ごく個人的な話しですが、20代の頃はよく旅をしました。
ヨーロッパ、アメリカ、アジア圏など、公演で訪れた場所ではいくつか印象的な
経験をしましたが、期間や目的を限定しない一人旅はもっと贅沢で、出会いや発見が
たくさんありました。
私にとって最も印象的だった場所は、意外にも日本にありました。
20代の半ば、まだ進むべき道が漠然としていて、自分の中に渦巻いている
エネルギーと周囲の状況がまったく一致しない、ちぐはぐな状態にありました。
たまたま父の地元が熊本だったため、同行したのち、足を延ばして沖縄に行こうと
思いたちました。南国のなんともいえないゆっくりとした時間と、どんな人でも受け入れ
る嬉しくなるような包容力、その対極にある、歴史の悲劇と闇の力。
いつしかその土地に魅せられ、何度も通うようになりました。
旅は沖縄本島にとどまらず、その後、久高島、宮古島、石垣島、西表島、竹富島、
といった小さな島々を巡ることになります。
水平線の向こうに横たわる島々を転々と移動しながら色々な人たちと出会い、また
独りの時間を持つことで、これまで無意識に自分のなかで蓄積してきた感情が、
時とともに徐々に解きほぐされていきました。
そうして最後に辿りついた場所は最南端の島、波照間島でした。
平べったく続く島の陸地が突然途切れる場所、最南端の断崖絶壁に立ち、眼下に
拡がる波をじーっと見つめていると、さまざまな気づきがやってきたのです。
飛沫を上げながら表面に刻まれる小さな波の山々が、その下のちいさなうねりに飲み
込まれてかたちを失う様子。そのうねりもまた、より大きくゆったりとした波のうねり
によって姿を変え、さらに海の底からやってくる大きなうねりによって全体の動きが
絶えず変化させられる様子。それらひとつひとつを合わせた経験の総体を私たちは
「波」と呼んでいて、同時にどんな小さな「波」も全体の波と密接に関係しあっている
ということ…。
その様子を見ながら、いつしか私は涙を流していました。
そこで私ははじめて、普段ため込んでいた感情を自覚し、開放することができたのです。
ダンスやピラティスといった身体技法に携わっていると、”身体のこえを聴く”という
言い方をよく耳にします。それは、「これまでずっと声を上げていた感覚があるんだ」と
いうことに、あらためて気づいてあげることを意味します。
小さな声(=感覚)への気づきは「全体」に影響を及ぼし、「全体」を活性化させる
こともあるでしょう。一方これまで支配的だった大きな声(=感覚)はいつしか小さな声に
姿を変えて、再び相互に浸透していきます。
そうやってひとつの身体という経験を織り込んでいくのです。
少なくともそう信じることで、色々なものごとを肯定的に受け止められるようになりました。
それが島の旅で教わった大事な秘密、でもありました。
ヨーロッパ、アメリカ、アジア圏など、公演で訪れた場所ではいくつか印象的な
経験をしましたが、期間や目的を限定しない一人旅はもっと贅沢で、出会いや発見が
たくさんありました。
私にとって最も印象的だった場所は、意外にも日本にありました。
20代の半ば、まだ進むべき道が漠然としていて、自分の中に渦巻いている
エネルギーと周囲の状況がまったく一致しない、ちぐはぐな状態にありました。
たまたま父の地元が熊本だったため、同行したのち、足を延ばして沖縄に行こうと
思いたちました。南国のなんともいえないゆっくりとした時間と、どんな人でも受け入れ
る嬉しくなるような包容力、その対極にある、歴史の悲劇と闇の力。
いつしかその土地に魅せられ、何度も通うようになりました。
旅は沖縄本島にとどまらず、その後、久高島、宮古島、石垣島、西表島、竹富島、
といった小さな島々を巡ることになります。
水平線の向こうに横たわる島々を転々と移動しながら色々な人たちと出会い、また
独りの時間を持つことで、これまで無意識に自分のなかで蓄積してきた感情が、
時とともに徐々に解きほぐされていきました。
そうして最後に辿りついた場所は最南端の島、波照間島でした。
平べったく続く島の陸地が突然途切れる場所、最南端の断崖絶壁に立ち、眼下に
拡がる波をじーっと見つめていると、さまざまな気づきがやってきたのです。
飛沫を上げながら表面に刻まれる小さな波の山々が、その下のちいさなうねりに飲み
込まれてかたちを失う様子。そのうねりもまた、より大きくゆったりとした波のうねり
によって姿を変え、さらに海の底からやってくる大きなうねりによって全体の動きが
絶えず変化させられる様子。それらひとつひとつを合わせた経験の総体を私たちは
「波」と呼んでいて、同時にどんな小さな「波」も全体の波と密接に関係しあっている
ということ…。
その様子を見ながら、いつしか私は涙を流していました。
そこで私ははじめて、普段ため込んでいた感情を自覚し、開放することができたのです。
ダンスやピラティスといった身体技法に携わっていると、”身体のこえを聴く”という
言い方をよく耳にします。それは、「これまでずっと声を上げていた感覚があるんだ」と
いうことに、あらためて気づいてあげることを意味します。
小さな声(=感覚)への気づきは「全体」に影響を及ぼし、「全体」を活性化させる
こともあるでしょう。一方これまで支配的だった大きな声(=感覚)はいつしか小さな声に
姿を変えて、再び相互に浸透していきます。
そうやってひとつの身体という経験を織り込んでいくのです。
少なくともそう信じることで、色々なものごとを肯定的に受け止められるようになりました。
それが島の旅で教わった大事な秘密、でもありました。
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