某月某日
先日渡部さとるさんの日記の12月2日つけで「おわび」が掲載されていた。
なんでも先に行なわれたグループ展のタイトル「2B26事件」が「226事件」を茶化したタイトルであると「お叱り」を受けての対応のようだ。
その対応をとやかく言う筋合いのものではない。
勝手に検索して「お叱り」の主はここだろうと想像するのだが、12月1日の記事に該当しそうなものがある。
その対応をとやかく言う筋合いのものではない。
でもさぁ、なんで茶化しちゃぁイケナイのさ?
不謹慎?
つまりそれは「贅沢は(素)敵だ!」ってヤツ?
「これだけ昭和の偉人、若者が亡くなっている事件を安易に名ずる神経が日本人としてわからんのです。」っていうのが、日本人としてではなく、一個人としてわからんのです。
どうしてこういう場合に「日本人」が出てきて、さも自分の意見が日本人として、つまり日本人を代表してとにおわせる文言で発言するのでしょう。
これは「日本人」として筆者がわからんのではなく、「一個人」としてわからんだけでしょ。
226事件が起こった昭和ではなく、平成の日本では武力や暴力による弾圧は「民主主義」として許されていませんので、平成に生きる者としての感情では当時と捉え方が異なるのは当然でしょう。
それを当時の風潮を持ち出してケシカランというのも、時代の捉え方として再考するべきものもあろうかと思います。
お叱りの主の文面には「賛否両論ありますが若い将校らが國を憂いて命を懸けて起こした革命…いやっクーデターとして、いやっ罪として、正しいとか間違っているとかではなくて…」とありますが、国を憂いて命をかけて起こした事が認められるのなら(認めているとしか思えない文面です)、911だってアラブの一部の人達にとっては「正しいとか間違っているとかではなく」「国を憂いて命をかけて起こした」と捉えられるべきものと言われてしまいます。
つまり命を懸けてやりゃあイイってもんじゃないでしょ、と言いたいわけです。
命を懸けりゃぁいいのなら、どんな蛮行でも許される、評価されるものなんですかね。
お叱りの主と当事者とでどんなやり取りがあったのか知りませんが、「文面にて謝罪を希望します」なんてあって、おいおいスゴい世の中だね、はっつぁん、とご隠居は驚くのですよ。
やり取りがわからないので、何を謝罪するのを求めているかわかりませんが、おわびの文面からすると「お叱り」に対して謝罪しているようだ。
という事はなにかい、くまさん、個人があるいは団体の表現に、気に入らないと一個人が(「日本人」としてではなく)抗議すると、いちいち謝らなければいけない時代になったというのかい?
イヤな渡世だねえ。
茶化すのは庶民の特権じゃないのかい?
226事件を茶化して何が悪いんだい?
911事件を茶化して何が悪いんだい?
こういう場合に、被害者の方々や遺族の感情を代弁するような事をいう人がいますが、誰だいアンタと言いたくなる。
勝手に代弁していいのかい?
「成り代わって」など大きな勘違いじゃないのかい。
そう言いたくなるのですよ。
なぜなら、こういう場合にだけ代弁し、つまり自分の意見を言いたい時にだけ代弁して、あたかもそれが当事者のためだと言いたげに、実は自分の意見を言いたいために「利用」している事が多々あるのですから。
そう言いたくなるほど、世間に対してみんなは実は無関心であるからです。
無関心な事ばかりなのに、こと自分の意見を言いたくなった時にだけ、さも世の中の事を考えているんだと「言論の自由」を持ち出すことが多くなって来ています。
もちろんそういう考えも自由に発表していいのが現代のイイところですから、どんどんやり取りすればイイ。
でもそれはあくまでも個人どうしとして。
あたかも何かを背負って代表して意見を言っているんだという「勘違い」はやめて欲しい。
自分が気に入らないのなら、自分が気に入らないからだと「自覚」を持ってください。
そして世の中には自分とは違う感覚の、違う意見の人達がいるという事もふまえて欲しい。
つまり自分の意見だけが押し通せるものでないと言う事です。
でも叱られたら素直に謝っておくのも渡世というものだね。
謝って、また繰り返す。
これが渡世というものだよ。
それが許せんという世の中はろくなもんじゃありませんよ。
でも個人的には(日本人としてではなく)、「2B26事件」はいけませんね。
語呂が良くない。
「2B6事件」でしょ、やはり。
この件に関しての「日本人として」の抗議は受け付けません。
「一個人」としてのご意見は歓迎しますが。
先日渡部さとるさんの日記の12月2日つけで「おわび」が掲載されていた。
なんでも先に行なわれたグループ展のタイトル「2B26事件」が「226事件」を茶化したタイトルであると「お叱り」を受けての対応のようだ。
その対応をとやかく言う筋合いのものではない。
勝手に検索して「お叱り」の主はここだろうと想像するのだが、12月1日の記事に該当しそうなものがある。
その対応をとやかく言う筋合いのものではない。
でもさぁ、なんで茶化しちゃぁイケナイのさ?
