(前日からの続き)
この世界は業に満ちておりますけれども、
業というものは善業も悪業もある訳です。
仏教的に言えばね。
そしてそれは自分の想いによって決まる訳
ですよね。
そうするとやっぱり、自分の身から出て
ゆくもの、自分が受けるものというものは、
どっちにもなる。
染まってゆく訳ですね。
で、自分の責任においてというのと、
向こう側の責任において背負わされたもの、
いろいろいろいろあるけれども、とに角
業に満ちた世界であっても、この世界を、
誠実に生ききることによってですよ、つまり、
味わいの深い、人間として人の心のひだまで
感じとれるね、霊的なとか何とかそういうこと
抜きにしても、本当に人間らしい優しさとか
寂しみとか悲しみとか、そういうことが
底深くわかる人、そういうものになってゆく。
そういう人になっていく。
それがまず大事なんですね。
宗教とか何とかってことよりも、そっちの方が
大事なんです。
その一つ一つ、その瞬間瞬間に、本当に悩んで
苦しんで喜んでってことが出来ない人ね、
中途半端に何かこう“神様”ってすがるとか、
誰かに言っちゃうとか、そういうことだと
やっぱり真剣にこの世の中を渡ってゆくって
ことが出来ないんですね。
だから、悩みきる、悲しみきるということ。
悲しみきったら今度は喜びの方へ上っていくしか
ないんですよね。
(つづく)
この世界は業に満ちておりますけれども、
業というものは善業も悪業もある訳です。
仏教的に言えばね。
そしてそれは自分の想いによって決まる訳
ですよね。
そうするとやっぱり、自分の身から出て
ゆくもの、自分が受けるものというものは、
どっちにもなる。
染まってゆく訳ですね。
で、自分の責任においてというのと、
向こう側の責任において背負わされたもの、
いろいろいろいろあるけれども、とに角
業に満ちた世界であっても、この世界を、
誠実に生ききることによってですよ、つまり、
味わいの深い、人間として人の心のひだまで
感じとれるね、霊的なとか何とかそういうこと
抜きにしても、本当に人間らしい優しさとか
寂しみとか悲しみとか、そういうことが
底深くわかる人、そういうものになってゆく。
そういう人になっていく。
それがまず大事なんですね。
宗教とか何とかってことよりも、そっちの方が
大事なんです。
その一つ一つ、その瞬間瞬間に、本当に悩んで
苦しんで喜んでってことが出来ない人ね、
中途半端に何かこう“神様”ってすがるとか、
誰かに言っちゃうとか、そういうことだと
やっぱり真剣にこの世の中を渡ってゆくって
ことが出来ないんですね。
だから、悩みきる、悲しみきるということ。
悲しみきったら今度は喜びの方へ上っていくしか
ないんですよね。
(つづく)