ただ個人的な釣行日誌

すみずみまで読んでください

フィリピンに行く

2020年03月04日 22時41分59秒 | フィリピン
前回のエントリで、超忙しいと書いたばかりなのに、家内と安くフィリピンに行く算段を、飲んでいい気分になりながらしていたら、LCCでいいチケットがあるよという話になり、まあ一週間くらいなら取引先も大目に見るさという、軽いノリで決定した、約三年ぶりの、帰省の付き添いである。

チケットを手配したのは、たしか一月中だったと思うが、それからこの新型コロナが拡大してきて、このまま事態が悪化すると渡航も危ないのではないかと思われたが、どうやらフィリピンは危なくなく、日本が危ないという空気になってきたため、成田における滞在時間を極力少なくして飛行機に乗ろうということで、渡航計画を進めた。

出発

2月24日(月)早朝、燕を発ち、成田に向かう。

空港では、マスクをしている人が多くいた。が、していない人もいた。私の見た感じでは、白人はマスクをしていない傾向があった。

いつも利用するカフェで朝食を、ハイネケンを飲みながらとり、飛行機に乗り込んだ。

格安航空のため、搭乗口が、異常に遠かった。成田空港ってでかいんですね。

格安と言っているが、べらぼうには安くないセブパシフィックである。不味い機内食が省かれているだけ、気が利いているとは言えよう。



いつもはマニラに降り立つのだが、このLLCはなんと、家内の実家からそう遠くないクラークに降りるのである。

迎えの車に乗り込み、一時間とちょいで、オロンガポに着いた。凄くいいっす。

プールに行く

今回はなぜか海へは行かず、プールに二軒行った。





うっかり腰を痛めてしまい、折角備わっているジップラインをやらなかった。

帰りに、バターンの、大東亜戦争を記念する施設に寄ろうということになり、向かった。

サマット山という山である。遠くからも、その巨大な十字架が見える、なんか嫌な感じがする山である。

到着すると、五時を回っていたため、博物館は閉館、雄大な眺望を眺めたり、モニュメント類を写真に収めたりした。

どうやら旧日本軍に降伏し、尚且つ捕虜として不当な扱いを受け(たのだろうか)、頭にきたため、その怨念を形にしたらしい。

アメリカの白人が、日本人への人種差別的怨念から何を言おうと、不思議ではないが、フィリピン人までそこに乗っかって、キリスト教の施設を作っちゃったんだね。誰のお金でか知らないけど。

(「やっぱり白人のほうが偉いんだ。白人についていこう」なんてさ)

帰るとき、そこのトイレで用を足したが、手を洗おうとして、手洗い洗剤を手に取り、蛇口をひねったら、全く水が出て来なかった。

手がベタベタじゃん。

バターン死の行軍における渇きの苦しみを体験するツアーかと思いました。





後日、いつも通りサムズピッツァに行き、約一週間の滞在を終えて帰国した。




バターンの追悼廟についての考察

我々はよく「ウォーギルトプログラム」に則って歴史教育を受けて来たといわれるわけであり、日本国内においてもあの戦争は日本が悪かったと信じて疑わない者が多数いるわけである。また、日本軍が活動した国々の中で日本軍を賛美する国から完全否定する国まで、豊かなバリエーションが生まれるのは、誰かの意図によるプロパガンダが大きいということに違いない。

私の見解によれば、日本とアメリカの衝突は、もう、神の決めたことであり、不可避な運命としか言いようがない。イギリスや共産党が黒幕なんだろうが、彼らの活躍のせいで戦争の規模が大きくなり、ガチで人類史上例のない横綱相撲になったわけである。

だいたいさあ、兵糧が尽きるまで籠城して、尚且つマラリア罹患者が多数出たうえで、これまた糧秣乏しい敵軍に降伏なんかしてんじゃねえ!オメーら自業自得じゃン!というふうに思われるのが癪なため、これを宣伝に使い、国民に憎悪を抱かせた、という感じにしかとれませんな。リーダーはマニラをオープンにするとさっさと魚雷艇かなんかで逃げ出すしさ。

