眼鏡を外していて手に取ったせいか、冒頭のブランショの本からの引用がめんどうくさく感じられた。それで、読むのをやめようかと思ったのだが、見始めたらそうもいかなくて、こういう歌を私がどんなふうに読むかという事を、書いてみようかと思ったので、一種のライブ感覚で以下に書いてみることにしたいが、何か出てきたらいいと思う。それで、巻頭一首め。
かわせみよ 波は夜明けを照らすからほんとうのことだけを言おうか
のっけから、この歌の持つ音楽的な高低アクセントの配置に、一気に魅了されてしまったので、冒頭の「引用がめんどうくさい」などという理由のない反感は、さっさと打ち消して、大人しく読むことにしたのである。
分析してみよう。二句目の「ナミワ ヨアケヲ テラスカラ」の七五調が、「ナミワ」で高調しておいて、それを下句の「ほ(HО)んと(ТО)うのこ(KО)とだけを〈WО〉言お(О)うか」という、岡井隆の母音律理論でいう所の「オ」段の音の頻出につなげてゆく技巧が、何とも心憎い。それだけではない。初句の「かわせみよ」という自由詩的な出だしに続けて、
「波は夜明けを照らすから」は、七五調である。やや「波は夜明けを」が跳ね返りすぎる感じはあるが、それを再び口語脈の「ほんとうのことだけを言おうか」という低音で抑制して引き締めてみせるあたり、なかなかのものである。
それで、歌の意味内容の方だけれども、これは二首めを読むと、何やら蓬莱山のようなものへのユートピア憧憬の心情が、示唆されている。「かわせみ」は、そこから飛んできたもののような感じに、二首めが配置されているのである。あとまで読み進むと、この「かわせみ」は、『和泉式部日記』の冒頭の「ほととぎす」のような存在だということがわかるのではあるが。
もうずっとあかるいままのにんげんのとおくて淡い無二のふるさと
現下の「人間」が、「もうずっとあかるいまま」のわけがない。だから、「あかるい」のは、「にんげんのとおくて淡い無二のふるさと」である、ということになる。ここで一段めの意味だけの読みをしてはいけない。「もうずっとあかるいままのにんげんの」という上句には、神のために自爆して果てている(た)ような「にんげん」への嘆きがこめられている、と踏み込んで読むべきだ。この「にんげん」にどこまで社会性を付与できるかが、この一巻の深度を決めるところがあると思うのだが、いまのところは抽象的な詩美の構築をめざすという枠内にとどまっている気配がある。「とおくて淡い無二のふるさと」は、天国のような、理想郷のようなところ、なのか。三首め。
こころでひとを火のように抱き雪洞のようなあかりで居たかったんだ
ここまで読んで、なんだ、「ほんとうのこと」とは、相聞的な感情だったのか。お決まりの短歌の文脈を持ち出してみせている。しかし、ここはそのような外貌のもとに別のことを語ろうとしているかもしれないのだから、用心しつつ読む。「雪洞」には、「ぼんぼり」と振り仮名あり。四首め。
抱きしめる/ゆめみるように玻璃窓が海のそびらをしんと映せり
うまい歌だ。五首め。
波には鳥のひらめきすらも届かないだろうか 海はあたえてばかり
「海にいるのは、あれは人魚ではないのです」という中原中也の詩があったが、海の詩はたくさんあるから、読者は何かしら、自分の知っている既読の詩を下敷きとして感じたらいいのだろう。これはやや平凡。
終ったあとの火のさびしさを言い合えば火に泡雪を降らせる渚
どうかな。この歌を読んで私の感情は、少しだけ冷える。うますぎる。「渚」に「なぎさ」の振り仮名。續けて同様の上手な五首をさっと読む。(もちろん、うまい歌ですよ。)一連の十二首めの歌。
ひかりひとつ奏で終えても(ほら ふるえ)にんげんは詩のちいさな湊
「湊」に「みなと」と振り仮名。「ひかりひとつ奏で終えても」というのは、性愛の営みの比喩である。と同時に、言語による詩の制作それ自体の比喩でもあるだろう。相聞の物語として詩を論じてみせるあたり、むろん作者はただ歌がうまいだけではないのだ。ただ、「にんげんは詩のちいさな湊」と言うとき、何かを回収しようとしている感じがするのである。それは、「近代文学」でもいいし、「短歌型式」そのものでもいいし、「現代短歌」もそうなのかもしれないが、大きな<物語>を回収しようとする方向に加担しているところに保守的性格を感じる。これだけでは、<詩>が<詩の型式>に収斂していくことを是とするだけではないのか。いや、私自身がそれを否定できない者の一人であるし、別にそれが悪いと言っているのではないのだけれども…。こういう、無いものねだりをしたくなるほどの才能、であることは、絶対的に確信する。この続きは、またの機会に。 (翌朝見直して字句を訂正しました。翌々日に、再度加筆しました。)
※ 2020.6.21付 一ヶ所訂正 blog閲覧者のご教示により一ヶ所訂正しました。
終ったあとの火のさびしさを言い合えば火に淡雪を降らせる渚 を
終ったあとの火のさびしさを言い合えば火に泡雪を降らせる渚 と直しました。
。
かわせみよ 波は夜明けを照らすからほんとうのことだけを言おうか