不謹慎?
つまりそれは「贅沢は(素)敵だ!」ってヤツ?
「これだけ昭和の偉人、若者が亡くなっている事件を安易に名ずる神経が日本人としてわからんのです。」っていうのが、日本人としてではなく、一個人としてわからんのです。
どうしてこういう場合に「日本人」が出てきて、さも自分の意見が日本人として、つまり日本人を代表してとにおわせる文言で発言するのでしょう。
これは「日本人」として筆者がわからんのではなく、「一個人」としてわからんだけでしょ。
226事件が起こった昭和ではなく、平成の日本では武力や暴力による弾圧は「民主主義」として許されていませんので、平成に生きる者としての感情では当時と捉え方が異なるのは当然でしょう。
それを当時の風潮を持ち出してケシカランというのも、時代の捉え方として再考するべきものもあろうかと思います。
お叱りの主の文面には「賛否両論ありますが若い将校らが國を憂いて命を懸けて起こした革命…いやっクーデターとして、いやっ罪として、正しいとか間違っているとかではなくて…」とありますが、国を憂いて命をかけて起こした事が認められるのなら(認めているとしか思えない文面です)、911だってアラブの一部の人達にとっては「正しいとか間違っているとかではなく」「国を憂いて命をかけて起こした」と捉えられるべきものと言われてしまいます。
つまり命を懸けてやりゃあイイってもんじゃないでしょ、と言いたいわけです。
命を懸けりゃぁいいのなら、どんな蛮行でも許される、評価されるものなんですかね。
お叱りの主と当事者とでどんなやり取りがあったのか知りませんが、「文面にて謝罪を希望します」なんてあって、おいおいスゴい世の中だね、はっつぁん、とご隠居は驚くのですよ。
やり取りがわからないので、何を謝罪するのを求めているかわかりませんが、おわびの文面からすると「お叱り」に対して謝罪しているようだ。
という事はなにかい、くまさん、個人があるいは団体の表現に、気に入らないと一個人が(「日本人」としてではなく)抗議すると、いちいち謝らなければいけない時代になったというのかい?
イヤな渡世だねえ。
茶化すのは庶民の特権じゃないのかい?
226事件を茶化して何が悪いんだい?
911事件を茶化して何が悪いんだい?
こういう場合に、被害者の方々や遺族の感情を代弁するような事をいう人がいますが、誰だいアンタと言いたくなる。
勝手に代弁していいのかい?
「成り代わって」など大きな勘違いじゃないのかい。
そう言いたくなるのですよ。
なぜなら、こういう場合にだけ代弁し、つまり自分の意見を言いたい時にだけ代弁して、あたかもそれが当事者のためだと言いたげに、実は自分の意見を言いたいために「利用」している事が多々あるのですから。
そう言いたくなるほど、世間に対してみんなは実は無関心であるからです。
無関心な事ばかりなのに、こと自分の意見を言いたくなった時にだけ、さも世の中の事を考えているんだと「言論の自由」を持ち出すことが多くなって来ています。
もちろんそういう考えも自由に発表していいのが現代のイイところですから、どんどんやり取りすればイイ。
でもそれはあくまでも個人どうしとして。
あたかも何かを背負って代表して意見を言っているんだという「勘違い」はやめて欲しい。
自分が気に入らないのなら、自分が気に入らないからだと「自覚」を持ってください。
そして世の中には自分とは違う感覚の、違う意見の人達がいるという事もふまえて欲しい。
つまり自分の意見だけが押し通せるものでないと言う事です。
でも叱られたら素直に謝っておくのも渡世というものだね。
謝って、また繰り返す。
これが渡世というものだよ。
それが許せんという世の中はろくなもんじゃありませんよ。
でも個人的には(日本人としてではなく)、「2B26事件」はいけませんね。
語呂が良くない。
「2B6事件」でしょ、やはり。
この件に関しての「日本人として」の抗議は受け付けません。
「一個人」としてのご意見は歓迎しますが。