(前日からの続き)
こういう世の中になってまいりまして、
現実の世の中に目をうつしましても、
なかなか自分の思い通りにならないとか、
自分の欲求することが叶わないとか、
そういう現実ばかりにつき当たって
おりますと、人間というものはだんだん
諦めてしまうようになって、そして、
諦めるところから今度何といいますか、
第一線から身を引いてしまうようになって、
第一線からというのは仕事の場だけ
じゃなく心の部分からいっても、第一線
から身を引いてしまうようになって、
そうしてだんだんだんだん人間の本来の
生命からいうと、その生命が萎びて
しまうような、そういう世界になって
来ている訳であります。
で、萎びきったらもうそこで終わりってな
もんですけれども、萎びきりはしないわけ。
なぜかというとそれは、神様からの生命
でありますから萎びる訳がない訳で
ありまして、萎びる訳がないけれども、
一歩誤れば萎びるかもしれない。
その切り岸のところに立って、危ないところに
立ってる人間の今の状態というものを
神様の方がごらんになってですね、そうして
何をすればいいか、どうすればいいか、
人間を元のとおりにね、人(霊止)にかえす
ためにはどうすればいいか。
そのことをずっとお考えになっていろんな
人を出しました。
私なんか御用に呼ばれてですね、そうして
世界平和の祈りというものを受けて、
この地球世界の浄化というものをですね
仰せつかって、そうしてこの運動というか、
この神様の愛を広める、そのための場所
として私の生命が使われた訳であります。
こういうことを考えておりますとね、人間
というものの可能性の深さということね。
つまり人間の方から、肉体の人間の、
ややこしいですけれども、肉体の我に
おおわれちゃった、我に邪魔されちゃった
肉体人間の意識の方からすると、人間
なんてものは果敢無い(はかない)もんで、
生命が消えちゃったらもうその人は
この世の中にいないわけだし、そこで
どんな働きを今までしていようが何して
いようが評価されていようが、どんなに
財があろうが何があろうが、そこで
断ち切られちゃったら終わりになる
訳ですけれども、そうじゃない。
つまり、生き通しの生命の霊界の方
神界の方から見ますとね、神様の愛
というものは、財力を失わせてあるいは
財力を与えて、だから万歳とかだから
良くなかったとか、ここで人の可能性を
切っちゃうとかそんなもんじゃ
ないんですね。
神様というのはあくまでも、どんなことが
あっても人間を愛し抜く。
愛して赦して赦して赦しっぱなしの生命
なんですね。
あるいは愛しっぱなしの生命なんです。
そうして、その愛というものには尽きる
ことがない。
無限なんですね。
その無限の愛を注がれた人間の本体という
ものを、私たちは、私たちの肉体のこの奥に
持ってる訳です。
そうして実は、この肉体を養っているものの
無限の愛の種をもってる自分自身、本心
なんですね。
だから、それが自分なんだっていうことに
気がついた時の人間の可能性ですよ。
その可能性というものはね、これは無限
なんですね。
これはひたすら天命というものに向かって
走り抜いてゆく生命なんです。
天命というものは、これは一生二生の
もんじゃない。
何十生何百生何千生のものなんですね。
(つづく)
こういう世の中になってまいりまして、
現実の世の中に目をうつしましても、
なかなか自分の思い通りにならないとか、
自分の欲求することが叶わないとか、
そういう現実ばかりにつき当たって
おりますと、人間というものはだんだん
諦めてしまうようになって、そして、
諦めるところから今度何といいますか、
第一線から身を引いてしまうようになって、
第一線からというのは仕事の場だけ
じゃなく心の部分からいっても、第一線
から身を引いてしまうようになって、
そうしてだんだんだんだん人間の本来の
生命からいうと、その生命が萎びて
しまうような、そういう世界になって
来ている訳であります。
で、萎びきったらもうそこで終わりってな
もんですけれども、萎びきりはしないわけ。
なぜかというとそれは、神様からの生命
でありますから萎びる訳がない訳で
ありまして、萎びる訳がないけれども、
一歩誤れば萎びるかもしれない。
その切り岸のところに立って、危ないところに
立ってる人間の今の状態というものを
神様の方がごらんになってですね、そうして
何をすればいいか、どうすればいいか、
人間を元のとおりにね、人(霊止)にかえす
ためにはどうすればいいか。
そのことをずっとお考えになっていろんな
人を出しました。
私なんか御用に呼ばれてですね、そうして
世界平和の祈りというものを受けて、
この地球世界の浄化というものをですね
仰せつかって、そうしてこの運動というか、
この神様の愛を広める、そのための場所
として私の生命が使われた訳であります。
こういうことを考えておりますとね、人間
というものの可能性の深さということね。
つまり人間の方から、肉体の人間の、
ややこしいですけれども、肉体の我に
おおわれちゃった、我に邪魔されちゃった
肉体人間の意識の方からすると、人間
なんてものは果敢無い(はかない)もんで、
生命が消えちゃったらもうその人は
この世の中にいないわけだし、そこで
どんな働きを今までしていようが何して
いようが評価されていようが、どんなに
財があろうが何があろうが、そこで
断ち切られちゃったら終わりになる
訳ですけれども、そうじゃない。
つまり、生き通しの生命の霊界の方
神界の方から見ますとね、神様の愛
というものは、財力を失わせてあるいは
財力を与えて、だから万歳とかだから
良くなかったとか、ここで人の可能性を
切っちゃうとかそんなもんじゃ
ないんですね。
神様というのはあくまでも、どんなことが
あっても人間を愛し抜く。
愛して赦して赦して赦しっぱなしの生命
なんですね。
あるいは愛しっぱなしの生命なんです。
そうして、その愛というものには尽きる
ことがない。
無限なんですね。
その無限の愛を注がれた人間の本体という
ものを、私たちは、私たちの肉体のこの奥に
持ってる訳です。
そうして実は、この肉体を養っているものの
無限の愛の種をもってる自分自身、本心
なんですね。
だから、それが自分なんだっていうことに
気がついた時の人間の可能性ですよ。
その可能性というものはね、これは無限
なんですね。
これはひたすら天命というものに向かって
走り抜いてゆく生命なんです。
天命というものは、これは一生二生の
もんじゃない。
何十生何百生何千生のものなんですね。
(つづく)