のっけから、この歌の持つ音楽的な高低アクセントの配置に、一気に魅了されてしまったので、冒頭の「引用がめんどうくさい」などという理由のない反感は、さっさと打ち消して、大人しく読むことにしたのである。
分析してみよう。二句目の「ナミワ ヨアケヲ テラスカラ」の七五調が、「ナミワ」で高調しておいて、それを下句の「ほ(HО)んと(ТО)うのこ(KО)とだけを〈WО〉言お(О)うか」という、岡井隆の母音律理論でいう所の「オ」段の音の頻出につなげてゆく技巧が、何とも心憎い。それだけではない。初句の「かわせみよ」という自由詩的な出だしに続けて、
「波は夜明けを照らすから」は、七五調である。やや「波は夜明けを」が跳ね返りすぎる感じはあるが、それを再び口語脈の「ほんとうのことだけを言おうか」という低音で抑制して引き締めてみせるあたり、なかなかのものである。
それで、歌の意味内容の方だけれども、これは二首めを読むと、何やら蓬莱山のようなものへのユートピア憧憬の心情が、示唆されている。「かわせみ」は、そこから飛んできたもののような感じに、二首めが配置されているのである。あとまで読み進むと、この「かわせみ」は、『和泉式部日記』の冒頭の「ほととぎす」のような存在だということがわかるのではあるが。
もうずっとあかるいままのにんげんのとおくて淡い無二のふるさと
現下の「人間」が、「もうずっとあかるいまま」のわけがない。だから、「あかるい」のは、「にんげんのとおくて淡い無二のふるさと」である、ということになる。ここで一段めの意味だけの読みをしてはいけない。「もうずっとあかるいままのにんげんの」という上句には、神のために自爆して果てている(た)ような「にんげん」への嘆きがこめられている、と踏み込んで読むべきだ。この「にんげん」にどこまで社会性を付与できるかが、この一巻の深度を決めるところがあると思うのだが、いまのところは抽象的な詩美の構築をめざすという枠内にとどまっている気配がある。「とおくて淡い無二のふるさと」は、天国のような、理想郷のようなところ、なのか。三首め。
こころでひとを火のように抱き雪洞のようなあかりで居たかったんだ
ここまで読んで、なんだ、「ほんとうのこと」とは、相聞的な感情だったのか。お決まりの短歌の文脈を持ち出してみせている。しかし、ここはそのような外貌のもとに別のことを語ろうとしているかもしれないのだから、用心しつつ読む。「雪洞」には、「ぼんぼり」と振り仮名あり。四首め。
抱きしめる/ゆめみるように玻璃窓が海のそびらをしんと映せり
うまい歌だ。五首め。
波には鳥のひらめきすらも届かないだろうか 海はあたえてばかり
「海にいるのは、あれは人魚ではないのです」という中原中也の詩があったが、海の詩はたくさんあるから、読者は何かしら、自分の知っている既読の詩を下敷きとして感じたらいいのだろう。これはやや平凡。
終ったあとの火のさびしさを言い合えば火に泡雪を降らせる渚
どうかな。この歌を読んで私の感情は、少しだけ冷える。うますぎる。「渚」に「なぎさ」の振り仮名。續けて同様の上手な五首をさっと読む。(もちろん、うまい歌ですよ。)一連の十二首めの歌。
ひかりひとつ奏で終えても(ほら ふるえ)にんげんは詩のちいさな湊
「湊」に「みなと」と振り仮名。「ひかりひとつ奏で終えても」というのは、性愛の営みの比喩である。と同時に、言語による詩の制作それ自体の比喩でもあるだろう。相聞の物語として詩を論じてみせるあたり、むろん作者はただ歌がうまいだけではないのだ。ただ、「にんげんは詩のちいさな湊」と言うとき、何かを回収しようとしている感じがするのである。それは、「近代文学」でもいいし、「短歌型式」そのものでもいいし、「現代短歌」もそうなのかもしれないが、大きな<物語>を回収しようとする方向に加担しているところに保守的性格を感じる。これだけでは、<詩>が<詩の型式>に収斂していくことを是とするだけではないのか。いや、私自身がそれを否定できない者の一人であるし、別にそれが悪いと言っているのではないのだけれども…。こういう、無いものねだりをしたくなるほどの才能、であることは、絶対的に確信する。この続きは、またの機会に。 (翌朝見直して字句を訂正しました。翌々日に、再度加筆しました。)
※ 2020.6.21付 一ヶ所訂正 blog閲覧者のご教示により一ヶ所訂正しました。
終ったあとの火のさびしさを言い合えば火に淡雪を降らせる渚 を
終ったあとの火のさびしさを言い合えば火に泡雪を降らせる渚 と直しました。
。
「淡雪」でなく「泡雪」です。
該当歌集p10
やわらかく溶けやすい質感(「泡雪羹」など)があるほか、「火」があるので、一瞬、消化器の泡みたいな連想もたぐりそうになる、という隠し効果もあるかもしれません。
修正したらこのコメントを消してください。
「淡雪」でなく「泡雪」です。
該当歌集p10
やわらかく溶けやすい質感(「泡雪羹」など)があるほか、「火」があるので、一瞬、消火器の泡みたいな連想もたぐりそうになる、という隠し効果もあるかもしれません。
修正したらこのコメントを消してください。