いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
句郎 今日は芭蕉の句ではなく、正岡子規の有名な句、「句郎 今日は芭蕉の句ではなく、正岡子規の有名な句、「いくたびも雪の深さを尋ねけり」について感じたことを話し合ってみたいんだ。
華女 この句は中学生の国語の教科書に載っているらしいわよ。
句郎 名句として知られているということなんだろうね。先日、NHK俳句を見ていたら、選者の今井聖氏の「名句検証」のコーナーでこの句を取り上げていた。
華女 どんなことを述べていたの。
句郎 子規が病を得て寝ていたということを知らなければ、理解できない句だと述べていた。そういう点でこの句は自己完結した句ではないのではないかと述べていた。
華女 そりゃそうよね。子規は当時不治の病、結核に罹病し、脊椎カリエスに侵され若くして亡くなったのよね。
句郎、自宅で寝ていたということを知って初めてこの句の意味が理解できるんだからね。
華女 そういう点では、芭蕉の句にも前詞なしには何を詠んでいるのか、分からない句がたくさんあるわね。例えば「まづ祝へ梅を心の冬籠り」の句も杜国のことを知らない人にとっては何を詠んでいるのか、理解に苦しむのじゃないかしらね。
句郎 そうだよね。自己完結した句とはいえないと思うね。
華女 句を詠んだだけで意味が通じる句じゃないと文学作品としてはどうかと思うわ。今井氏は子規のどんな句が良いと言っていたのかしら。
句郎 「筆も墨も溲瓶(しびん)も内に秋の蚊帳」。この句がいいと述べていた。それほど有名な句ではないがいい句だと思うというような発言をしていた。尿瓶という言葉は病人だということを読者に分からせる。秋になっても吊りっぱなしなった蚊帳の中に筆も墨も尿瓶もある。
華女 自己完結した句ね。予備知識も前詞もなしに理解することができるわね。確かにこのような句が文学になっている句なのかもしれないわ。
句郎 俳句が文学として認められるためには、句として独立していなければだめだとは思うよね。
華女 文学になるためには人に伝わるということが大事よね。
句郎 予備知識なしにね。
華女 そうよ。でも子規が病を得て寝ていたということを知ると「いくたびも雪の深さを尋ねけり」という子規の気持ちが伝わるのよね。
句郎 「雪の深さを尋ねけり」の「けり」に深い余韻があるのかな。
華女 そうよね。だから名句だといわれているのかもしれないなんて思ってしまうのよ。
句郎 杜国に対して芭蕉が「まづ祝へ」と言っている意味の深さ、人生というものを分かった者でなければ言えないようなことなんだということが分からないものね。
華女 悲嘆に暮れている者に向かって、悲しみを祝えと言う芭蕉はまさに人生の達人だったのね。
句郎 蟄居の現実を知った上で芭蕉は「まづ祝へ」と蟄居の現実を肯定的に受け入れろと言っている。
華女 身分制社会に生きた人間の強さなのかしら。
句郎 どれほど虫けらのように扱われようと人間としての誇りを失うことなく芭蕉は生きた人だったのかもしれないな。