森友学園問題で、「教育勅語」の意味が再び問われています。私の周囲でも「教育勅語は普遍的な道徳を説いているから良い」と稲田防衛大臣みたいなことを言う人がたまにいます。こういう人はどういう頭の構造をしているのか不思議です。
私が高校3年生の時に愛読していた『自伝的戦後史』(羽仁五郎著 講談社文庫)に、こんな一節がありました。教育勅語が、いよいよ国会の決議で廃止されようとしていた昭和23年(6月19日に衆参両院の決議で正式に廃止)に、中学校の数学の教師と羽仁五郎氏はこんな会話を交わしたそうです(今、手元に同書がないのでうろ覚えで再現します)。
数学の先生:「教育勅語には夫婦仲良くとかよいことも書かれているのに廃止になるのはおかしいと思います」
羽仁五郎氏:「あなたは数学の先生ですよね。ではこういうのはどうですか?『朕思うに三角形の内角の和は180°である』」
数学の先生:「いや、それは違うでしょう」
羽仁五郎氏:「同じことですよ」
三角形の内角の和が180°であるのは公理で、「朕」すなわち天皇陛下が決めても決めなくても普遍的な事実です。道徳だって同じことではないかという趣旨です。
天皇陛下が、夫婦は仲良くせよというから仲良くするのでしょうか?もし天皇陛下が「夫婦喧嘩をしなさい」といったら夫婦喧嘩をするのでしょうか?たぶん大部分の人は内心では「それは違う」と思うのではないでしょうか。 「それは違う」と思うのは、夫婦仲良くということは普遍的な道徳で、別に「偉い人がいうから、そうする」という訳ではないと、多くの人が内心では思っているからではないかと思うのです。
この問題は、もっと深刻な問題をはらんでいます。「夫婦仲良く」することが誰か偉い人に言われないと、「夫婦仲良く」できないのだとするならば、それはその人の自発的な道徳にはならないだろうということです。偉い人に言われなければ「夫婦仲良く」できないということになってしまいます。
戦後の出来事は、それを正に実証した歴史なのではなかいと私は思います。(続く)