉うづむしらくものはれぬあさけになくほととぎす
一四五 粟田山松の葉埋むしら雲のはれぬ朝けになくほとゝぎす 文化三年

□実景のうたなり。岡崎より聞ゆるなり。

○実景のうただ。岡崎から聞えるのである。

安永蕗子『みずあかりの記』 熊本が誇るべき歌人

2017年03月31日 | 現代短歌 文学 文化
 かねてから目を付けてはいたのだが、ようやく手ごろな値段の本を見つけたので買った。ページをひらくや目が吸い込まれるようで、生き生きと踊っている文章は、世の中の女のひとたちはこんなに楽しいおしゃべりや、やりとりのなかで人生を輝かせているのだということがわかる。幼年期や若い頃を回想した小文が多く集められていて、むろん苦難の記憶、かろうじて結核から生還した時のことを記した文章もある。しかし、少女時代の幸せな思い出、父や母とのやりとりを記した文章が、なんとも言えずよいのである。

備忘のために記しておくと、病床の寺山修司を見舞った思い出話などがある。山頭火に飲み代を無心された父のことが書いてある。筆者は、「わが家の訪問者はのこらず歌よみであった。」という、熊本市内の水道町にある本屋の娘だった。むろんその家は先の戦争の空襲で焼けてしまった。

「テーブルのパンは、さしわたし四〇センチ、高さ二〇センチほどの、大きな、まるいパンであった。放射状にナイフを入れて、薄く切りとった一枚でも、パンはふわりとお皿をはみ出した。
 漂白などしない粉で焼いたのであろう、少し灰色がかった白で、よくふくらんだパンであった。表面の堅皮は、こんがりといい色に焼けていた。無論、味は絶品といっていい位だった。(略)」

「…最後の一つは、ゆきつけの喫茶店「山脈」のご主人にあげた。さすがに珈琲店主はにんまりと笑って「おいしそうなパンですね」と言った。そしてすぐ、うすく切って、たっぷりとバターを塗った一切れが、香ぐわしいコーヒーと一緒に、目の前に現れた。(略)

折よく来あわせたОさんが、舌なめずりをしてパンの前に坐った。彼はまぎれもない酒徒のはずだが、「なつかしいなあ、実にいいなあ、ソ連のパンとおんなじですなあ」と言って、なつかしさに耐えぬ目をした。戦前、戦後、ソ連に居て、辛酸をなめたОさんの述懐であった。(略)

阿部謹也氏の『中世を旅する人々』という本のなかに、クロイツ・ブロート、十字パンについての記載がある。その頃、やきがまに入れる前のパンに、くっきりと十字をつけた。焼きあがったパンの十字は、災害から家族を守る護符になるのである。むろん魔女も恐れて近よらないということであった。

私も、十字を切りこんで焼いたパンのくぼみから、中のあんこがはみ出しているパンを食べた記憶がある。戦前、私の家は、繁華な町なかに在った。電車通りをへだてたお向いは、大きなパン屋であった。横長い、店はばいっぱいのショーケースが、やきたてのパンでくもって見えた。その中からすきなパンを一つ買った。小学校二年生、一個五銭のパンであった。そのなかの、芥子の実をちらしたあんぱんが、クロイツ・ブロートであった。」
                         「十字パン物語」

こうして少し書き写してみただけでも、実に細かい気配りのされた彫琢された文章である。冒頭に近い部分の「パンはふわりとお皿をはみ出した」というような表現にしても、一語に賭ける歌人のセンスのほとばしりが感じられる。喫茶店の店主やОさんの表情にしても、ほんの数語で活写されている。しかも手に入れたイタリア・パンのことから戦前に食べた十字パンに話は及んで、パンの話に人生のドラマがある。名随筆と言うべきだ。

『子規から相良宏まで 大辻󠄀隆弘講演集』から

2017年03月29日 | 現代短歌
 例によって寝ころんでぱっとひろげたところから読み始めたら、おもしろいし、わかりやすい本だ。すぐれた近・現代短歌への入門書ともなっていると思う。著者の職業が教員という事もあって、なかなか痒いところに手が届いた説明が随所にありながら、それでいて叙述は簡潔で停滞する所がない。文章だと解説的な内容のものを入れようとすると、結構だらだらしたりしてしまって具合が悪いことが多いのだが、この講演という形式は、そこが自由で風通しがいい。字数制限のなかで書かれた文章を集めた著者のこれまでの論文集よりも、この方が一般の読者には読みやすいかもしれない。

 私がさっき感心したのは、「浅野梨郷と初期アララギ」という章である。これを読んで思ったのは、この語りの形式で大辻さんは近現代の短歌史をさらってみたらどうだろう、ということだ。五十代も半ばにさしかかってみると、たくさん資料をそろえて近現代の短歌史を書いてみたくても、どうも時間が足りない。まずやってもらいたいのは、「アララギ」通史のようなものかな。これを今から書こうとしても下手をしたら完成する前に死んでしまうだろう。でも、この講演形式にして七、八年から十年ぐらいで回を区切って分けてやれば、一通りのところの目鼻はつくのではないか。それがおわったら、「明星」「日光」の系譜で与謝野夫妻や白秋が死ぬまでのところをやる、とか…。補足も自由にできるし、テキストのかたちが柔構造になって、やりやすいのではないかと思う。

これは何人かでやるかたちもあるが、それでは本にまとめにくい。角川の過去の「短歌」のいい対談や討論の類がほとんど一冊も本になっていないことからも、それはわかる。だから、一人でやるべきだ。いい本を出してくれたお礼に、この企画を提案しておきたい。もしおやりになるなら、私も聴衆の一人になりたい。自分の好きな歌をどんどん掘り起こして、作品を中心に据えてやられるといいと思う。自分の身近にいる若い人たちを相手にしゃべるつもりで、その人たちが求めている視点を織り込みながら語るという事をなさってはどうか。大辻󠄀さんならできそうな気がする。

※ちなみに、角川「短歌」の過去のものは、電子化して販売してほしい。「現代詩手帖」などとセットで補助金を入れながら企画すれば、新しい日本語の詩学のための基礎資料を提供できるはずである。

『桂園一枝講義』口訳 76~83

2017年03月29日 | 桂園一枝講義口訳
76 燕来
語らはんともにもあらぬつばめすらとほく来たるはうれしかりけり
一二六 かたらはん友にもあらぬつばめすら遠く来たるはうれしかりけり  文化十年一二句目 山里ノトモニハあらぬ

□此歌、「論語」「朋有自遠方来亦悦」の意をふむなり。「論語開巻」三首の一なり。此うたで「論語」はたるなり。小論語といふべきなり、と仁齋はいへり。
人と人交り語ふなり。「かたらふ」は、大なる徳あることなり。さて「つばめ」はあたまをくるりくるりとまはして物がたりするやうざまの鳥なり。鳥は鳥どうしむつまじき容子あるなり。それを引きかけていふなり。此方とは「かたらはん友にもあらぬ」といふ處に意味ある所なり。初五に力あるなり。「つばめすら」は、燕はつばめだけなり。

