湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

写植

2011年01月24日 | 詩歌・歳時記

写真植字機をご存知か?略して、写植と言う。
平版印刷(オフセット印刷)の工程のなかでの花形だった昔もあった。
少し大きめの鉄の机を想像されたい。一番下に光源ランプがあり、真っ直ぐ上に光が伸びている。
その上に文字盤がレールに載せてあり、自由自在に軽く動くようになっている。
4ミリ四方の文字がびっしり並んだフィルムを、2枚のガラス板で挟んだものだ。

その上に7級から100級までの、縮小、拡大のレンズが夫々筒に仕込まれ、円形に並んでいる。
任意の文字をレンズ筒の真下にもってくる。レバーで固定し、押し下げればシャッターが切れて、
一番上に置かれてある、暗箱(マガジン・ボックス)のなかの印画紙に印字される仕組みだ。
割り付け通りに組み上げた後、暗箱を外し暗室で現像するのである。現像液にそっと浸す。
やがて、たった今打ち上げた文字たちが、赤い電球に照らされた現像液に浮かび上がってくる。
何年経験しても、胸がときめく一瞬だ。停止液につけ、定着液に入れ、やがて流水にさらし、乾燥。

                         
写植の単位は、1歯といい4分の1ミリである。文字の大きさとも連動しており、
16級の文字といえば4ミリ四方である。今でも例えば20ミリの巾を頭に思い浮かべる時、
80級と思うとすぐ長さが想像できる。何ミリよりも、何歯で考える方が心身に染み付いているのだ。

写植を覚えたのは、長浜の印刷会社で、20の頃だった。写植の初期で、全てが手動式である。
鉄骨むき出しの武骨な相棒であった。20歯分移動する時は、歯車を20山刻んでゆく。
カチカチカチという音が、懐かしくも切なく耳の奥から消えない。

文字と密着した最適の仕事の訳だが、それで将来生活していく訳には参らぬ。
作詞家への夢に邁進せねばならぬ。2年ほどで上京した。

新聞の求人欄に、写植オペレーター募集が載らぬ日はなかった。まったくの売り手市場だった。
ほとんどが3行の、狭いスペースに簡略化した言葉が詰め込んである。委細面談である。
半年ほど勤め、金が貯まれば会社を辞めた。次の日から、街を彷徨い詩のネタを探し歩いた。
或いは朝、出勤地獄のサラリーマンを横目に、がら空きの下りに乗って、奥多摩や相模湖へ。
野山を歩き、とにかく詩を創る日々であったのだ。

金がなくなれば、やおら新聞を広げる。小さな写植屋を何軒渡り歩いただろうか。

そのうち2人目の子供が生まれて、作詞家どころではなくなった。

夢をあきらめ、独立。写植の事務所を開いたのだった。
その頃には写植機も格段の進歩をとげていて、コンピュータを組み込んだ、自動式である。
アナログからディジタルへの転換には、相当悩んだ。それまでの知識をすべて捨て、勉強した。
昼も夜もなく、土日さえ考える暇なく、写植に没頭したのだった。


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (れんげ)
2011-01-24 07:51:56
ああ、懐かしいお話です。
そうでしたね。
写植が花形だった時代がありましたね。
うちは、祖父の時代に活版印刷を始め、
職人さんが一つ一つ文字を拾っていたので、
「これからは写植の時代だ」と言った
夫の言葉は、今も耳に残っています。
長女が小学校に上がった年、養成所に通いました。
活版の文字も味がありますが、
写植の文字は、きれいでしたね。
返信する

コメントを投稿