その、被害に遭われた(と自称する)国々(フィリピンとアメリカ)の子孫と縁あって親戚となり、尚且つ、死んだ祖母の田上町の実家に行くと、仏壇の横の長押の上には、南方に出征し戦死した祖母の兄弟の、軍服を着た遺影が並んでいるわけであり、私の祖父も召集されたが帰ってきてよかったね的な、こういった状況下にある私が、約二十年前家内の実家にいたとき、近所の者どもと酒を飲んでいて、ある奴が、「Your grandfather killed my grandfather!」と、酔った勢いか何か知らないが、言いだし、こういうヤクザの言いがかりより質の悪い呼びかけに、どう答えればよいのかという課題が残るわけである。

ついでに、今思い出したのだが、私が一等陸士で大型免許を取って帰ってきてすぐ、106ミリの砲車(ジープ)の運転を命じられて関山まで行ったとき、N階堂士長(当時)が、何を言いだすかと思ったら、「オメーらみたいな若い奴が運転するからクラッチが減る」だってさ。真顔で。

私は初めて運転してるんだから、クラッチ減らしたのオメさん達らろがね、って感じなわけであるが、いやはや、田舎者の思い込みというのは・・・

(あんなクソ重い砲を積んで、山なんか走ってたら、クラッチの減り早いだろう・・・)

新型コロナについて

今回、2月24日に日本を発ったとき、クルーズ船の感染者も多かったため、フィリピンに着いたあと、コロナの感染地域から来た君たち大丈夫か、といった声もでた。

しかし、3月2日に燕に帰着し、7日の夕方、ある新年会に出席すると、私がフィリピンに行ってたことが、ラインのグループトークに上がっていたため、コロナ大丈夫か的な声をかけられた。

君たちねえ!人をウイルスやばい菌扱いするもんじゃないぞ。

ついでに思い出したが、且つて私に創価学会員だとか、また別の者はキリスト教かい?だとか、言われたことがあるが、
もっとひどいのが、私の苗字に金の字が入っていることから、朝鮮系か、と言われたことまであった。2件も。

分類作業ご苦労さんって感じですね。

まあとにかく、言いがかりをつける恥知らずには、そのうち天罰が下るんじゃないかと思います。

良い旅でした。





フィリピンに行く

2017年01月22日 00時50分13秒 | フィリピン
あけましておめでとうございます。

昨年は何かと忙しい一年でした。皆様、とくに私とつるんで沖に出られる方々には私と同様に忙しかったハズです。

私的には、子供が国立大学に入学したり、本業の忙しさがMaxになるなど、自分の努力とはほぼ無関係に絶好調となり、おまけにクリスマス前のフライトで、フィリピンに三年ぶりに行けるなど、予期せぬ出来事が起きてしまった。

フィリピン旅行

仕事がめちゃめちゃ忙しいのに年末年始に二週間も休むため、帰国した後が怖い。しかし家内がたてたスケジュールで、新潟空港から飛び立った。期間は12月22日より1月6日までである。

いわゆる年末年始を海外で過ごす人になってしまった。福岡空港で国際線に乗り継ぎ、マニラに降り立ったわけだが、今回は、年のせいか、あまりウキウキ感がない。たぶん親父が死んで、自分の立ち位置がカチッと定まったからに違いない。

最近感動もなければ動揺も不安もないのである。あるのは会社の借金くらいか。

いつも通りの旅で、クーラーの効いた部屋で読書(も最近しなくなったが)などして時間があっという間に過ぎていった。

すこし遠出をして、宿に泊まった。きれいな入り江が見えるところだった。


浅そうな入り江で撮影。

帰国後は案の定仕事が山になっていました。

あとは特に書くこともない。

今年もよろしくお願いします。


またフィリピンに行く

2011年06月07日 23時06分29秒 | フィリピン
もう当分行かねえぞ、と固く心に決めていたフィリピン旅行に、あっさりとまた行ってしまった。

なんだかんだ言いながら毎年行っているここ数年である。知り合いのフィリピン関係者で、こんなことをやっている家庭は無い。

大震災で大変なこの状況で、こういう贅沢をして良いのだろうか。

まあ東電幹部の贅沢な暮らしに比ぶれば、われ等が遊蕩などささやかなものよ。

しかし、大真面目にこの辺でフィリピンに行くのは一区切りつけたい。


旅行日程

まず、家内を5月22日に成田へ送る。先に帰すのである。以前は私も仕事において責任が無かったし、子供も幼かったのでベロリ二週間同行出来た。

しかし今はもう子供も学校の勉強がだんだん難しくなってきたし、私も取引先に気をもませるのが心苦しいから、一週間が限度ですな。一日おまけして8日間とした。

私と子供は5月27日に出発した。

フィリピンに着いて

すぐ次の日、家内の兄さんの一周忌の法要に参列する。



僧侶は来ず、熱心なクリスチャンの方々が執り行う。チャーチグループの活動家だと思うが、この光景、ちょっと見だといわゆるハウスチャーチみたいなちょっと異端っぽい雰囲気だ。