○この歌は「論語」の「朋有自遠方来亦悦」の意を踏んでいる。「論語開巻」(の題の)三首の一つである。この歌で「論語」は足りるのである。(「学而篇」の冒頭は)「小論語と言うべきだ」と伊藤仁齋は言った。
人と人が交わり、語らうのである。「語らう」のは、大きな徳がある行いである。さてつばめは頭をくるりくるりと回して物語りする様態の鳥である。鳥は鳥同士でむつまじい様子があるのである。それを引きかけていうのである。こちらとは語らうような友でもないという所に意味がある所である。初句の五文字に力があるのだ。「つばめすら」は、燕はつばめだけ(ということで、むろん人事の方に重点があるの)である。
※ここも伊藤仁斎が引かれる。当時の都人の共通教養という雰囲気が伝わって来る。

77 苗代
小山田の苗代水はそこすみてひくしめなはのかげもみえつゝ
一二七 をやまだのなはしろ水は底すみてひくしめ縄のかげもみえつゝ

□此歌平易なり。二、三人の評にとりのけよといひたれども、苗代のうたなきゆゑ出せり。実景なり。静かなる山田のけしきなり。
○この歌は平易である。二、三人の批評で取りのけろと言ったけれども、苗代の歌がないので出した。実景である。静かな山田の景色だ。
※近代の写生の歌と言っても通用する。澄んだ水と、仕切りに引かれた縄の影をとらえながら、三、四句あたりの微細なひびきが魅力的である。

78 雨後苗代
春雨の日ごろふりつる小山田の苗代水はけふもにごれり
一二八 はるさめの日ごろふりつるをやまだの苗代水(なはしろみづ)はけふも濁れり
文化三年

□此れを或人、入れざるがよしといへり。「日ごろ」、日をかさねてなり。「今日もにごれり」、春雨のけしきなり。「日ごろふりつる」ににほはせり。此「しろ」といふ詞、はつきりせぬなり。月しろ、物のかはりのしろ、田の間数のいくしろ。「白」は、しろ網代…。久老いふ。場所をさして「しろ」と云り。久老は物を考へつけていふことは上手なり。うたも本居よりは上手なり。此の「しろ」のこと、余合点しかぬるゆゑ、申出して後考をまつなり。

○これをある人が入れない方がよいと言った。「日ごろ」は、日を重ねて、だ。「今日もにごれり」は、春雨の景色だ。「日ごろふりつる」に匂わせた。この「しろ」という詞は、はっきりしないのである。月しろ、物の代わりのしろ、田の間数の幾しろ。「白」は、しろ網代……。久老が言う。場所をさして「しろ」と言うと。久老は、物を考えついて言うことは上手である。歌も本居よりは上手だ。この「しろ」のこと、私は合点しかねるので、ここに申出して後考を待つのである。
※久老は、荒木田久老。「うたも本居よりは上手なり。」は聞くべき批評。

79 欵冬
山しろの井出のたま川(ママ※誤記か)くみにきてかげまでみつる山吹のはな
一二九 山しろの井出の玉水くみにきて影まで見つる山吹のはな  文化二年

□「山城の井出の玉水手にむすび」と前(さきつ)かたもよめり。「玉水」今は玉川といふところなり。「汲みにきて」、古へのこゝろになりて、よき玉水ゆゑにくみにくるなり。玉水は、すみて清らかなりし名か。「影までみつる」、力あるなり。さて玉水を玉川といひたるは、俊成卿か。「駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井出の玉川」とあり。「水かはん」の語より「川」になれり。古人も随分すきなことをいへり。俊成卿も規格を守るばかりでもなく、はづさるゝこともあるなり。

○「山城の井出の玉水手にむすび」と古代にも詠んでいる。「玉水」、今は玉川と言うところである。「汲みにきて」は、往古の心になって、よき玉水ゆえに汲みに来るのである。「玉水」は、澄んで清らかだった(ためについた)名か。「影までみつる」は、力があるのである。さて「玉水」を「玉川」と言ったのは、俊成卿か。「駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井出の玉川」とあり。「水かはん」の語から(玉「水」が)「川」になってしまった。古人も随分好きなことを言った。俊成卿も規格を守るばかりでもなく、外されたこともあるのだ。

※講義の内容からも、テキストの「玉川」は誤記。「桂園一枝 雪」でも「水」。
※「山城の井出の玉水手にむすびたのみしかひもなき世なりけり」『伊勢物語』百二十二段。「こまとめてなほ水かはむ欵冬の花の露そふゐ出の玉川」皇太宮太夫俊成『新古今和歌集』。

80 岩が根のなみをよきても咲きにけり吉野のたきの山吹のはな
一三〇 岩がねに浪をよきても咲にけりよしのゝ瀧の山ぶきのはな  寛政十二年 詠草 初句 岩カゲに

□「よしのゝたきの山吹の花」、手あらきなり。上の句でこゝがよくなるなり。「岩が根に」、なみをよけてさいたる貌あるなり。

○「よしのゝたきの山吹の花」は、手荒な(言葉のあっせんがある)句である。上の句でここがよくなるのだ。「岩が根に」、浪をよけて咲いたようすがあるのだ。

※「桂園一枝 雪」で「岩がねに」。詠草とあるのは短冊だろう。正宗文庫にありそうだ。

81 河欵冬
いかだおろす清瀧川のたきつせにちりて流るゝ山ぶきのはな
一三一 筏おろす清瀧河のたぎつ瀬に散てながるゝ山ぶきの花  享和元年

□五十年前の歌なり。萬葉風をしきりによみたる時の歌なり。「ちりて流るゝ山ざくらかな」、「村紅葉かな」とありてもよきやうなり。なれども、さにはあらず。山吹の歌となる調を見るべし。さて「筏おろす」は、たゞ清瀧川のさまなり。筏がゆきたるにはあらず。

 (以下本文二段下げ)資之曰、過しころ木村半六行納がいはく、景樹宗匠へ一番よき御歌を、と願ひしに、五、六十日もすぎて、筏おろす云々のうたをもらひたり。されば此うたが景樹もよきとおもはれたりと見えたり。此事をいうて中島廣足へも見せしに、廣足も此れが一番よきといへり、ときゝて、資之思ふに、左にあらず。行納等は此の道をしらず。ひたすら古へを好むゆゑ、其好意にしたがひてあたへられたるなり。廣足も行納も歌を知らぬからのまどひなり。但此歌をあしといふにはあらず。行納がいひしにつき、後人のまどはんことごとを思ふてかきおく。

○五十年前の歌だ。萬葉風(の歌)をしきりに詠んだ時の歌である。「ちりて流るる山ざくらかな」は、「村紅葉かな」とあってもよいようだ。であるけれども、そうではない。山吹の歌となる調べを見る必要がある。さて、「筏おろす」は、ただ清瀧川の様子(をさしているの)である。筏が(過ぎて)行ったのではない。

