何ごとも招き果てたる薄哉 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「何ごとも招き果てたる薄哉」。貞享年間。「毒海長老、我が草の戸にして身まかり侍るを葬りて」と前詞がある。
華女 「毒海長老」を芭蕉は介護し、亡くなった時に詠んだ追悼句なのかしら。
句郎 芭蕉は放浪の乞食坊主を招き入れ、介護したのかな。
華女 何か、そんな感じがするわね。
句郎 「罷る」とは、もともと「おいとまする」という意味から「参る」という意味に膨らんだようだ。「身罷る」とは、この世を「おいとま」し、極楽へ「参る」というということなんじゃないのかな。
華女 この世の汚れをすべて受け入れてくれている海のような毒海和尚の行きついた果てが河原の枯れすすきということなのかしら。
句郎 何か、『船頭小唄』が思い出されるな。
華女 『船頭小唄』と言えば、
俺は河原の枯れすすき
おなじお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れすすき
死ぬも生きるも ねえお前
水の流れに 何かわろ
俺も お前も 利根川の
船の船頭で 暮らそうよ
枯れた真菰に 照らしてる
潮来出島の お月さん
わたしゃこれから 利根川の
船の船頭で 暮らすのよ
なぜに冷たい 吹く風が
枯れたすすきの 二人ゆえ
熱い涙の 出たときは
汲んでおくれよ お月さん
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れすすき
水を枕に 利根川の
船の船頭で 暮らそうよ
という歌詞なのよね。ちょっと、情緒が違うように思うわ。芭蕉の句は人生に対する観照のような哲学的な言葉のように感じるわ。
句郎 「おふくろ」というのはなにでも受け入れてくれた。だから「おふくろさん」のお腹は膨らじゃったという話を中学生の頃、聞いたことがあったな。
華女 そう、私はその話にちょっと突っかかるものがあるわ。
句郎 そうかな。人の人生とは、社会の制約を自分の意思として受け入れなければ、生きていけないような所があるじゃない。
華女 家族とか、身の回りにいる人々が求めることを受け入れ、努めるということなんじゃないの。
句郎 自分としては嫌だなと思うことであっても、受け入れなきゃならないからね。
華女 そうなのよね。子供は子供として、母は母として、妻として、女として、それぞれ立場によってしなければならないことがあるから身の細るような苦しいことが人生にはあるということなのよね。
句郎 人が生きるとは働くことだからね。働くとは人のためになるために体を動かすということ。人は人のために生きることが実は自分のために生きていると言うことなのかな。
華女 長老と云われる僧侶は人々の苦しみの何事をも招き果て、芒のようになったということでいいのかしら。
句郎 僧侶に限らず、すべての人が生きるということは、与えれた条件の中でその条件を無条件に受け入れることなしには生きていくことができないからね。
華女 芭蕉には哲学的な句もあるのね。