序破急

片足棺桶に突っ込みながら劇団芝居屋を主宰している爺です。
主に芝居、時々暮らしの中の出来事を書きます。

劇団芝居屋的演技論その二・小芝居のススメ

2011-04-23 14:37:21 | 演劇

今日の朝は激しい雨音で目が覚めました。

この雨音を聞いて最初に頭に思い浮かんだのは、福島原発によって汚染された地区の土壌にこの雨がどんな影響を与えるのだろうか、ということでした。

改めて一日も早い復旧を祈らずにはいられません。

さて、私は私のできる事を一生懸命にやろうと思います。

今回は「小芝居のススメ」ということで書いて行きたいと思います。

江戸時代、お上からの許可(官許)を貰った場所で行う緞帳芝居を大芝居といい、その大芝居に対し官許の劇場以外(主に河原や宮地)で行う小規模な芝居を小芝居といいました。

本来は大芝居小芝居とはその芝居の規模や背景によって分けられていた言葉です。

しかし近代演劇の発生と共にこの二つの言葉は別な意味合いをもって語られる様になりました。

ここでいう近代演劇とは新劇と呼ばれているものです。

大芝居は大袈裟なという意味合いを持ち、小芝居は無意味なとか余計なとか言われる意味合いを持ちました。

これらの物言いは新劇の勃興期に、打破しなければならない古いものの象徴として、長い間日本の芝居の中枢を担ってきた歌舞伎を有り方を否定するところから出たものです。

新劇にとって歌舞伎の様に江戸時代の庶民の娯楽に根ざした舞台表現は唾棄すべきものでした。

これらの考えの元にあるのはテーマ主義という考え方でした。

伝えたいテーマの元に舞台上のあらゆるものを結集し、そのテーマに仕える。

俳優の大見得を切る大芝居や、テーマと関係のない役柄の充実を図る個人的工夫の小芝居は必要のないものとして取り上げられ、今現在でも否定的な意味合いで使われています。

しかしその後演劇界も60年代の演劇改革によって舞台表現の多様化が促進され、新劇のテーマ至上主義の表現方法は急速にその輝きをなくして現在に至っているわけです。

そしてその変化の中で生まれた演劇用語は、検証、整理される事無く、口だてで伝えられ使い手の都合のいい様に捻じ曲げられて現在も使われています。

まあその件に関してはまた別な枠で書きたいと思います。

さて小芝居のススメです。

テーマ主義の演劇に於いて否定的な意味合いで言われる小芝居は、テーマと関係のない役柄の充実を図る個人的工夫なのです。

劇団芝居屋が目指す「覗かれる人生芝居」の確立にとって、この個人的な工夫というものが重要なキーになります。

その工夫の深浅は問わず、そこにこだわりを持つ事は自分の役を舞台上で生きている人間として造形する為には大切な事です。

役者が自分の役を創造するためには自分に与えられた台詞だけではなく、台本全体を読み込み、自分の役をとりまく状況を理解し、他の役との人間の関係を把握して、そこから得られた情報を活用して、自分の役の台本に書かれていない過去を創り出し、自分の役の欲求を創りださなければなりません。

厳密に言えばこれらの事が果たされて、はじめてその役としての感情を込めた台詞を発することができると私は思っています。

うだうだと書いてきましたが、平たく言えば皆さんは自分自身を考えてみればいいのです。

当然の事ですが、皆さんにはこれまで育って来た人生があります。そしてその人生の中で形作られた人格があり、思考があり、嗜好があります。

一つの局面に直面した時、あなたは自分の思考とそれに伴う感情によって言葉を発するのです。

その言葉は「だいたい」「こんな感じ」の場所からは発しないのです。

あなた自身の思いの中から発されるのです。

そして全ての人が自分自身のこだわりを持っています。

その様に役との関係の中で自分自身を特定する為のこだわりを探り出し、表現となって現れるのが小芝居といわれるものです。

小芝居こそが自分の役を深める為の重要な要素になる事は歴然とした事実なのです。


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