湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

1.17なんて言っているうちは!?

2014年01月21日 | 詩歌・歳時記

今日は1月17日、 朝から夜遅くまでテレビでは神戸の震災から19年の特番で大騒ぎである。

耐えられるだけの短い時間をテレビで見ていて、つくづくと思った。 日本人ってやつはどいつも

こいつも乳離れしないガキだってことだ。 人は死ぬために生まれ、そして生きていく生き物で

あろう。 何故に死んだことを「肯定」できないのであろうか。 

 

京都の祇園や亀岡で、暴走車に殺された人たちの遺族が何年経っても、現場にきてロウソクを

灯し、写真を飾っている。 迷わず成仏できていないのは、その遺族たちである。

あまつさえ損害賠償を求めての訴訟騒ぎだ。 それこそ死者を冒涜するものである。

ひとは死んだ瞬間に「無」になるのだ。 霊とかタマシイなんぞ・・・・あるはずがないのである。

   

神戸の町のあの火の海を忘れない・・・・次の世代に語りつがなければいけない・・・・。

馬鹿を言ってるんじゃないぜ。 辛いこと、悲しいことはすべて忘れなければ、 重荷に耐えられず

生きていけないのが人間というものではないか? 

          生きるとは死ぬことなりし凍てし山

ボクにも幼くして死んだ姉と弟がいる。 深夜、顔も知らず亡くなった姉はともかく、 二つ違いの

弟を思い起こすとき、 この世の不条理に涙が次々と湧いてとまらない。 また、2年になる母の

死をいまだ受け止めかね、幾夜母を呼び涙にくれたであろう。 けれども肉親の死への涙は、

人知れず流すものである。 そして、孤独のうちに重く切なく・・・・人生を悟るべきものである。

    

ボランティアかなんだか知らないが、 自己満足の竹筒のなかのロウソクの火を灯し、 くだらない

他人の「イベント」にのこのこ出てきて、 父と妹があの震災で・・・・。 テレビ・カメラの前で

恥も外聞もありゃぁーしない。 泣いて・・・祈りを捧げるのならば、 たった一人でするべきだろう。

悲しみを孤独の身で乗り越えることすら出来ぬ・・・・ガキ呼ばわりする所以である。

          やがて死ぬいのち愛しき冬の星

ましてや19年の歳月が流れすぎたのだ。 肉親の死をおのれ個人の悲しみから昇華させて、

客観的な人生の定義へと心の深処に築くことこそ、ひとのなしとげねばならぬことであるはずだ。

それが先に死んでいった肉親の、せつない戒めであり、哀切の思いであろう。

     

本来、ひとが死ぬと言うことは、めでたい祝うべきことであるはずである。

それが例え、事故や災害であろうとも・・・・「死ねる!!」 その歓びは限りがないものである。

 「ナント言うことを!!」 と目をむくお方は、なんというオシアワセなこの世に生きておられることで

ありましょうか。親鸞さんの爪の垢でも、お飲みください。

群れることでしか 「悲しみ」 を乗り越えられぬこの国の民は、まったくのガキの集まりだ。

 

息子への遺言。 俺が死んだら・・・・葬式だけはするな。 お経の代わりに西郷さんのヒット・

パレードで皆んなで楽しい酒で酔いしれてください。 ようやく死ねたこのボクを祝福しておくれ、

そういうことさ。

 


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