以前、ブログに今回の大震災における日本人の倫理観の高さに誇りを感じていると書いた。
よくよく考えてみると、多くの人々が信じている「日本人は昔から礼儀正しくて民度が高い。」という感覚は、時の為政者や「お上」から与えられた(強制された)秩序であったのではないだろうか。ふと、そんなことが頭をよぎった。
アメリカ側の視点から描かれた戦後の日本統治を詳細に述べた、John Dower氏の著作「敗北を抱きしめて」は、日本社会ではタブーとされるところも、きちんと個人名をあげて描かれていている。多くの部分は、私も実際に幼少のころ、祖父や父に聞かされた話と重なるため信憑性も高く資料的価値は高いと感じる。アメリカ側の都合、視点で描かれた部分も散見され、決してすべてに賛同できるわけでないが、これが一般書籍といいう形で、何の制約もなく出版できる日本にはたしかに言論の自由がある。第二次世界大戦での敗戦後、新たな支配者であるアメリカの都合である意味、「与えられた」民主主義、自由のもとで、日本人の礼儀正しさ、民度は保たれてきたように思う。戦後の学校教育は、「日本の敗戦」という厳然とした歴史上の流れもあり、戦前の日本の否定を出発点としているように感じる。このような社会体制のもと、戦後の日本は短期間で経済的に立ち直り、さらに飛躍し、世界の先進国の仲間入りを果たした。そして、いわゆる戦後教育が、日本人特有の寛容さ、礼儀正しさ、民度の高さに関係していることもまた事実であろう。
ニューヨークに暮らして1年半以上が経過した今、日本人が他の国の人間に比べて、「心の底から」礼儀正しく民度の高い民族であるかどうかは、私にはわからなくなってきた。当たり前すぎて恐縮なのであるが、日本人といってもいろいろな方がおられる。こちらで縁があって出会ったひとには、国籍を問わず、礼儀正しく、洗練された尊敬できる方がたくさんおられる。個人的に話してみると、倫理観や価値観は洋の東西を問わず、実はそれほど変わりないことにも気づかされる。きちんとした家庭環境、社会環境で育った人間であれば、他者を尊重するし、礼儀正しいのは当然のことであろう。
今後、日本でも若者を中心に価値観が変わり、周りの目、世間体、お上意識といった、ある種の「抑止力(!?)」が日本社会からなくなっていったときに、これまで「本音と建前」「根回し」によって保たれてきた日本独特の社会秩序はどのように変化をしていくのか、私はいい意味で期待してみたい。
写真は、アッパーストのGeggenheim musium。とても有名な建物だが、意外にも実物を見るのははじめてであった。