醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  714号  うたがうな潮の花も浦の春(芭蕉)  白井一道

2018-04-28 12:11:38 | 日記


  うたがうな潮の花も浦の春  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「うたがうな潮の花も浦の春」。「二見の図を拝み侍りて」と前書きがある。
華女 「二見の図とは、伊勢二見ケ浦の夫婦岩の絵だと理解していいのかしら。
句郎 誰の絵なのか、分からないが夫婦岩の二見ケ浦のことだと思う。
華女 夫婦岩の二見ケ浦はなぜ有名になったのかしら。
句郎 夫婦岩の間から太陽が昇る。こうして日の出の遥拝所として有名になったんじゃないのかな。
華女 それが降臨する神の依り代となり、夫婦岩の浜は禊の浜、伊勢参りの垢離場(こりば)、心身浄化の聖地になったということね。
句郎 伊勢神宮の成立と共に二見が浦、夫婦岩が参拝者の清めの場所として認められていったのじゃないのかな
華女 江戸時代にお伊勢参りが盛んになったと聞いたことがあるわ。いつごろからだったのかしら。
句郎 芭蕉が生まれた十七世紀の中頃からだったんじゃないのかな。
華女 伊勢神宮には何が祀られているかしら。
句郎 天皇の御先祖様だと信じられている天照大神なんじゃないの。
華女 江戸時代にはそれほど天皇を敬い、崇拝するような信仰が農民や町人にあったとは思えないわ。
句郎 確かに東照大権現を祀る神社は徳川家崇拝として崇敬されていたように思うが天照大神を祀る神宮はそれほどではなかったように思うよね。
華女 それでも江戸時代の中ごろから伊勢参りが盛んになって行ったのは、どうしてなのかしら。
句郎 伊勢神宮の信仰を広める御師が現世利益を説き、暦や豊作祈願、商売繁盛のお札を配布して農村や街々に信仰を広めた結果だと思う。
華女 それで村や町では講を組み、お金を貯金して旅費を作り、代表者が伊勢参りをしたわけね。
句郎 順番に従って伊勢参りをした。この伊勢参りは巡礼のようなものではなく、慰安が目的だった。
華女 商工業が発展した結果、都市や農村に少し余裕が生まれた結果、慰安としての伊勢参りが普及したということね。
句郎 慰安としての伊勢参りが普及していく中で芭蕉は「うたがうな」の句が詠まれているんだ。
華女 分かるわ。「うたがうな」ということは、疑っている人が当時、多くいたということよね。
句郎 そうなんだろう。疑っちゃ、ご利益はないよ。間違いなく、ご利益はあると信じなくちゃ、だめだよと、述べているのが、この句なんじゃないのかな。
華女 伊勢参りが徐々に普及し始めたころに「うたがうな」の句は詠まれているということなのね。
句郎 信仰というのは、フェティシズムだから。思い込みがなくちゃ、信仰は成り立たないからな。
華女 夫婦岩の間から日が昇るように岸に打ち寄せ砕け散る波しぶきにも春が来ている。神は間違いなく私たちを見守ってくれている。このことを疑ってはならないものなんだと芭蕉は詠んでいるということね。
句郎 芭蕉にはこれといった深い信仰心があったようには思えないが、神や仏を敬う気持ちは持ち続けていたように思うんだ。その気持ちを詠んでいる。