二週間ほど前、子供のノートを買いにマンハッタンの日系書店に出かけた。子供が本を見たいというので、ついでに自分も本を見て回った。
福田和也氏の「人間の器量」という本が目に入った。
最近、人の器について思うところがあり、思わず手にとってしまった。帰りに近くの古本屋で、購入して読んでみた。(某書店さんすいません。子供のノートは買ったのでご容赦を。(苦笑)
ごく短時間で読み終えた本書、少々記述内容に深みがかける気がしないわけではないが、本来飛び抜けて博学の筆者ならば、想定される読者層に合わせてあえて内容を意識的に簡潔にしたのだろう。もちろん、個々に出てくる筆者認定の器量人の幾人かには個人的には賛同できない人もいる。そんな各論など筆者にとってはさしたる問題ではないだろう。
人の器量は、高い低い、多い少ないでなく、幅、広がりというようなものではかられるというのは、確かに納得できる。
圧倒的多数の人々が、地位や肩書き、資産の多寡で人をはかっているものの、成功者であるはずのひとに、何とも言えない不快感、不公平感を持つ原因が、そのような成功者に「人としての器量」を感じることができないからではないだろうか。
また、器量の小さい人がリーダーになってしまった場合、そこに集まる、もしくは、リーダーに選ばれるお弟子さん達も同じような類の「小さな」「寄らば大樹」タイプの人たちとなろう。世の中の組織において、器もなければ、世の中をよくするために働くという気概すらない人が一定の割合でリーダーになってしまっていることは、筆者に限らず大小問わず多くの良識ある人々が日々に感じていることであろう。
しかし、もっともはっとさせられるのは、少々枠にはみ出ただけで、社会の蚊帳の外に追いやってしまう、世間こそにこそ器の小さな人間だけを行き残らせてしまう元凶があるという、筆者の主張ではないだろうか。
ここに出てくる幾人かの「器量人」の生涯をみると何とも切ない気分にさせられる。
同じ腫瘍内科医で、分野が違い直接の面識はないが他大学の先生で個人的に密かに「器量人」ではないかと尊敬している方がいる。外部の医師、製薬会社の方の評判は決してよいといは言えないが、ご自身がきっちりと業績をあげておられるだけでなく、臨床面、研究面、海外留学にわたり、たくさんのお弟子さんの面倒をきちんと見ておられる。お弟子さんの何人かから、「とても厳しい」その先生を尊敬していると聞いた。有言実行は伊達ではない。残念ながら、母校の我がグループは、現時点で足元にも及ばないだけでなく、その状況を変えようという機運もなさそうである。水は高いところから低いところに流れるものだからねえ。(by某大先輩医師)
写真はコロンバスサークルのタイムワーナーセンターにて