オオムラサキという蝶の幼虫はエゾエノキを食草にしているそうで、オオムラサキを調べているという方の話から青森県南地方でのエゾエノキの巨木を教えてもらいました。
どんな木なのか見に行ってみると、これが見事な三頭木で、こんなに近くで巡り会えた意外性にちょっと感動してしまいました。
平野部の街中にあって、よく手入れもされています。
夏に一度見に来ているのですが、葉の落ちた今の時期にもう一度見たいと思っていました。
どんな木なのか見に行ってみると、これが見事な三頭木で、こんなに近くで巡り会えた意外性にちょっと感動してしまいました。
平野部の街中にあって、よく手入れもされています。
夏に一度見に来ているのですが、葉の落ちた今の時期にもう一度見たいと思っていました。
二年前の暮に川倉賽の河原へ行った際に見た山王鳥居。
祭神は地蔵尊のはずでしたが、青森県では観音堂に鳥居があるのはごく普通の事なので特に深く考えずにいました。
山王信仰は比叡山の土地の神を祭る神社として、延暦寺よりもその起源は古いのではないかと言われていて、元は「比叡(ひえ)社」の名称から、文字を変え読みも変わって現在の日吉(ひよし)神社に至っています。
平安時代から続く神仏習合によって、寺と社の違いはあっても天台宗の影響を山王信仰は色濃く受けています。
祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)と三輪山の大物主神、聖真子は山王三聖といわれ、「三」の数字が重要なキーワードになっています。
これは天台宗における真理として「三諦」があり
・空諦(くうてい) 一切の存在は空である真理
・仮諦(けてい) 一切存在は空であるが因縁に従って現象している真理
・中諦(ちゅうてい) 空諦、仮諦に偏らず高次に統合されている真理
この「三諦」を心に観ずることを「一心三観」といい、「山王」の文字はどちらも一心三観をあらわしていて、「山」も「王」も三本の線とそれを繋ぐ一本の線でできているからといわれています。
考えてみれば三つ又の木は「山」の字そのものとも言えるわけで、文字の持つ霊性を強く感じていた時代には文字の形を象る事に意味があったのかもしれません。
江戸時代に多かった修験者は明治の修験道廃止令によって仏道や神道へと鞍替えしていきました。
廃止令前の山伏17万とも言われていて、人口3千万の時代にはかなりのボリュームです。
今熊神社の歴史には修験道本山派の青森県内における歴史が描かれています。
修験道本山派とは京都聖護院を頂点とする修験道の派閥で、青森県南では新郷村にある寺を頂点としてヒエラルキーが出来ており、院号授与のために京都まで出向いたとの記載もあります。
修験道にはおおまかに二つの系統があり、
天台宗(比叡山) ≒ 京都聖護院 = 本山派修験道
真言宗(高野山) ≒ 吉野金峯山寺 = 当山派修験道
青森県内ではこの二つの派閥がまだら模様のように勢力を持っていたと考えられますが、明治期の信仰破壊によって曖昧な状況になっいます。
しかし本山派はそれなりの信心者数を持っていたと言えますし、『山王権現』とも言われていた日枝神社の祭神、そしてそれに関係する本山派修験道の教義の中に、三の数字を特に神聖視するエッセンスがあったとしてもおかしくはありません。
もしくは、より古くからある三つ又の木の言い伝えと融合していたとしてもおかしくはないとも思います。
山王権現(付随する「三」の神聖性)≒大山咋神≒山の神
このように並べていくと、山の神と三つ又の木の言い伝えも同じつながりのようにも思えてきます。
祭神は地蔵尊のはずでしたが、青森県では観音堂に鳥居があるのはごく普通の事なので特に深く考えずにいました。
山王信仰は比叡山の土地の神を祭る神社として、延暦寺よりもその起源は古いのではないかと言われていて、元は「比叡(ひえ)社」の名称から、文字を変え読みも変わって現在の日吉(ひよし)神社に至っています。
平安時代から続く神仏習合によって、寺と社の違いはあっても天台宗の影響を山王信仰は色濃く受けています。
祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)と三輪山の大物主神、聖真子は山王三聖といわれ、「三」の数字が重要なキーワードになっています。
これは天台宗における真理として「三諦」があり