 (以下本文二段下げ) 資之がここに述べる。以前に木村半六行納がこう言った。「景樹宗匠へ一番よい御歌を(書いてください)」と願ったところ五、六十日も過ぎて(この)「筏おろす云々」の歌を貰った。だからこの歌が景樹もよいと思っておられたと見える。この事を言って中島廣足へも見せたが、廣足もこれが一番いいと言ったと聞いて、資之が思うに、そうではない。行納等は、この道を知らない。ひたすら古の道を好むので、その好む気持に従って与えられたのである。廣足も行納も歌を知らないからの惑い(思い違い)である。ただし、この歌をわるいと言うのではない。行納が言ったことについて、後の人が迷わされる事々を思って書き付けておく。

※二段下げの分は、弟子の松波資之の注記。おもしろいやり取りである。
※景樹が自ら万葉風をしきりに詠んだ時期があったと明言している貴重な一節である。だから、『桂園一枝』には掲出歌のような万葉調の歌もあるのだ。正岡子規の言った言葉を真にうけて、景樹と「古今集」を図式的に結び付けるのはまちがいである。

82 雨夜思藤花
よもすがら松のしづくのひまもなしうつりやすらんふぢ浪の花
一三二 よもすがら松のしづくのひまもなしうつりやすらむ藤浪の花 享和三年 初句 フルアメニ

□雨ともいはず、「雫のおとのひまもなし」を、「音も」ぬいてあるなり。雨とも雫ともいはずして其事にきこゆるなり。此歌、伊丹にて探題してよみたり。ことわりよりしらべをいたはるなり。「うつりやすらん」、藤は今夜でしまひか知らん、とをしむなり。

○雨とも言わず、「雫のおとのひまもなし」を「音」も抜いてあるのだ。雨とも雫とも言わないで、その事に聞こえるのだ。この歌は伊丹で題を探って詠んだ。ことわりより調べをいたわるのである。「うつりやすらん」というのは、藤は今夜でおしまいかしらん、と惜しむのである。

83 暮春
花はちりて春もかへるのちからなきこゑのみのこる夕ま (以下欠字)
一三三 花は散て春もかへるのちからなきこゑのみ残る夕まぐれかな

□「催馬楽」の「力なきかへる、骨なきみゝず」をとりて云ふなり。
ある人の発句に「春の別かへるほどなくものはなし」とあり。ことの外かへるなくなり。「かへるの力なきこゑ」とも云ひこなすなり。「まだとらぬ早苗の末葉なびくめりすだく蛙のこゑのひゞきに」。六百番たかのぶ、「行舟のよとむ(とよ、の誤植)ばかり」ともあり。蛙のこゑの甚だしきにいへり。今は風雅にしていろいろとしてよむなり。さて以前には、「花もちり春もかへるの」としたり。今は「花はちりて」と直して出せり。歌品数等まされり。「花もちり」といへば、句にはづみあるゆゑ、さわがしきなり。又しづかならぬなり。今は「花はちりて」とするについて、しらべ妙なり。「花もちりて」としては、春の「は」が上声になるなり。「花はちりて」とすれば春の「は」が去声になるなり。玄如節をつけてみたり。ふしの工合大に大事なり。一首一首ふしあるでもなけれども、これ又一の稽古なり。

○「催馬楽」の「力なきかへる 骨なきみゝず」の句をとって言うのである。
ある人の発句に「春の別かへるほどなくものはなし」とある。ずいぶんと蛙が鳴くのだ。(それを)「かへるの力なきこゑ」とも言いこなすのだ。「まだとらぬ早苗の末葉なびくめりすだく蛙のこゑのひびきに」。「六百番」隆信の歌に、「行舟のとよむばかり」ともある。蛙の声の甚だしい様子に言った。今は風雅にして、いろいろと(工夫)して詠むのである。さて、以前に(自分)は「花もちり春もかへるの」とした。今は「花はちりて」と直して出した。(これで)歌品が数等まさった。「花もちり」と言うと、句に弾みがあるのでさわがしいのである。又静かではないのである。今は「花はちりて」とするので、調べに妙味がある。「花もちりて」としては、春の「は」が上声になるのだ。「花はちりて」とすれば、春の「は」が去声になるのである。(これに)玄如が節をつけてみた。ふしの工合は、ひじょうに大事である。一首一首にふしがあるわけでもないけれども、これ又一つの稽古というものだ。

※「まだとらぬさなへの葉ずゑなびくなりすだくかはづのこゑのひびきに」「六百番歌合」一六四、信定。「こきすぐふねさへとよむ心地してほり江のかはづこゑしきるなり」同一六〇、中宮権太夫。ここでは、「六百番歌合」が当時の歌人の基本教養のひとつだったことがわかる。
※玄如(若林秋長)は、景樹の家僕の名。桂門十哲。言葉の続きによってアクセントが替わる。そこに敏感であれ、と景樹は説く。

『桂園一枝講義』口訳 68~75

2017年03月26日 | 桂園一枝講義口訳
68 大井川はやせをくだす筏士ものどかに見ゆるはなのかげかな
一一八  大堰川早瀬をくだす筏士(いかだし)ものどかに見ゆる花のかげかな 文政十年 二句目 早瀬サシくだす 

□手早くさつさと下す筏士も花ゆゑ「のどかに見ゆる」、人の心よりいふなり。又舟よりも筏は、いそがはしきなれども、長閑にみゆるは筏の方にあるなり。此うたは、ふるめかしきやうなれども、前後に手のあるをおきては、のろりとしたるを入れおくが撰集のならひなり。しからば、前後をてらしてみる筈の歌かといへば、さにはあらざるなり。しかし、てらしてみるべきときあるなり。つるつるしたるが大道なり。今此歌などは、つめにかふなり。中島は、此うたをぬけよといひたり。玄如は、あるをよしといへり。これ集の撰びかたなり。

○手早くさっさと下す筏士も、花のためのどかに見える人の心地から言ったのである。また舟よりも筏は(実際は)忙わしいのだけれども、長閑に見えるのは筏の方であるのだ。この歌は古めかしいようだけれども、前後に技巧が勝った歌を置いてある時には、(こういう)「のろりとした」(緩徐調の)歌を入れおくのが撰集というものの習いである。それならば、前後を照らして見る筈の歌かと言えばそうではないのだ。しかし、照らして見るべき時はあるのだ。(歌の配列は)「つるつるとしている」(円滑な)のが大道である。今この歌などは、(隙間の)詰めものとして買うのだ。中島はこの歌を抜けと言った。玄如は、あるのを良しとした。これは集の撰び方なのである。

※「つめにかふなり。」、一応このように解してみたが「買ふ」でなく「換ふ」もあるかもしれない。あるいは「かなふなり」の「な」脱字案も、ここには適っている。

69 麓にやどりて
大井川ちる花までは見せぬこそおぼろ月よのなさけなりけれ
一一九 おほゐ河ちるはなまでは見せぬこそ朧月夜(おぼろづくよ)のなさけなりけれ 享和六年

□四十年も前のことなり。赤尾、佐々木など一緒なりし。陰へ行けば散る、わきより見ればちらぬやうなり。月がなさけあるなり。さすが人情、ちるはをしきなり。翌日大悲閣に上りて、大きにかきおきたり。今もある歟。

