宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

ありのままの世界(5)

2023-08-21 07:13:48 | 祈り
       (前日からの続き)
光というものは闇を被います。
被いますけれど、やっぱり一旦暗いところの
その気持ちに一回沈んで、底の底の気持ち
というものを人間として味わって、だから、
光を今度あの人のためにまわりのために
祈らせて下さいってことを言えるわけでしょ。
その経験がなければ、我々はこの光を
分け与えるといいますか、自分が光である
ことを自覚をして、そうして世界人類が
平和でありますようにというこの祈りの
運動をですよ、世界中に広めてゆくという、
このことはなかなか出来ないんですね。

人間が光の子であるならばね、神様からの
光の一筋であるならば、そこでもう何も迷う
ことなくそのまま行けばいいじゃないか
という人がある。
確かにそうなんです。
そこに行けば苦労がなかったわけ。
だけども今この地球のこの世の中に生きてる
我々の肉体というものを、肉体によって
養われている生命というものを、やっぱり
愛しんでやらなければいけない。
今の自分のありのままの姿というものを
認めてやらないと、一挙に光のところに
行ったら、それこそそれはもう気死しちゃう
訳ですよね。
で、やっぱりだめになっちゃう。
その辺の所は向こうの世界はようく
分かってるんですね。

だから、ちょっとずつでいい訳です。
ちょっとずつでいいけれども、と同時に
神界は、最速度で何とかできないかという
ことで、世界人類が平和でありますように
という世界平和の祈りを私に与えてね、
私の生命を使ってこの教えを広めさせてる
訳ですから、だから、このエレベーターに
乗ればいい訳ですよね。
エレベーターに乗って、そうして自分を
素直にして、自分を見る、まわりを見る。
そうして、ありのままで生きてく。
その事が自分の人生を深くし、まわりを
愛深くみることになり、自分自身を充実させる
ことにもなる。
精神性だけじゃいけませんよ。
現実の泥まみれになるという経験もやっぱり
守護霊さん守護神さんから与えられるもの
なんですよね。
          (つづく)

ありのままの世界(4)

2023-08-20 10:14:24 | 祈り
      (前日からの続き)
この世界は業に満ちておりますけれども、
業というものは善業も悪業もある訳です。
仏教的に言えばね。
そしてそれは自分の想いによって決まる訳
ですよね。
そうするとやっぱり、自分の身から出て
ゆくもの、自分が受けるものというものは、
どっちにもなる。
染まってゆく訳ですね。
で、自分の責任においてというのと、
向こう側の責任において背負わされたもの、
いろいろいろいろあるけれども、とに角
業に満ちた世界であっても、この世界を、
誠実に生ききることによってですよ、つまり、
味わいの深い、人間として人の心のひだまで
感じとれるね、霊的なとか何とかそういうこと
抜きにしても、本当に人間らしい優しさとか
寂しみとか悲しみとか、そういうことが
底深くわかる人、そういうものになってゆく。
そういう人になっていく。
それがまず大事なんですね。

宗教とか何とかってことよりも、そっちの方が
大事なんです。
その一つ一つ、その瞬間瞬間に、本当に悩んで
苦しんで喜んでってことが出来ない人ね、
中途半端に何かこう“神様”ってすがるとか、
誰かに言っちゃうとか、そういうことだと
やっぱり真剣にこの世の中を渡ってゆくって
ことが出来ないんですね。
だから、悩みきる、悲しみきるということ。
悲しみきったら今度は喜びの方へ上っていくしか
ないんですよね。 
           (つづく) 

ありのままの世界(3)

2023-08-19 08:42:55 | 祈り
      (前日からの続き)
肉体をおいて向こうの世界に移るんである
にしろ、往相ということがすんなりゆく人
ゆかない人ね。
それは死ぬことだけじゃなくって、生き方
にしろ、デコボコの中を行かなきゃ
なんない人、あるいは真っすぐ行って
真っすぐ行ききったと思えるところから
ポーンと落ちてしまう人、いろんな苦労
といいますか、修行といいますか、そういう
ことをさせられて、人間というものは、
一通りの道じゃない二通り三通りの道を
あるいは十通り百通りでも、その人によって
違う色合いの道を皆歩かされてゆく訳です。
そうして、生きることの大変さというものを
味わってゆく。
だけども、それはただ苦を引き受ける訳じゃ
ないんだね。
ただ悲しいということを引き受ける訳じゃない。
               (つづく)

ありのままの世界(2)

2023-08-18 07:14:17 | 祈り
      (前日からの続き)
仏教にしたっていろんな宗派がありますね。
キリスト教にしてもありますね。
釈迦の教えというのは本来一つなんですよね。
本来一つというのは、どっから入っても同じ
という意味じゃありませんよ。
つまり、釈迦が悟って、菩提樹の下で悟って、
そして37日間ね、これはものすごく
自分にとっては味わいの深いもんだけれども、
これを一般の世間の人たちに喋べっちゃったら、
これは分からないんじゃないだろうかと悩んで、
そしてこれはやっぱり自分一人だけの悟りの
内容にしておこうというのをですよ、梵天
というインドの神様が出てきてね、三度
この世の中の世界の人たちのために、釈迦の
悟ったあの内容をどうしたって広めて欲しい、
口から出して欲しい。
そうすることによって皆救われてゆくんだ
ということをいう。

梵天というのはインドの最高神ですから、その
インドの最高神が、三度釈迦のところへ来て
頼んだということは、一つの大きな人間世界へ
光明が降りる転換になってる訳ですね。
つまり、福音というものがね、キリスト教的に
言えば、一人のものではなくなってゆくと。
喜びごとというものが一人のものではなくなって
ゆく。

その喜びごとというのはこの場合何かといえば、
自分の肉体を満足させるだけのもんじゃない。
気持ちを満足させるもんじゃない。
それだけのもんじゃないんですよ。
つまりそれは、自分の魂、霊体ですよね。
奥の体、そういうものを本当に納得させて
喜ばせて、その魂が打ち震えるほどの喜びを
実感させて、そうして、本当に何でここに
我々人間が生きてるのか、どうして人間という
ものは年を重ねて老いてゆくのか、なぜ死な
なきゃならないのか、ということをすべての
深淵な教えというものは説いていってる訳です。
そして、死というものを突き詰めて考えている
訳ですね。
私などは、死というものは隣に移るようなもんだ
というのは分かっていますけれども、それでも
なかなかね。
皆さんの質問を聞いたりしていると、やっぱり
死ぬということは大変なことです。
               (つづく)

ありのままの世界(1)

2023-08-17 07:33:04 | 祈り
この世の中の過ぎ行きというものを眺めて
おりますと、いろいろな喜びやら悲しみやら、
いろんなことがあります。
なかでも生まれるという事と死ぬという事、
これは本当に人間の一大事だなあということが、
これは皆様が誰もが感じておられることでは
ないかと思いますが。

生まれるということに関しては、人間という
ものは誰も疑問をさしはさまない訳ですね。
誕生する、人の生命が新たに生まれてくる
ことに対する喜びといいますか、それを迎える
喜びといいますか、これはもう等しく皆が
同じ想いで新しいものを迎える訳ですね。
ところが、死ぬということですね。
肉体から離れていくということについては、
これはもう不安で不安で、恐怖で恐怖で。
この世の中のすべての芸術やら宗教やら、
人間に関わってく想いのものというのは、
この人間の死というものに対する一つの明確な
答が欲しくって、それでいろいろなものが
生まれているといっても差し支えない程ですね。
            (つづく)