・空諦(くうてい) 一切の存在は空である真理
・仮諦(けてい) 一切存在は空であるが因縁に従って現象している真理
・中諦(ちゅうてい) 空諦、仮諦に偏らず高次に統合されている真理
この「三諦」を心に観ずることを「一心三観」といい、「山王」の文字はどちらも一心三観をあらわしていて、「山」も「王」も三本の線とそれを繋ぐ一本の線でできているからといわれています。
考えてみれば三つ又の木は「山」の字そのものとも言えるわけで、文字の持つ霊性を強く感じていた時代には文字の形を象る事に意味があったのかもしれません。
江戸時代に多かった修験者は明治の修験道廃止令によって仏道や神道へと鞍替えしていきました。
廃止令前の山伏17万とも言われていて、人口3千万の時代にはかなりのボリュームです。
今熊神社の歴史には修験道本山派の青森県内における歴史が描かれています。
修験道本山派とは京都聖護院を頂点とする修験道の派閥で、青森県南では新郷村にある寺を頂点としてヒエラルキーが出来ており、院号授与のために京都まで出向いたとの記載もあります。
修験道にはおおまかに二つの系統があり、
天台宗(比叡山) ≒ 京都聖護院 = 本山派修験道
真言宗(高野山) ≒ 吉野金峯山寺 = 当山派修験道
青森県内ではこの二つの派閥がまだら模様のように勢力を持っていたと考えられますが、明治期の信仰破壊によって曖昧な状況になっいます。
しかし本山派はそれなりの信心者数を持っていたと言えますし、『山王権現』とも言われていた日枝神社の祭神、そしてそれに関係する本山派修験道の教義の中に、三の数字を特に神聖視するエッセンスがあったとしてもおかしくはありません。
もしくは、より古くからある三つ又の木の言い伝えと融合していたとしてもおかしくはないとも思います。
山王権現(付随する「三」の神聖性)≒大山咋神≒山の神
このように並べていくと、山の神と三つ又の木の言い伝えも同じつながりのようにも思えてきます。
数年前の夏に山形を旅行して、ちょうどヤマユリの季節でした。
車を走らせる道路わきの其処此処に大きな白い花が咲いていて、自生のヤマユリをはじめて見た感動がありました。
先日、花巻・遠野方面への旅行で、同じようにヤマユリの咲く風景を見ました。
美しい花なので、多分近くの山に自生していたものを移植したのでしょう、山あいの農家の庭先に植えられて強い香りを放っていました。
植物図鑑などでは自生地は青森県より南との記載になっていますが、青森県内での自生を見た事がありません。
私の小さな行動範囲の中にヤマユリの自生地が無かっただけで、どこかに咲いている場所があるのかどうか。
地図を見ると、ヤマユリの北限は岩手青森県境・秋田青森県境の山地にさえぎられて、概ね盛岡以南ではないかとも思うのですが。
代りにオニユリは至る所に生えていて、ちょうど今の時期はオレンジ色の花が見頃です。
車を走らせる道路わきの其処此処に大きな白い花が咲いていて、自生のヤマユリをはじめて見た感動がありました。
先日、花巻・遠野方面への旅行で、同じようにヤマユリの咲く風景を見ました。
美しい花なので、多分近くの山に自生していたものを移植したのでしょう、山あいの農家の庭先に植えられて強い香りを放っていました。
植物図鑑などでは自生地は青森県より南との記載になっていますが、青森県内での自生を見た事がありません。
私の小さな行動範囲の中にヤマユリの自生地が無かっただけで、どこかに咲いている場所があるのかどうか。
地図を見ると、ヤマユリの北限は岩手青森県境・秋田青森県境の山地にさえぎられて、概ね盛岡以南ではないかとも思うのですが。
代りにオニユリは至る所に生えていて、ちょうど今の時期はオレンジ色の花が見頃です。
盛岡市にある三石神社は、鬼が手形を押した岩として「岩手」の名称の由来になっているそうです。
この三ツ石は「鬼」が「ここには来ない」と約束した石で、東北巨木調査研究会の提唱する「三頭木」の、神が宿るという言い伝えとは逆になっています。
「三」の数と信仰の関係として興味深い。
鬼とは何かについては多くの考察がありますが、被征服者の信仰する神を鬼として排除の対象にした、とも言われていますし、東北のエミシを征服していった大和政権の侵攻を表現しているのかもしれない、などと考えていました。