しかし、祈る気持ちを否定するつもりは全く無い。とにかく成仏していることを願う。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

おじさんのいる田舎に行く

毎回行っている田舎「ナマタカン」であるが、今回フィリピン渡航に一区切り着け、当分行かない決意を固める意味でここに思い出の画像を残したい。

約10年前に購入したわれらの田んぼ20000平米は、以来あまりインベストメントがリターンしないようであるが、まあそんなつもりで取得した農地ではないし、値下がりさえしなければ良い。
(円高なのでじゅうぶん値下がりしてますな)



これはティラピアの養殖池だ。ほかに雷魚、鯰もいる。



農業機械をあまり使わないこの国では貴重な動力である。



水路で泳げるのである。日本では考えられない光景だ。めだかもいっぱいいる。







私の好きな風景をカメラに納めてきた。



まだ建設中のレジャー施設でバーベキューをやる。



MAX'S RESTAURANTにて。





エクストリームリー・エクスプレッソにて。

無事帰国

2010年01月31日 13時49分30秒 | フィリピン
またフィリピンに行ってしまった。

1月23日出国し、30日、先に行っていた家内と子供を連れ帰国した。

一年前に行ったばかりなので、久しぶり感の乏しい無感動な旅であった。

いつものサンミゲールを飲み、いつものつまみを食べ、いつもの雑魚を釣る。ただそれだけ。

出発日

22日(金)夜、燕を出る。

また、ハイパードライブ状態の高速に突入、湯沢までのろのろ運転だった。

国境の長いトンネルを抜けると一面の、雪の少ない世界だったのは、一週間前と同じ。

(道中省略)

フィリピンに着くと、あまり暑くないので、意外だった。しかし、昔2月に行ったとき夜にとても寒かったので、日本人にはこの時季の渡航がおすすめだ。夏は、出来れば避けた方が良い。

梅雨時から夏にかけて、大雨、洪水、それに起因する渋滞、飛行機の乗り遅れ(自分の経験から言っている)、デング熱など、忌まわしいことがたくさんある。

気をつけてください。

特に書くこともないんだけれども、いつもどおり適当に、行くところに行き、食べるものを食べ、飲むものを飲み、泳ぐものを泳ぎ、針にオキアミをつけ、釣るもの(雑魚)をつり、買うものを買い(いわゆるそういうものを買うのではなく)、帰国した次第である。

近年、旅がパターン化し、マンネリ化しており、以前のエントリでも書いているように、とにかく無感動病に冒された、肥満中年オヤジの、定期的巡回になってしまっている。

今回、決断をし、次回の帰省は三年後、時期はずらし、クリスマス、ということにした。

これなら久しぶり且つ大感動間違いなし。みんながお祭り気分で盛り上がり、家内も子供もわいわい騒ぐなか、一人バンカーに乗り、静かに釣る、なんてのもいいだろう。おっと、感動を避けているようですな、これでは。

ただ唯一特筆すべきである行動は、まあ言ってみれば無意味且つ大たわけな散財の紹介に過ぎないのだが、SBMA内の観光施設の充実ぶりを垣間見たくらいのメリットは、あった(かな~)。

おそらく韓国勢の進出で盛り上がるスービック湾岸地域に、さらにお金を落とさせようとさまざまな施設が、訪れるたびに出来ているといった感じである。

誰に教えられたのか、家内が強く希望するため、仕方なく一泊だけ、ホテルに泊まることになった。

自宅も広い自室にエアコン、バルコニーまでついていて快適なのに、この期に及んでホテルに泊まるとは、まったく女は非合理的な趣味性向だなと思った。

泊まったのは、ビスタ・マリナ・ホテルというところである。

安い。というか、日本のホテルが高い!サービスが悪いくせに高い!のである。

ここ、スイートなのに一万くらいしかかからないのである。ビジネスホテルより安いではないか。
(しかし、家がすぐそこなので、家に帰ったほうがいいような気が・・・)

海に自由に泳ぎに行け、プールで塩抜き(船外機か!)し、着替えて夜は遊びに行ける。