写真植字機をご存知か?略して、写植と言う。
平版印刷(オフセット印刷)の工程のなかでの花形だった昔もあった。
少し大きめの鉄の机を想像されたい。一番下に光源ランプがあり、真っ直ぐ上に光が伸びている。
その上に文字盤がレールに載せてあり、自由自在に軽く動くようになっている。
4ミリ四方の文字がびっしり並んだフィルムを、2枚のガラス板で挟んだものだ。
その上に7級から100級までの、縮小、拡大のレンズが夫々筒に仕込まれ、円形に並んでいる。
任意の文字をレンズ筒の真下にもってくる。レバーで固定し、押し下げればシャッターが切れて、
一番上に置かれてある、暗箱(マガジン・ボックス)のなかの印画紙に印字される仕組みだ。
割り付け通りに組み上げた後、暗箱を外し暗室で現像するのである。現像液にそっと浸す。
やがて、たった今打ち上げた文字たちが、赤い電球に照らされた現像液に浮かび上がってくる。
何年経験しても、胸がときめく一瞬だ。停止液につけ、定着液に入れ、やがて流水にさらし、乾燥。
写植の単位は、1歯といい4分の1ミリである。文字の大きさとも連動しており、
16級の文字といえば4ミリ四方である。今でも例えば20ミリの巾を頭に思い浮かべる時、
80級と思うとすぐ長さが想像できる。何ミリよりも、何歯で考える方が心身に染み付いているのだ。
写植を覚えたのは、長浜の印刷会社で、20の頃だった。写植の初期で、全てが手動式である。
鉄骨むき出しの武骨な相棒であった。20歯分移動する時は、歯車を20山刻んでゆく。
カチカチカチという音が、懐かしくも切なく耳の奥から消えない。
文字と密着した最適の仕事の訳だが、それで将来生活していく訳には参らぬ。
作詞家への夢に邁進せねばならぬ。2年ほどで上京した。
新聞の求人欄に、写植オペレーター募集が載らぬ日はなかった。まったくの売り手市場だった。
ほとんどが3行の、狭いスペースに簡略化した言葉が詰め込んである。委細面談である。
半年ほど勤め、金が貯まれば会社を辞めた。次の日から、街を彷徨い詩のネタを探し歩いた。
或いは朝、出勤地獄のサラリーマンを横目に、がら空きの下りに乗って、奥多摩や相模湖へ。
野山を歩き、とにかく詩を創る日々であったのだ。
金がなくなれば、やおら新聞を広げる。小さな写植屋を何軒渡り歩いただろうか。
そのうち2人目の子供が生まれて、作詞家どころではなくなった。
夢をあきらめ、独立。写植の事務所を開いたのだった。
その頃には写植機も格段の進歩をとげていて、コンピュータを組み込んだ、自動式である。
アナログからディジタルへの転換には、相当悩んだ。それまでの知識をすべて捨て、勉強した。
昼も夜もなく、土日さえ考える暇なく、写植に没頭したのだった。
そうでしたね。
写植が花形だった時代がありましたね。
うちは、祖父の時代に活版印刷を始め、
職人さんが一つ一つ文字を拾っていたので、
「これからは写植の時代だ」と言った
夫の言葉は、今も耳に残っています。
長女が小学校に上がった年、養成所に通いました。
活版の文字も味がありますが、
写植の文字は、きれいでしたね。