盛岡といえば、坂上田村麻呂とアテルイの攻防の地で、「鬼」はアテルイその人なのか、その一族が信仰していた神なのか。
この三ツ石は「鬼」が「ここには来ない」と約束した石で、東北巨木調査研究会の提唱する「三頭木」の、神が宿るという言い伝えとは逆になっています。
「三」の数と信仰の関係として興味深い。
鬼とは何かについては多くの考察がありますが、被征服者の信仰する神を鬼として排除の対象にした、とも言われていますし、東北のエミシを征服していった大和政権の侵攻を表現しているのかもしれない、などと考えていました。
盛岡といえば、坂上田村麻呂とアテルイの攻防の地で、「鬼」はアテルイその人なのか、その一族が信仰していた神なのか。
強い怒りは胃に来ます。二日ほど胃の調子が悪くて久しぶりに怒りを感じています。
原因はある場所での「発達障害は治る」という話でした。
発達障害についての理解はだいぶ進んでいて、生まれつきの特性であり一人一人の状態もそれぞれであるという事は、ずいぶんと知られるようになってきています。
それでも時々「治る」と言う人もいるのです。
特に保護者の不安をあおって何がしかの商売に結び付ける場合には怒りを感じます。
保護者は当然ながら不安を抱えた状態で子供と接しているわけで、その不安に付け込むのは害悪でしかない。
「発達障害は治る」というワードが出たらその先は聞くのを止めた方が良いですし、そもそも間違っています。
発達障害は生まれつきのものですが、「発達」の障害であり本人のペースで成長します。それがまたその個人の個性でもあります。
周囲にできる事は、社会に適応できるように、本人の納得する形で、根気よく生活の方法を身に付けさせることだと思っています。
ですから最近の手引きなどには、本人に理解しやすいアドバイスの仕方として図解・紙に文字を書いて提示・分かりやすい指示の言葉等々の開設が出ています。
将来、その子供が社会と折り合いをつけて生きていくのに最低限必要な事をロジックとして身に付ければいいのだと、今はそう思うようになりました。
それよりも、元々本人も生き辛さを感じているいるのですから、少しでも楽しく生きられるように、私が気を付けていればよかったと後悔しています。
発達障害で特に気を付ける部分は、思春期以降に精神的疾病を発症することです。
本人と周囲の違いだけでも大きなストレスになる他に、学校生活では注意を受ける事も多いでしょうし、いじめなども受けやすい。
親が不安なく、ゆっくり育てられる環境を、自分で作るしかないのですが、特に配慮して作って行くしかないのでしょうね。
原因はある場所での「発達障害は治る」という話でした。
発達障害についての理解はだいぶ進んでいて、生まれつきの特性であり一人一人の状態もそれぞれであるという事は、ずいぶんと知られるようになってきています。
それでも時々「治る」と言う人もいるのです。
特に保護者の不安をあおって何がしかの商売に結び付ける場合には怒りを感じます。
保護者は当然ながら不安を抱えた状態で子供と接しているわけで、その不安に付け込むのは害悪でしかない。
「発達障害は治る」というワードが出たらその先は聞くのを止めた方が良いですし、そもそも間違っています。
発達障害は生まれつきのものですが、「発達」の障害であり本人のペースで成長します。それがまたその個人の個性でもあります。
周囲にできる事は、社会に適応できるように、本人の納得する形で、根気よく生活の方法を身に付けさせることだと思っています。
ですから最近の手引きなどには、本人に理解しやすいアドバイスの仕方として図解・紙に文字を書いて提示・分かりやすい指示の言葉等々の開設が出ています。
将来、その子供が社会と折り合いをつけて生きていくのに最低限必要な事をロジックとして身に付ければいいのだと、今はそう思うようになりました。
それよりも、元々本人も生き辛さを感じているいるのですから、少しでも楽しく生きられるように、私が気を付けていればよかったと後悔しています。
発達障害で特に気を付ける部分は、思春期以降に精神的疾病を発症することです。
本人と周囲の違いだけでも大きなストレスになる他に、学校生活では注意を受ける事も多いでしょうし、いじめなども受けやすい。
親が不安なく、ゆっくり育てられる環境を、自分で作るしかないのですが、特に配慮して作って行くしかないのでしょうね。