○四十年も前のことだ。赤尾、佐々木などが一緒だった。(花は)陰へ行けば散る(ように見え)、脇から見ると散らぬようである。月が情けある(はからいをする)のである。さすがに人情(というもので)、散るのは惜しく(感ずる)のである。翌日大悲閣に上がって、大きく書いて置いた。(あれは)今もあるか。

※山本嘉将の年譜をみると、享和二年三十五歳の時に赤尾可官と二月に難波に行くとある。赤尾は桂門十哲の一人で「正義」雑部の注などにも名が見える。また、前年三月の条に「(桃澤)夢宅らと嵐山に若葉を観る」とある。大悲閣は嵐山中腹の寺。

70 又雨のふる日に
あらし山おつるも花のしづくにて雨さへをしきこゝちこそすれ
一二〇 詞書 また雨のふりける日に
あらし山落(おつ)るも花のしづくにて雨さへをしきこゝちこそすれ  文化十三年

□同年にはあらず。大雨の日なり。大雨中に見たりしことありし年なり。いとふべき雨もをしく思ふなり。おせいが十三まゐりのとしなり。今一組、隣樹に詩人が四五輩来たれり。此歌を大吟したりしに、詩人何人ぞや、ほめたり。をかし、をかし。

○同年ではない。大雨の日だ。大雨の中で見たことがあった年である。厭うべき雨も惜しく思うのである。おせいが十三参りの年だ。もう一組、隣の樹の下に漢詩人が四、五人ばかり来ていた。この歌を大吟したところ、詩人の誰だったかが、褒めたよ。おもしろい、おもしろい(と言って)…。

71 清水寺の夜の花見にまかりてよめる
いにしへの花のかげさへ見ゆるかなくるまやどりの春の夜の月
一二一 いにしへの花のかげさへみゆるかな車やどりの春の夜の月 文化十二年

□道より見あるきて清水夜になりたり。清樹と忠友と三人なりし。祇園林などいへば人の口にあるゆゑ、人は此うたをおもしろさうにいへり。余はあまりすきもせぬなり。田舎おどしによからん。呵々。

○道より見歩いて清水は夜になった。(山本)清樹と(穂井田)忠友と三人だった。祇園林など言えば人の口にあるので人はこの歌をおもしろさうに言うのだ。(でもこの歌が)私はあまり好きではない。田舎人をおどかすのに良いような歌だろうか。あはは。

※今も清水寺の夜桜は人気があって、この時期は夜間に特別拝観できる。山本清樹は『桂園一枝』の序文筆者。穂井田忠友も景樹没後の後継者についての相談にあずかった高弟。

72 てる月のかげにて見れば山ざくら枝うごくなりいまかちるらん
一二二 照(てる)月の影にてみれば山ざくら枝うごくなりいまかちるらむ

□枝はゆさりゆさりとするが、月夜には見えぬなり。夕方ちりたるを見たりしゆゑ、いよいよいまかちるらん、となり。

○枝はゆさりゆさりとするが、月夜には見えないものだ。夕方散っているのを見たので、ますます今ごろ散っているのだろうか、というのである。

73 遅日
つたへきくとほ山人のほらのうちもかくこそあるらしけふの日長さ
一二三 つたへきく遠山人の洞(ほら)のうちもかくこそあるらしけふの日ながさ 文化六年 三句目 洞の中も ※正宗敦夫による校注の意は、三句め「洞の中も」というテキストがあるという意味。

□おとにのみきくなり。遠方にある仙洞の中なり。ゆらりといふので、さも長げにきこゆるなり。「遠山人」、あたらしきなり。「伝へきく」といふより、「遠山」といふ。いよいよのらりと長きなり。「伝へきく」、山人のすむ洞の中でもよきなれども、「遠山人」などいふゆゑ、しらべに長き妙があるなり。又、「けふの日の」ながき思へば、山人の洞の中まで思ひやらるゝというてもすむなり。此のうた、南岳の畫、鶴の眠れるにひなそひたる、の讃なり。此れを清水の何某ほめて、下の句よみそこなひてわらはせたり。

○うわさにだけ聞いているのだ。遠方にある仙洞の中(の情景)である。ゆらりというのでさも長げに聞こえるのだ。「遠山人」は、(歌に詠まれるようになった時代が)新しいものである。伝え聞くというところから遠山という。いよいよのらりと長いのだ。伝え聞く山人の住む洞の中でもよいのだけれども、「遠山人」などと言うので調べに(おいて)長く感じさせる妙(味)があるのである。また、今日の日の長さを思えば、山人の洞の中まで思いやられると言っても済むところだ。この歌は、南岳の絵で、鶴が眠っているのに雛が寄り添っているものに讃(としてつけたもの)だ。これを清水の誰だったかがほめて、下の句を詠み損なって笑わせた(ことがあった)。

※「日長さ」は、「けながさ」と読む。「遠山人」は「玉葉集」や「梨花集」に見える歌語なので「新しい」と言った。

74 
大空のおなじところにかすみつゝ行くともみえぬ春の日のかげ
一二四 おほぞらのおなじ所にかすみつゝゆくとも見えぬ春の日の影

□伊勢の歌に「大空に同じところに」とあり。糟糠なればあまりすきもせぬなり。始の鶯のうたにも「同じところ」をいうたり。いづれひとつにせんと思へども、衆(一字アキ不明)両方とも入れよといひたり。

○伊勢の歌に「大空に同じところに」、とある。つまらないものなので、あまり好きではない。始の(方の)鶯の歌にも「同じ所」を言っている。いずれ一つにしようと思うけれども、門人たちが両方とも入れよと言った。

※「一枝」では、一二三の歌に並んでいて、同題「遅日」の作品。こちらは明治以降よく引かれる歌。「五条内侍のかみの賀民部卿清貫し侍りける時、屏風に」「おほぞらにむれたるたづのさしながら思ふ心のありげなるかな 伊勢」(『拾遺集』)。「始の鶯の歌」は、二九「朝な朝なおなじ所にきこゆれどあらたまり行(ゆく)鶯の聲 文政九年」。
  
75 題しらず
空にのみあくがれはてゝかげろふのありともなしにくらす春かな
一二五 空にのみあくがれはてゝかげろふのありともなしにくらす春かな  文政二年

□ふすまの画に讃したり。富士谷か、榎並かの乞なり。
「ありともなしに」、心の身にそはぬなり。「かげろふ」、「ありともなし」の枕なり。すくに春の道具なり。大空より引張りきたれり。
「かげろふ」、「万葉」に「かきろひ」とあり。「かきろひ」とつかひたる御代には「かきろひ」がよきなり。今は「かげろふ」といふがよきなり。それを無理に古にかへすとするは偏固なり。元禄年中の模様、衣装、清水の画馬などみるべし。古めかしきなり。今、寛文・元禄の古へにかへりたるなり。此のもどらぬ間は、その時々のがよきなり。今もどればもどりたるがよきなり。

