京まではまだ半空や雪の雲 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』より「句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』より「京まではまだ半空や雪の雲」。「飛鳥井雅章公の此宿にとまらせ給ひて、都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてゝ、と詠じ給ひけるを、自かゝせたまひて、たまはりけるよしをかたるに」と前詞を書き、この句を詠んでいる。貞享四年、芭蕉四四歳。
華女 「飛鳥井雅章」とは、どんな人だったのかしら。
句郎 「けふも猶都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて」という歌を詠んだ公家、歌人のようだ。
華女 「都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてゝ」とは、「飛鳥井雅章公」の歌の一部なのね。
句郎、今日もなお、京が、都が遠くなる。鳴海潟はるけき海を中に隔てて、と京を懐かしんで飛鳥井公は歌を詠んだ。
華女 「けふも」は「今日」と「京」を掛けているのね。また「なるみがた」の「遠くなる」の「なる」と「なるみがた」の「なる」とを掛けた技巧的な歌なのね。
句郎 京から東に下った飛鳥井公に対して、芭蕉は江戸から都へ上ったので飛鳥井公の歌に返した句が「京まではまだ半空や雪の雲」だったのではないのかな。
華女 「鳴海潟はるけき海を中に隔てて」とあるでしょ。「はるけき海を中にへだてて」とは、どういうことなのかしら。
句郎 京から江戸日本橋に向かう東海道五三次では桑名宿から熱田宿までは七里の渡し。海に隔てられていたんだ。熱田宿の次が鳴海宿だから、海を隔てて鳴海宿まで飛鳥井公は来ていたということになる。
華女 当時は桑名から木曽川を下り、伊勢湾を船で渡り、熱田宿で上がり、鳴海宿に向かったということなのね。
句郎 芭蕉は鳴海宿の酒蔵下里知足邸に四、五日滞在していたようだ。この間に歌仙を巻いた発句が「京まではまだ半空や雪の雲」であった。
華女 鳴海と言ったら、名古屋よね。江戸からだったら、三分の二以上は歩いて来ているわよ。それでも「中空」という気持ちだったのよね。酒蔵では美味しいお酒をいただいたでしよう。俳諧を楽しむ優雅な旅立ったのね。今では考えられないような贅沢な旅を芭蕉はしていたんだと思うわ。
句郎 「雲の雪」という下五にいろいろな思いが積もっているという感じするね。
華女 富士登山をしたことあるでしょ。八合目からが登山本番よ。それからよ。辛いのは。頑張った者にのみ登頂の喜びがあるのよ。だから「京まではまだ半空や」という気持ちはよく分かるわ。
句郎 上った者にしかわからない感覚なのかもしれないよね。マラソンだって三五キロからが本格的に辛い走りなんだという話を経験者から聞いたことがある。
華女 何でもそうなのかもしれないわ。
句郎 将棋だって、優勢な将棋を勝ち切るのが大変だという話を聞くよ。最後の詰めが厳しいようだからね。油断することなく、まだ中空だという気持ちがなければ、京まで歩き通すことはできなかったんじゃないのかな。
華女 「雪の雲」という言葉に芭蕉の決意のようなあると思うのよ。どんな苦しいことがあってもと。