起きあがる菊ほのかなり水のあと 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』より「起きあがる菊ほのかなり水のあと」。「草庵雨」と前詞を置き、詠んでいる。貞享四年、芭蕉四四歳。
華女 「草庵雨」というのは、大雨が降って床下浸水したということなのかしらね。
句郎 ここ深川芭蕉庵は「江東のゼロメートル地帯と言われていた地域にあったからね。江戸の昔からちょっと雨が降ると床下に水が押し寄せて来ていた所だったんだろうね。だからその当時から貧しい庶民が住み着いた所だっだたんだろうな。
華女 まさに下町だったのね。芭蕉は泥の中から起き上がる菊を見て、植物の生命力に感動したのよね。
句郎 野性味あふれた野菊じゃないのかな。大輪の利くではなく、小さな野菊の蕾が花開こうとしていた。そこに目を留めた芭蕉は「菊ほのかなり」と表現したんじゃないかと思うんだ。
華女 ちょっとした自然の変化に目を留め、そこに生きる力のようなものを発見していたね。
句郎 俳句はほんとにちょっとしたことに気が付くか、どうかということなのかな。最近、「今そこに居たかと思ふ炬燵かな」という寺田寅彦の句を読んだ。わかるじゃない。ほんのちょっとしたことなんだ。そこに気が付くか、どうか、そこに句があるとね。
華女 「菊ほのかなり」という楚辞に刺激され、思い出した句があるのよ。
句郎 何という句なの?
華女 「白藤や揺りやみしかばうすみどり」芝不器男の句よ。二六歳で亡くなった俳人よ。風に吹かれる藤の色の変化を発見した繊細な句よ。そう芭蕉と同じ繊細な感覚よ。
句郎 風に揺れ、白く見えた藤が動かなくなってみると花束を付けている蔓の緑が見えて、薄緑に見えるということなのかな。
華女 そうよ。ちょっとしたことに気付くということが繊細ということよ。
句郎 繊細さと言う点では不器雄も芭蕉も同じだけれども、生命力、バイタリティーが違うね。確かに不器雄は芭蕉の精神のようなものを継承しているとはいえるが、生き生きした力のようなものが芭蕉にはあるが、不器雄には残念ながらないかな。
華女 芭蕉の句は塵芥の中から起き上がる力よね。謂わば庶民というか、民衆の生命力かしら、でも不器雄の句には上品さがあるのよ。洗練された美しさのようなものがあるでしょ。句は洗練されているのよ。
句郎 そうかもしれないな。上品なものには、もしかしたら弱さのようなものがあるのかもしれない。
華女 芭蕉出現以来、近代ら現代にいたるまでいろいろな経過があったかと思うけれども、句自体が洗練されてきているということは言えるのじゃないかしら。
句郎 そうなんだろうね。だから芭蕉に帰って俳句の精神を学びなおしていくことがまた新しい俳句を創造することになるのじゃないのかな。
華女 そうなのよ。だから今でも芭蕉の俳句集などが出版されるということは、買ってくれる人がいるからでしょ。それらの人は芭蕉の俳句を読み、芭蕉の精神を絶えず学びなおしているのじゃないのかしら。また若者もまた読み始めるかもよ。