○ふすまの画に讃をした。富士谷か、榎並かの乞(いに応じたもの)である。
「ありともなしに」は、心が身に添わないのである。「かげろふ」は、「ありともなし」の枕である。すく(秀句)に(おいて)春の道具である。「大空」より引張って来た。
「かげろふ」は、万葉に「かぎろひ」とあり、「かぎろひ」と使った御代には「かぎろひ」が良かった。今は「かげろふ」と言うのが良いのである。それを無理に古(いにしえ)に返そうとするのは、偏固というものだ。元禄年中の模様、衣装、清水の画馬などを見るとよい。古めかしいのだ。(無理に昔にもどすのは、)今、寛文・元禄の昔に返ったのである。この戻らない間は、その時々のがよいのである。今戻れば戻った方のが良いのである。
 ※どうにか花の咲きだす前に桜の歌の講義をアップできた。眼前の景にのせてお楽しみください。

佐藤通雅『連灯』

2017年03月26日 | 現代短歌 文学 文化
つい先日『宮柊二「山西省」論』を出したばかりの著者である。これは第十一歌集で、先の歌集『昔話(むがすこ)』が話題になったことは、まだ記憶にあたらしい。仙台在住のため、この数年間の著者の生活は、震災の当事者に寄り添いながら歌人として発信することを求められ続けてきた日々であったと言えるだろう。その重責を、誠実に飾ることなくこなしながら、注意深く現実世界を観察し、歌を詠むということをしてきた。

 人の生活のすべてを一瞬で破壊した震災とそれに続く原発事故は、天災と人災の組み合わさったものだった。その後廃炉は一向に進まず、経費はますますふくらむばかり。帰還をめぐって揺れる被災者たちの姿は、現在の困難をまざまざと見せつけている。後記にあたる「『連灯』覚書」で著者は、

「このままでは、やがて人類が亡び、地球も生命の初源から再出発することになる。そこまでを視野に入れなければ、もはや未来は語れない。つい先日までは、空想小説の世界だった場に、いやおうなく立たされている。
 だのに誰もが、一日一日の生活を重ねていくほか、どんな有効な手立てもない。」と書く。

 それでも人は日々を生きていくほかはない。むかしの岩波文庫にチェーホフの一幕劇集という愉快な一冊があるが、あの本の印象と佐藤通雅の歌を少しだけ私は重ねてみたくなった。泣き笑いのユーモアというものが、切羽詰まった人間には必要だ。歌集におさめられている歌の印象は、全体として暗く沈んでいるわけではなく、軽妙なおどけや滑稽の感じを一筆書きにスケッチしたものが数多くある。

扉をあけてまた扉をあけてあけてあけてむしろ山猫に食はれてみたい
  ※「扉」に「と」と振り仮名。

全山を除染するなんてとてもとても葉を一斉に噴き出して山

怒りはじめたらかへつておのれを汚すから今宵中空の沈黙の月

 一首目は、有名な宮沢賢治の童話をもとにしている。都会人の紳士を諷したといわれている「注文の多い料理店」の二人の客は、現代日本の電力会社にも政府にもいそうなタイプだが、現代の日本人は、多かれ少なかれ<鉄砲を持った善意の紳士>のような、<人を信じやすい善良な悪いひと>なのだ。むろん自分もその一人である。だって電気もパソコンも使っているし、人類がほろびそうだっていうのに何にもできない。
 二首目、「除染」と言っても限界がある。そんなことは、はじめからわかっていた。だからやらない、と言うのはおかしい。「とてもとても」と言っている相手を作者は突き放している。むろん除染は、百年以上かかったってやるべきだ。三首目、かろうじて激発しそうな感情を抑えて踏みとどまっている。

五年目の近づきて特集記事増えるその日過ぎなば忘れむために

「あの日」に話及べばどの人も星みなぎらふ夜のこといふ

逆走をするは老いたる人に多し逆走は人のかなはざる夢

 一首目、一過性の報道は、良心へのアリバイ作りとなってしまう。持続的な関心と、油断しない批評的な精神の持続が必要だ。そのためには、こころをひらいて感情をいきいきと動かして、諧謔を忘れないことだ。二首目のように被災の現実のただなかで星空の美しさに感動していた自分たちがいたではないか。三首目は、自身の加齢の現実も踏まえたユーモア。

佐藤通雅の歌は、きびきびと軽快に、自由な精神のはたらきを表現している。それが困難な場所で生きる被災者たちや、震災の死者たちに挨拶を送り続けることにもつながっているのだ。

千家元麿の詩「象」の教材化案・発問と解答例

2017年03月25日 | 詩の授業
一太郎ファイルの復刻。思い出したので検索をかけたみたら、あった。だいぶ前のものだが、愛着がある文章である。

千家元麿の詩の良さを知ったのは、鶴見俊輔の文集によってだった。近い所では埴谷雄高の特集で文芸誌に書いた文章や、筑摩から出た一冊本の『竹内好』がおもしろかった。自分の生涯の同志とでも言えるような人たちについて、墓誌のような本を作っておられた。それは自身が歩んできた戦後史への哀悼であるとともに、次代に自身の志を受け継ごうとする営みでもあったのだろう。鶴見は、近代日本における自生のヒューマニズムの水脈を、独自の思想史家としての嗅覚から掘り出してみせた。それは「アナキズム」と呼ばれたり、「社会主義」と呼ばれたり、「人道主義」と呼ばれたりしたものであるが、鶴見の中では、人間の善性への確信に貫かれた信の実践という点で、等しい存在だったのではないかと思う。

鶴見俊輔は、今にも戦車が走って来るかもしれない往来に、あらかじめ敗者として寝そべってしまうようなタイプの人間に対して、愛情を感じすぎるのかもしれない。が、政治的な人間が自身の冷厳なリアリズムゆえに、かえって短命で早々に滅びてしまうのに対し、近代日本の自生のヒューマニストたちは、たいてい天寿をまっとうしたのである。人が生き延びることはひとつの知恵であり、どうやったら生き延びられるのか、どのような思想を持ったら人間はよく生き得るのかを幼い人々に教えることは、年長者の責務である。千家元麿も、鶴見のそういう問題関心の中で、生き生きとした表情を与えられていた。私が今回「象」にこだわってみた動機の一番最初のところに以上のべたような読書体験が存在する。

 現代という時代は、あらゆるものが卑俗化し、崇高なるものへの願いが失われた時代である。とりわけ性器的接触への性の関心の極限化は、文化の貧困化であるとともに民族的な不幸と言ってもいいような状況となっている。崇高なものへの思いを養ううえで、千家元麿の詩にまさるものは、なかなかないのではないか。「畏敬の念を持つ」という心のはたらきが、政治的な方向にねじ曲げられようとしているこのような時代にこそ、本物を感じさせたい。理想主義的な精神が持つ心のはたらきの美しさを感じ取らせたい。

 口語自由詩の「象」は、親しみやすい動物の姿の描写を通して、人生の寂しさと孤独の意味を感じ取ったり、作者の心のやさしさに触れることができる詩である。全体に象徴的な内容を持ちながらも、表現は平易で、形象性が高く、イメージもつかみやすい。漢語の使い方に味わいがあり、漢字の使い分けによる文のニュアンスの違いを理解する上でも有効な教材である。

