Nonsection Radical

撮影と本の空間

経歴社会

2016年03月23日 | Weblog
なんやかんや言いながら、結局のところは”肩書き”でしか人を判断していないという自己確認の騒ぎだったわけよ。
とっくに消費された話題だから今更なんだけど、今だからこっそり言うというのもなかなかオツなもので。
はじめはなんのこっちゃ?と思った話だったけど、結果的に今もなんのこっちゃ?っと思っているんだけど。
メディアに出てくる人って、実際にあったことのある、話したことのある、付き合ったことのあるって事はほとんどなくて、あくまでもメディア上での認識でしかないのは言うまでもない事で、あくまでも”そこ”での姿を各自が勝手に判断しているだけなわけですよ。
清純派とか、エリートとか、軟派、硬派、真面目、不真面目、みんな確かめようのないイメージでしかないわけでしょ。
そういうのを普通は「虚像」というんだけど、目の前にいる実物以外はだいたい想像の産物でしかないわけですよ。
そのイメージ作りを意図して行うのが「タレント」なんだろうけど、メディア上では、そういうキャラを楽しんで消費することで時間を潰すわけじゃないですか。
だからそういうキャラが実像であろうと虚像であろうと関係ないわけで、そういう”役割”を担ってメディアで活動しているというのが大事なことなんでしょ。
ところがどういうわけか、昨今では虚像と実像の区別がつかないのか、あるいは区別があってはならないと思っているのか、すべてがホントであらねばならないとでも思っているような言動をする人がいるわけですよ。
それじゃあ、チャンバラ映画に出ている人は、実生活でもチョンマゲを結っているはずだと思っているのかね。
それと同程度の話なんだけど、ホントは。
でも、そういう話の対岸には、実は受け手であるみんなは、どのような考えで人を判断しているのかという”価値観”がひそんでいるんだと思う。
学歴、経歴、イメージが嘘だった!と騒ぐ理由がわからないんだよ。
だってそれはメディアの中でイメージを作るためのエッセンスでしかないわけですよ。
でもそれに騒ぐということは、そのエッセンスで人を判断しているということなんでしょ。
それが判断するに値する”データ”なんですかね。
だって、そもそもメディアに乗っていること自体がバーチャルなことで、そこにどんな”真実”があるというんですか。
確かめようもないし、確かめること自体が無意味なことでしょ。
無意味なことに箔付けするように経歴や学歴、職歴をつけ加えても、それは単なるエッセンスでしかないし、事実そのエッセンスを楽しんでいるわけでしょ。
そう思っていたんだけど、中にはマジでメディアの中の肩書きに間違いはない、性格に間違いはない、言動に間違いはないと思っている人がいるみたいなんで呆れたわけですよ。
そしてその裏には強烈な経歴社会への信仰が見え隠れしているということなんですよね。



安浦町の街並み 1
神奈川県横須賀市安浦町2,3丁目
撮影 2015年9月5日 土曜日 12時35分
コメント (2)
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