五月雨の降のこしてや光堂 芭蕉
「の」と「が」の違いについて
「五月雨の降のこしてや光堂」。中尊寺の光堂に参拝したときに芭蕉が詠んだ句である。この句を読んだ際にKさんから「五月雨の」の「の」は何ですのと、質問を受けた。上手く説明できないなと、思い黙っていた。黙っていたら話題が移っていった。良かったなと、思ったが気分がすっきりしなかった。
文法的なことは言いたくなかった。文法的なことを言わずに文章の意味を表現したい。こんな気持ちだった。この句の意味は「五月雨が」光堂を「降り残した」。これだけである。これだけでは俳句にならない。。
曽良旅日記によると芭蕉と曽良が中尊寺に参ったのは陰暦の五月十三日である。この日付を太陽暦で換算すると六月二十九日になる。この時期はまさに梅雨の頃である。この梅雨の時期の雨を「五月雨」という。ざぁーざぁー降る雨が五月雨なのだ。この強い風雨にさらされて光堂は金色に輝いていた。きっと光堂には雨を降らせなったに違い。このような解釈がある。また一方には長年にわたる風雨に耐え忍んで光堂は金色に輝いているという解釈があ
る。キーポイントは五月雨にある。ざぁーざぁー降る強い雨だ。この雨「が」光堂を降り残した。これで文章は完結する。これに対してざぁーざぁー降る強い雨「の」降り残した。これでは気持ちがすっきりしない。文章が完結しない。ざぁーざぁー降る強い雨「の」降り残した光堂だ。これで気持ちがすっきりする。文章が完結する。
「五月雨『が』降りのこしてや光堂」と「五月雨『の』降のこしてや光堂」。たった一字しか違わないが「の」の方が感慨が深い。
「が」では俳句にならない。意味は通じても余韻がでない。感慨がでない。なぜなのだろう。
「の」と「が」が表現する役割は同じなのだ。だから「の」を「が」に変えても意味は通じる。問題はなぜこの俳句の場合には「の」の方が感慨が深くなるのだろう。
「五月雨が降りのこした光堂」。「五月雨の降りのこした光堂」。両方とも文章としては問題がない。しかし意味に違いが出てくる。「が」の場合は五月雨が強調されるのに対して「の」
の場合は光堂が強調されている。「の」と「が」では意味合いが異なってくるのだ。芭蕉が表現したかったのは「光堂」なのだから「の」でなければならなかった。
「の」も「が」も文法的には格助詞というそうた。この句の場合、主語を導く役割をしている。そのため入れ替えは可能なのだ。可能ではあるけれども意味合いに違いがでてくるようだ。
「君『が』代」は「君『の』代」とも表現は可能だ。意味も同じだ。けれども「君が代」は「君が代」でなければならない。こう表現しなければ私たちの気持ちはすっきりしない。この場合の「が」と「の」の働きは体言に付いて連体修飾語をつくる役割をしている。この場合も「君が代」の場合は君を強調しているが、「君の代」の場合は代を強調している。だから「君が代」は君・天皇を讃える歌なのだ。天皇を讃える歌でなければならないから「君の代」であってはならない。「君が代」でなければならない。
我々は芭蕉の俳句や紀行文を読み、言葉に対する感覚を磨くことができるように思うのですが、いかかでしようか。