1357年
李成桂(イ・ソンゲ)と神懿王后との間に 次男として生まれた定宗(チョンジョン)は
「第一王子の乱」の後 王世子に冊封されます
もともと王になるなどとは考えてもいなかった人物ですが 長男が早世していたため
また 国の実権を握っていた5男の芳遠(バンウォン)に強要される形で
1398年9月 望まずして 太祖(テジョ)李成桂(イ・ソンゲ)から譲位を受けます
側室との間に 多くの庶子はいたものの 正室との間に男児がなく
芳遠(バンウォン)にとっては好都合でした
王でありながら 常に5男芳遠(バンウォン)の影響下に置かれ
いわば形だけの王でした
「王子の乱」が起きたのは運気が悪いからだと聞き
都を ソウルから開京(ケギョン)へ遷都します
しかし1400年 「第二王子の乱」が起きると 5男芳遠(バンウォン)を王世弟にし
わずか9か月後には王位を譲り 上王(サンワン)となります
生き延びるためには 権力の座から降りるしかなかったのです
譲位してからの定宗(チョンジョン)は 撃毬(キョック)・狩猟・温泉・宴会など
娯楽の日々を過ごし 悠々自適な生涯を過ごし 1419年 63歳で崩御します
まさに 何の実権も功績もない過渡期の王です
それにより 明国からの冊封もないまま 人々は「恭靖大王」と呼びました
崩御から262年が過ぎた粛宗7年(1681)
ようやく「定宗(チョンジョン)」の諡号が贈られたのです
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