醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  597号  鶏頭の十四五本もありぬべし(子規)  白井一道

2017-12-20 11:20:12 | 日記

 鶏頭の十四五本もありぬべし  子規



句郎 子規の病中吟に「鶏頭の十四五本もありぬべし」があるでしょ。
華女 昭和20年代、この句の評価をめぐって「鶏頭論争」のあった句ね。
句郎 そう。私もどこがいいのか、全然分からなかった。こんなものが俳句なのかと、思っていた。
華女 七、八本じゃ、句にならないのとか、言う論争よね。
句郎 こんなつまらない論争をしているから俳句は「第二芸術」だ。習い事だとか言われるだと思っていた。
華女 「第二芸術」とは、何なの。
句郎、俳句は菊人形となんら変わることのないものだとフランス文学者の桑原武夫が論文、『第二芸術論』で述べたんだ。
華女 それで俳句は第一級の芸術ではなく、第二の芸術だということなのね。
句郎 そうなんだ。しかし第一級の芸術に値する俳句もあれば、第二級の芸術にも値しないような文学作品だってあるからね。
華女 そうよね。でも桑原武夫が言ったことは、俳句という文学ジャンルそのものが第二芸術だと述べているのじゃないの。
句郎 確かにそうなんだ。だから芸術に値する俳句がある以上、俳句は第二芸術だという主張は間違っていると私は考えているんだ。
華女 私もそう思うわ。
句郎 何でもない言葉の端くれのような俳句「鶏頭の十四五本もありぬべし」、立派な俳句なんだと感じるようになったんだ。
華女 どうしてそのように感じるようになったの。
句郎 山口誓子が、1949年『俳句の復活』の中で述べている。「子規が、鶏頭の十四五本もありぬべし、と詠んだとき、自己の”生の深処”に触れたのである」。この言葉には説得力があるなと感じたんだ。近所の子供たちが元気に遊ぶ声がしたとき、子供の声って、いいなと感じる時があるでしょ。それと同じなのかな。
華女 あぁー、そういうことなのね。
句郎 日常の何でもない言葉がある時、詩的言葉として胸に響くことがあるんじゃないのかなと感じたんだ。
華女 「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」ね。同じ子規の句よね。
句郎 日常の言葉が詩になるんだということを子規は発見したんだと思う。
華女 言葉が通じたと実感した瞬間なのかもしれないわ。
句郎 そうなのかもしれないよ。日本の茶人が「一井戸、二楽、三唐津」なんて言うじゃない。名品の茶碗だよね。その名品の茶碗、一級品の茶碗は朝鮮高麗朝下の一般庶民が日常生活に用いていた茶碗みたいだからね。毎日飯茶碗に使っていた陶器が一級品の芸術作品になっている。
華女 凄いことね。井戸茶碗を使っていた朝鮮の庶民は何でもないものとして使っていたのよね。凄い職人さんが当時の朝鮮にはいたのね。
句郎 私たちの身の回りには宝が転がっているのかもしれないね。ただそれに気づかないだけなのかもしれないよ。
華女 外国人が日本に来て日本人にとっては何でもない景色が素晴らしい景色だと言われて初めて気付くということがあるじゃない。そういう事といっしょかもしれないわ。
句郎 何でもない事に気付くことが発見なのかも。