 以下に本文を現代仮名遣いに書きあらため、なじみにくい表記を学生用に補訂したテキストを示す。そのあとは、行番号ごとに予想される発問もしくは作業のための設問を提案し、簡単な解説と解釈案も付記した。皆様のご批正をたまわりたい。

    象 千家元麿

一  動物園で象の吼えるのを聞いた
二  象は鼻を牙に巻きつけて巨きな頭をのし上げて
三  薄赤いゴムで造ったような口を開いて長く吼えた。
四  全身の力が高く擡げた頭にばかり集まってしまったように
五  異様な巨きな頭が真黒になり隠れていた口が赤い焔を吐いた。
六  その声は深く、寂しく、恐ろしかった。
七  象は一息吼え終ると鼻を垂れてもとの姿勢に戻りじっとしていた。
八  実に凝っとしていた。二本の巨きな前足が直立して動かなかった。
九  細い眼を真正面に据えて動かなかった。
一〇 その眼の静かさは人を慄え上らせた。
一一 二分三分、四分位経つと再び象は鼻を口の中へ巻き込んでくわえた。
一二 そうして異常な丈となり、不思議な痛ましい曲譜を吹き鳴らした。
一三 ブルブル震えて何処までも登ってゆくようなリズムであった。
一四 荒々しい、しかし無限な悲哀を含んだ此世の声とは思えなかった。
一五 遠い原野をさまようものの声であった。
一六 争うような祈るような、何者か慕うような幼い声であった。
一七 象は長く吼えて力が盡きると又もとの姿勢にかえって凝っと静まり返って前を見詰めていた。
一八 その古びた灰色の背骨の露われた姿は静かさに満ちていた。
一九 限り無く寂しいものに見えた。
二〇 自分は黙って彼の姿を見ていた。自分の眼には涙が浮かんだ。
二一 彼は何か待ちのぞんでいるようであった。
二二 此世の寂寞に耳を澄ましているようであった。
二三 何か催すのを待っているようであった
二四 やがて彼は又何ものにか促されて凄まじい姿となり、巨頭を天の一方に捧げて三ベン目を吼えた。
二五 四ヘン目を吼え終った時、彼はその鼻で巨きな禿げた頭の頂きをピシャリと音の発する程嬉しそうにたたいた。
二六 何か吉兆に触れたように。
二七 五ヘン目に彼は又空に向かって何ものか吸い上げるように吼えた。
二八 轟く雷か波のように音は捲きかえして消え去った。
二九 それからもとの姿勢に戻って習慣的に体を前後にゆさぶりはじめた。
三〇 足も鼻も尻尾も動き出した。
三一 彼はもう吼えなかった。

注解と指導のポイント
一 「吼える」と「吠える」とではどうちがうか?調べてみよう。(句点は、この行と二三行目にだけはじめからない。これは作者の持っている読み、朗読のリズムと、文や句点についての考え方と関係があるのかもしれないが、明確な根拠をもって一般に納得の行く解説を与えることがむずかしいので、ここでは深入りしない。)

二 「巨きな頭をのし上げて」の「のし上げて」を「上げて」「持ち上げて」とくらべると、どんな違いがあるか?

三 象の口はどんなふうに見えたのか? 「薄赤いゴムで造ったような」は直喩。以下に直喩は頻出する。

四 「もたげる」はどんな動作か?「全身の力が高く擡げた頭にばかり集まってしまったように」は直喩。

五 ① 頭が「真黒にな」ったのは、なぜか? おそらく、象の頭が影を作ったためである。作者は心持ち象を見上げる視点をとっている。これは実際に作者が象を間に置いて日光の影が見える側にいたということも考えられるが、それだけではなく心理的な位置もそうなのであろう。
② 「赤い焔を吐いた」というのは、象のどんな姿をとらえた描写か? 象が口をあけて赤い口の中が見えている様子。またここから象がどんな様子で吼えていることがわかるか? 激しく口が見えるぐらいに天を向いて伸び上がっている様子。
➂「炎」と「焔」ではどう違うか?

六 象の声はどんな声だったのか? 「深く、寂しく、恐ろし」い声。

七 「一息吼え終ると」から、象が胸いっぱいに吸った息を全部吐ききるまで長々と吼えていることがわかる。象の肺活量は大きいので、大変な声量であることが想像できる。「鼻を垂れて」は二行目の鼻の描写と対照してみたい。

八 「実に凝っとしていた」は繰り返し(リフレイン)。ここにはそれまでの動と静との対比がある。

九 「細い眼を真正面に据えて動かなかった。」からは、象がじっと自分の思いのようなものに集中していることが読みとれる。

一〇 「その眼の静かさは人を慄え上らせた。」ふつう「静かな眼」はどんな眼のことをさしているだろうか? それに比べてここでの象の「静かな眼」はどんな眼だろうか? 単に眼の表情がこわかったのではなくて、内側に恐ろしい凶暴な要素を秘めた眼のことである。

一一 ① 作者は「二分三分、四分位」待っていたことになる。どうして待っていたのだろうか? 象の普通でない吼え方に心をひかれ、激しい好奇心を抱いたから。
② この一文からこのあと象が何かをすることが予想できる。象は何をするのか? それは、この文のどこから読みとれるか? 「再び」ということばから。

一二 ① 「異常な丈となり」とは象のどんな様子をいったものか? 大きく上に頭を持ち上げて伸び上がった姿。② 「不思議な痛ましい曲譜」とは、何のことか? 象の鳴き声。

一三 作者は象の声を音楽のように表現している。象の吼え声は低い音程から高い音程へとわたるものであることがわかる。

一四、一五 象の声はどんな声か?荒々しい声、無限な悲哀を含んだ此世の声とは思えない声、遠い原野をさまようものの声。
ここから、作者が象の声と「悲哀」のわけをどんな文脈で解釈しようとしていることがわかるか? また、現実には象はどこにいるのか?
現実には動物園の中にいる象が、作者のくみとった象の気持の中では、遠い原野をさまよいながら声をあげている。それは原野へのあこがれの声のようでもある。また、想像の中で象はすでに原野をさまよっているのかもしれない。ここには象の声が持つ「痛まし」さと「悲哀」感への作者の理解があらわれている。(この詩行は、「荒々しい~含んだ」という修飾句がかかる「声は」という主語が立てられていないので、以下の「此世の声とは思えなかった」とそれまでの句が並列されるかたちになっていて、やや文法的に破格な印象を与える。語勢に着目すると、句点を置きながらも気持は次の行にかかっているようにみえる。)

一六 「荒々しい声」で吼えている象の声の中に「何者か慕うような幼い声」を作者は聞き取っている。
①このさまざまな要素が混在した象の声から、読者は象のどんな気持を読みとるだろうか?
②あわせて、「何者か慕うような幼い声」の象は何を慕っていると思われるか? たぶん、仲間や母親の象など。

