さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

山階基『風にあたる』

2021年12月12日 | 現代短歌
 この人の歌集が出たのは2019年7月だから、もう二年以上たつのだが、何か書いてみようと思ったのは、つい先日のことで、腰を上げるのが遅すぎて申し訳ない。何しろ一定の評価をすでに得ている作者だし、以前「未来」にいらした頃は、顔をみるたび「よお天才君」と呼んでおだてていた。この人だけには歌を続けてほしかったから。若手の歌人は相当にいい感じの人でもしばしばやめてしまうものである。ところが、そのうちに「未来」をやめてしまって、せっかく期待していたのに何だ、とわたしはしばらくむっとしていた記憶がある。それでもこの歌集が届いた時は、すでに重版の本だったけれども、うれしかった。これは装丁の絵を見てから、その絵に手を引かれるようにして読む歌集だという気がする。作者自装で、表紙の絵にこだわったつくりの本である。

 一言で言うなら、表紙の絵の持っているテイストに等しいような、事物と事物、人とひとの間に存在する空間・拡がりのようなものについての清明な透視が、山階基の歌の世界をかたちづくっている。

 かならずという感覚に満たされた袋になって吊り革に揺れる

 小さくて深い湯舟におさまればふたごの島のように浮くひざ

 ルームシェアの友人との物語が、テキストを展開しながらつないでゆく糸になっていて、全体をまとまりのある読みやすいものに仕上げているところなど、なかなか心憎い。一首目の「かならず」が何について言っているのかは、むろんわからないのだけれども、「かならず~しよう」とか、「かならず~したい」といった、心の裡の願いのようなものを暗示していることは伝わる。そうして、二首目は自分(語り手・視点統括者)のからだのことを言っているようでありながら、同時に「ふたごの島」は、自己愛的なものを絶妙なバランス感覚で対象化しつつ見つめていると感じさせる。当たり前のことを言うようだが、「ふたごの島」は一つの島ではない。自己というものは、「一つの島」なのではなく、「ふたごの島」なのである。この繊細かつするどい自覚のもとにのべられてゆく物語の巧みさに思わずうならされるのである。それは一編の青春小説である。

 なだらかな坂があなたで効きづらいブレーキのままここまでぼくは

 お互いに凭れてもいいことにしてライブハウスのちいさなベンチ

 同居する相手の性をいちばんに訊かれるんだな部屋を探すと

 起きぬけのあなたにも巻くたまご焼き夜じゅうを仕事にかまけたら

 だとしても暮らしと陸続きの夢だ初雪を踏んでだめにしながら

 四コマ漫画の単行本を読むような気楽さもあって、同時にきわめてヴィヴィッドに運動する情景の切片には、まぎれもない詩の言葉のもつ初々しさがある。

 ひざに抱く鞄にくぢづけるように終点までをふかくねむれよ

 話さなくなったあとにも口ずさむ歌詞によく似たメールアドレス

 実にうまい歌だけれども、自然な感じにこちらの胸におちて来る。

伝田幸子『冬薔薇』

2021年12月12日 | 現代短歌
 深夜に書物を繰っていて、はっとすることがある。この本の歌には、そういうなかで出会った。たとえば、こんな歌。

  忘れむとしてゐるものを時として追ふことのある雑踏のなか

 この歌を読んでいる時は、別に特段の感興を覚えはしなかった。しかし、次の歌を並べて見出したときに、また別種の真実味のようなものを感じてしまったのである。

 水楢の落ち葉にあそぶ猿たちに笑顔のあらず 冬がまた来る

 一種の嘱目なのだろうけれども、結果として出来あがった歌には、何か得体のしれない気配が醸しだされている。

  雨の日にうしろ姿を見送られ永遠に燐寸を擦ることのなし

 この歌の理解は、とても難しい気がする。そういう路傍で煙草を吸うような人を折々隣人として目にした、というように、いま解釈してみたい。

 雪掻きのコツを覚えてメモリーの結晶のごと雪積み上ぐる

 ぺちや豆をふつくらと煮て供へたり瞑目しつつ雨音を聞く

 こうした習俗の気配のまつわる日常詠が、なかなかいい。一首目の歌は、地味だが清新な響きを持っている。

  歳月は唯に流れてきたのでなくわれとふ冬芽を育みくれたり

 「冬芽」という一連のさいごの歌。冬芽なら、これからまた新たに育ちゆくのだろうかと、この歌はいっしょに読んだ人たちが面白がった。

 『星の王子様』伏せて暫くアール・グレイに浮かびゐるキラ星を呑む

 同じ一連のこの歌も、その場で感覚がするどくなっている人の幾人かが、読んですぐに笑い声をあげた。私も思わず笑った。