ラブリーホールでローマの休日を!!
1953年製作のアメリカ映画
ストーリー
ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国の王女アン(オードリー・ヘプバーン)はヨーロッパ各国を表敬訪問中であった。最後の滞在国であるイタリアのローマで、過密なスケジュール、疲労感と自由のない生活への不満により、ついにアンはヒステリーを起こしてしまう。
その夜、密かに城を抜け出した王女は、直前に打たれていた鎮静剤のせいで無防備にも路傍のベンチでうとうとしはじめる。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)だった。見かねて介抱するうち、いつの間にか王女はジョーのアパートまでついて来てしまう。
翌朝になって彼女の素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをモノにしようと、職業を偽り友人のカメラマンであるアーヴィングの助けを得て、どうにか王女を連れ歩くことに成功する。
アンはまず美容院で髪の毛を短くし、スペイン広場でジェラートを食べる。その後ジョーとベスバに二人乗りしてローマ市内を廻り、真実の口を訪れ、サンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーに参加する。その様子をアーヴィングが次々にスクープ写真を撮っていくうち、永都の都・ローマで自由と休日を活き活きと満喫するアン王女とジョーの距離は次第に近づいていくのであった。
晩年
1989年の引退後に、国際連合児童基金(ユニセフ)のユニセフ親善大使に就任し、当時内戦が続いていたソマリアやスーダンを訪問している。就任の際に、オードリーは「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」と語っている。
1993年1月20日 スイス、ローザンヌ近郊のトロシュナ村で大腸癌のため亡くなる(満63歳)
★ ヘプバーンのアメリカ映画初主演作であり、”永遠の妖精オードリー”が誕生した記念すべき作品。
安易な逃避行にならない、この現実への責任感が、より深い印象を刻みつけます。出会えたことそれだけで、幸せ。
久し振りに観賞しましたが、スクリーンに映し出される彼女に、世界がうっとりと見蕩れた様が浮かびます。映画って本当にいいですね。(^_-)-☆
1953年製作のアメリカ映画
ストーリー
ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国の王女アン(オードリー・ヘプバーン)はヨーロッパ各国を表敬訪問中であった。最後の滞在国であるイタリアのローマで、過密なスケジュール、疲労感と自由のない生活への不満により、ついにアンはヒステリーを起こしてしまう。
その夜、密かに城を抜け出した王女は、直前に打たれていた鎮静剤のせいで無防備にも路傍のベンチでうとうとしはじめる。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)だった。見かねて介抱するうち、いつの間にか王女はジョーのアパートまでついて来てしまう。
翌朝になって彼女の素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをモノにしようと、職業を偽り友人のカメラマンであるアーヴィングの助けを得て、どうにか王女を連れ歩くことに成功する。
アンはまず美容院で髪の毛を短くし、スペイン広場でジェラートを食べる。その後ジョーとベスバに二人乗りしてローマ市内を廻り、真実の口を訪れ、サンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーに参加する。その様子をアーヴィングが次々にスクープ写真を撮っていくうち、永都の都・ローマで自由と休日を活き活きと満喫するアン王女とジョーの距離は次第に近づいていくのであった。
晩年
1989年の引退後に、国際連合児童基金(ユニセフ)のユニセフ親善大使に就任し、当時内戦が続いていたソマリアやスーダンを訪問している。就任の際に、オードリーは「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」と語っている。
1993年1月20日 スイス、ローザンヌ近郊のトロシュナ村で大腸癌のため亡くなる(満63歳)
★ ヘプバーンのアメリカ映画初主演作であり、”永遠の妖精オードリー”が誕生した記念すべき作品。
安易な逃避行にならない、この現実への責任感が、より深い印象を刻みつけます。出会えたことそれだけで、幸せ。
久し振りに観賞しましたが、スクリーンに映し出される彼女に、世界がうっとりと見蕩れた様が浮かびます。映画って本当にいいですね。(^_-)-☆