一七 象が静かになったのは何度目か?二度目。「長く吼えて力が盡きると」から、象のどんな吼え方が読みとれるか? 力が尽きるまで、渾身の力をこめて吼えているさま。

一八 「その古びた灰色の背骨の露われた姿」は、象の蒼古とした風貌を伝えている。「露われ」る、の漢字の使い方に注意する。表れ、現れ、とどう違うか。

一九 作者は象の吼えている姿からどんなことを見てとったのか?そして象はどんな気持だと思っているのか? 寂しさ、寂しい気持。

二〇 ①「自分」とは誰か?作者。ここまでは描写文であり、この詩行も作者が自分を客観的に描写した文であることに注意する。 ②どうして「自分」は涙を浮かべたのか?象の悲哀感に心を動かされたから。そのさびしい気持に共鳴し、胸にせまるものがあったから。ここで気をつけなくてはならないのは、作者は象がかわいそうだから同情して涙を浮かべたのではないということだ。作者は吼える象の荒々しさと雄々しさに心を奪われているのである。その荒削りな情動の厚みに心を動かされたからこそ、作者はこの詩を作ったのである。

二一、二二、二三 ここまで読んでくると、象が吼えたあと静かになるわけがわかる。象はただ疲れたから静かにしているのではない。象は吼えたあと、何かを「待っている」のだ。何かに向かって吼え、何かからの返答を待っているのである。

二四 吼える姿の繰り返しだが、微妙に表現が変化している点に注意したい。「何ものにか促されて」という部分には作者の解釈(象の気持の理解)がすでに入っている。

二五、二六 ①二一~二三行目で象が抱いていた思いは、かなえられたのだろうか?かなえられた。
②このように機嫌良くふるまう前の象の姿はどんなものだったか? 対比してみよう。一八行目~二三行目、とりわけ一九行目の「限り無く寂しい」象の姿との対比は際だっている。

二七 「五ヘン目」の吼え方と、四ヘン目までの吼えかたに違いはあるだろうか? 象は今度は満足して吼えている。

二八 ここの描写は、存在の悲哀に満ちた象の姿の描写にふさわしい余韻を残すものである。「轟く雷か波のように」は直喩。「音は捲きかえして消え去った」という描写は、あたかも大きな交響曲の終焉のような荘重な結びとなっている。

二九~三〇 それまで、象は吼えた直後どんなようすだったのか? じっとしていた。ここでの象は「体を前後にゆさぶ」って動いている。この日常的な普通の象の姿は、先ほどの緊張し張りつめた象とは明らかに異なっている。象は緊張と弛緩の鮮やかな対照の相のもとに活写されている。

三一 象はどうして吼えないのか? 満足した、自分なりに納得したから。
 象が待ちのぞんでいるものは何だろうか? それは最後まで明らかにはされない。しかし、暗示されている。象がもとめているのは、「何ものか」からの返答だろう。それは仲間の声かもしれないし、あるいは遠くにいる母親の声かもしれない。それは聞こえたのか? 聞こえたかもしれないし、聞こえなかったかもしれない。確かにはわからない。でも、読者として君はどう思うか? と問われた時に、それを考えてみることはできるはずだ。

主題 
誰も返答をしてくれる相手がいなくても象はなにものかに呼びかけるように勇壮に吼える。そこには生き物の持つ寂しさと誇らしさが同時に表現されている。本編は、象への深い愛情と共感のもとに孤独の意味を問いかけた作品だと言えるだろう。また、発語や歌、咆吼への衝迫の意味を問いかける詩でもある。高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」の文明批評とはちがった角度で動物園の生き物をとらえ、詩境も深いものがあるというべきだろう。

出典 『虹』大正八年九月、新潮社刊。第二詩集。武者小路実篤に捧げられた。

改訂 本文の旧活字は新活字とし、仮名遣いも現代仮名遣いにあらためた。また「ゝ」などの繰り返し記号の部分は文字に直した。ただし「吼える」をはじめとして作者の語彙の選択そのものが重要な意味を持っていることに留意して、多くは原文のままとした。
改めたのは、四行目「仕舞つた」→「しまった」、「様に」→「ように」、五行目以下「居た」→「いた」、八行目「凝つと」→「じっと」、十一行目「食はへた」→「くわえた」、十二行目「然うして」→「そうして」、十四行目「然し」、十六行目「幼ない」→「幼い」、十七行目「盡きる」→「尽きる」、二十行目「浮んだ」→「浮かんだ」、二十四行目「軈て」→「やがて」、二十五行目「嬉し相」→「うれしそう」、二十七行目「向つて」→「向かって」、二十九行目「體」→「体」、二十九行目「初めた」→「はじめた」等である。また初学者のことを考慮して振り仮名も新たに付け加えた。

三枝浩樹『時禱集』 ※「禱」の略字は「祷」

2017年03月25日 | 現代短歌
 自分がどうしてその本を持っているのかわからないのだけれども、本棚に彫刻家の山本正道の展覧会のカタログ(1999年)があった。その写真集のうしろの方に1975年に描かれたポートレートが収録されている。大きな目をみひらいた印象的な若者の横顔が、彫刻家らしい陰翳の濃いタッチで定着されているデッサンなのだけれども、そこに表現されている純一な精神が私には好もしく、そのページを切り取ってとうとう壁に貼ってしまった。でも毎日見るには自分のしていることがあまりにも蕪雑なので、絵の精神性に自分が向き合えない気がするので、結局しばらくしてから裏返しにしてしまって、その反対側のページの山のデッサンの方を出して飾ってある。その青年像が、なぜか三枝浩樹を連想させるのだ。

 三枝には、八木重吉のことを書いた本があった。厚すぎない本で、誇大なことは言わず、自分がこころを惹かれたもののことを、こんなふうに書けたらいいだろうなと思えるような、幸せな書物だった。三枝の身のめぐりにあるものは、みんなそのようにあらしめられるというか、あるべきところにあるものがあるようになる、とでも言おうか、著者と面識はないが、たぶんそういう生き方を貫いて来られた方なのではないかと思って、書かれたものを見て来た。この信頼感は作品から受けた印象の積み重ねのなかでかたちづくられたものだ。読んでいるうちに、作品の底に流れている純一なものに打たれ、彫刻家の山本正道のポートレートのように、作品を支えている精神の高さを前にして低俗なわが身を隠したくなる。一首引く。

人が人を心に思いいだくこと妻子も父母もようやくかなし

人間というものは、ある年齢になると、こういう感慨を端的にいだくようになるものらしい。私自身もそうだから、ああ、そうだなと、本当にこのようにしか言い表しようのないことが言われているなと、思うのである。同様な家族の歌を引いてみる。

サン・テグジュペリは四十四で亡くなったらしいとふいに娘が語りだす
 ※「娘」に「こ」と振り仮名

語る言葉はあるようでなし きみのなかにやがてめざむる村の灯のあれ

この二首は並べられている。「村の灯」は、飛行士が夜間飛行の上空から見つける人家のあかりのことなのだろうが、人が生きるうえでの拠りどころとするものの比喩でもあるだろう。

きみのなかにもコラールの銀 忘れつつ遠ざかりつつたまゆらともる

雪雲の大きな翳が占める森ひえびえとひとつひとつの木あり

こわれゆく肉とたましい たましいの様みえざれば黙しゆくのみ

教員としての仕事や、かかわっているらしい教会の関係で、作者の周辺には傷みをかかえている人が多いようだ。上の同じ一連の三首は、旧知の人のおそらくは認知症の症状が進んでいってしまう様子に心をいためているのだろう。リルケのように、存在に耳を澄ませて生きようとする作者らしい歌だ。

 ※翌日の晩になって、NHKの認知症についての番組を見ていて気がつき、一箇所表現を訂正した。先にごらんになった方には、失礼いたしました。

高石万千子歌集『外側の声』

2017年03月20日 | 現代短歌 文学 文化
高石万千子の歌集は、ひらくたびに発見がある。

きのう目にとまったのは、次の二首だ。

陽は没りぬ
遺りしもの の明るみに
天は 空なる
いちまいの皿


さだまらぬ
 老いの思ひの 迷ひ縞
  わづかずらして
   木漏れ陽を
    来よ

という歌である。本では縦書きだが、多行形式なのは、変わらない。
「陽は没りぬ」の「没」には「い」と振り仮名がある。
 日が没してからしばらくの間、まだ空は白くあかるんでいる。それが一枚の皿のようにみえるというのだ。「天は 空なる」は、「くうなる」とも読めるが、「ソラなる」と読んで「からっぽの」という意味にとった方がいいか。作者は私的な境涯詠を一切作らない人だけれども、やはり自分の生きて来た時間の全体を思って「遺りしもの の明るみに」という、一種の自賛のよろこびのようなものを感じているのではないかと思う。

 その一方で、次に引いた「さだまらぬ/老いの思ひの 迷ひ縞」というのは、「木漏れ陽」の間を通って、なにものかがやって来ることを待ち受けている、というように読める。「迷ひ縞」のような想念と「木漏れ日」は重ね合わされながら、やって来るはずの思惟の断片のようなものが、待たれている。

ここでは、すでにつかんだものではなくて、未見のものを待っている。

 そう思って見返してみると、高石万千子の歌には、そういう「待つ」歌がたくさんあるのだ。すでに所有しているものをもとに歌を作ったり論じたりするという態度が、自分にはないか?反省させられるのである。このブログだって気を付けなければならない。

誰に貸そか千の帽子もわたくしも疑似的所有者あふるる街へ

 「疑似的所有」への抵抗というのは、高石のように若い頃にマルキシズムと実存主義の波をかいくぐり、それから後半生は何十年もドゥルーズを読んできたというような変わり種の人の初一念というものであろう。孔子の「仁」みたいなものである。それが「からっぽ」の帽子の比喩によって語られるというところが、高石短歌の独特のおもしろさである。

 この人の歌集の編集にかかわることができた偶然を、よろこびとしたい。一首。

多行書きに歌分けて詠みくつきりと結句の一語よみがへらする
   さいかち真




阿部久美『叙唱 レチタティーヴォ』  近刊歌集雑感

2017年03月20日 | 現代短歌

私はけっこう気まぐれでなまけ者なので、このブログを利用して自分に仕事をするように仕向けている。あとは、本をいただいた返事がまず書けないので、これまでにずいぶん失礼をしてきたと思う。それで新刊書については、こういうかたちで触れていくことにしたい。

〇阿部久美『叙唱 レチタティーヴォ』

アカシアの咲いてよごれた白がある夜の窓から夜を見るとき

夏の風そわんと鳴つてそれつきりわたしのことはたかが知れてる

あまりにもかたち綺麗なわかれゆゑこれはなにかの結晶だらう

夜といふつめたきものをまねき入れのちうつくしくゆがむ窓あり

 一首め、一見するとうまみのない歌のように見えるが、そうでもない。こういう同語反復のような細かいリズムでモノトーンに景物をとらえてみせるところに作者の歌の特徴がある。そういう感覚を良さとしてとらえると、感興を覚えて読むことができる。作者は北海道留萌市の人で、これは六月下旬の頃の歌だろうか。四首め、作者の窓の歌はどれもいい。こういう歌い方に作者の特徴があり、後述するがたぶん音楽に造詣の深い人らしいもののとらえ方なのだ。

三首め、作者のこころのいたみは脇に置いておいて、自分の置かれた場所を諧謔をもって突き放しているところがおもしろい。結晶作用というのは、むろんスタンダールのザルツブルグの塩の枝、つまり恋愛の方面にかかわる何かを示唆しているわけだろう。孤独で、自分には少しばかり情熱が不足していると感じている都市生活者。器用な方ではないし、あまり目立ちたくもない、典型的な内気な日本人である。歌を通してイメージできるのは、そのような人物像だ。

降りつづく夜半の窓辺におもひをり笠地蔵とふやさしき伽し
  ※「伽」に「はな」と振り仮名。

グールドに弾いてもらはう新年会終へてしれつと戻り来し部屋

現実もまぶたの裏のまぼろしもさかひめあらぬただ雪野原

 一首目のやさしい気持や、二首目のここからは自分の時間、という感覚など、どちらも女のひとらしい歌だと思う。三首目は雪の白さが圧倒的なのだろう。

ゆづりあふせまき雪道ゆづられてかたじけなしとおくる警笛
 ※「警笛」に「サンキュー」と振り仮名。

 自動車に乗っているのだろう。闊達な明るい歌である。こうやって書きしながらだいたい読み終えた。「グレー・グラデーション」の一連がいい。

またリスか 左の耳に尾が触れて背中に流れゆきしまぼろし

己が首すいと撫づれば温とさがその人だといふひたに会ひたき

 この「リス」というのは、自分の触覚的な記憶が現実化して、実際に自分をなでていると感じる感覚なのだと思う。甘い自己慰撫の感じである。自分の指のあたたかさを、会いたい人の指のあたたかさそのものとして感ずる。官能的で、本源的に性的な存在である人間の固有の鋭敏な感覚である。和泉式部が「わが黒髪をかきやりし」とうたった、それと同じものである。これとは逆に自分自身を他人のように詠む次のような歌もある。

冴え冴えと真夏粉雪降りくだれ このひとにはもううんざりなのよ

このひとのつまりわたしの思惟なれど理解不能の手紙下書き

 こういう人が音楽の話をすると、結構たのしい。

エリーゼにすこしの邪心 譜面ではどうなつてるか知りませんけれど

うつくしいことの説明むつかしく「これ」と根つこのありさまを指す

「エリーゼにすこしの邪心」でいろいろなイメージが重なって思わず噴き出した。伝説とちがいけっこうもてたらしいベートーヴェンのイメージや、それに肘鉄を食らわせる少女や、この曲を練習しているお転婆でいじわるな女の子のイメージやらが、「譜面ではどうなつてるか知りませんけれど」という句できちんと引き受けられている。確かにあの曲は邪険な感じにも弾けるな、と考えたらますますおかしい。

鼻歌とあなたはいふが切なくて呻く声ではなからうか、これ

 この歌も何だかおかしい。こういう諧謔を私はいいと思う。おしまいに一首引く。

りろりろとトリルののちに着地してことしの花もしづかにをはる