中世の美術史は、私はうまく頭に入りませんでした。
以前、ルネッサンスを勉強しようと思って始めたら、それ以前の中世がわからないと、ルネッサンスが分からないと思って、結局冬休みを全て使って、中世の勉強をしたことがあります。
その時は、百科事典を使って、かなり調べてみました。しかし、少し時間が経つとすっかり忘れてしまい、頭に定着していないことに気づきました。
原因は何かな?と思いますが、頭に残るほどの強烈な印象に残るものがないのだなと思いました。
だから、いま書こうとすると、またいろいろ調べて書くことになるのだと思って、つい、書くのが億劫になっています。
それで、とりあえず、私が記憶に残っている中世を書いてみて、その後に調べたことを付け加えて行こうと決めました。
ですから、曖昧な点はお許しください。
ーーーーーーー
私の中世の掴み方は、313年にミラノ勅令で、キリスト教が公認されたことから始まります。
それまでのキリスト教は、認められないから、カタコンベという地下墓地を隠れ家のように使って、広めていました。しかし、313年のコンスタンチヌス帝によってキリスト教が公認されたために、漸く表に出られるようになりました。
だから、このミラノ勅令は大変大きな出来事でした。
それによって、キリスト教の教会というものが作られ始めます。
時代は、ローマ時代ですから、まだ中世ではありません。
しかし、建築の点で見るには、ここから見ていく必要があるのです。
私の掴み方は、建築が以下のように発展します。
1、木造のバシリカ式
2、石作りのロマネスク式
3、石作りのゴシック式
です。
1、バシリカ式とは、三角形の屋根で長い学校の校舎のような建物と言えばいいでしょうか。(正確には、切り妻といいます)
妻というのは、端を意味します。だから切り妻とは、端を切った形という意味ですね。(昔は、夫も妻も、どちらもつまと言いました。)
(「爪」も、「つま先」という言葉も、この妻から来ています)
因みに、寄棟、入母屋、大社作りなども関連で覚えて置くといいでしょう。
ここでは、ちょっと省きます。
2、ロマネスク式
神は永遠という気持ちから、朽ちてしまう木材ではなく、永遠に壊れない建築という意味で、教会を石作りにすることを始めました。石の重さのために、窓があまり大きく開けられないため、教会の内部は暗くなりました。その結果、この時代から発展したモザイク絵画が神秘的な光を放つことになりました。
3、ゴシック式
建築技術が進み、尖塔式という方法で、教会が高くなりました。
その結果、石作りなのに、窓が大きく開けられるようになり、ステンドグラスが発展しました。教会が明るくなって、素敵なイメージになりました。
日本に伝わったキリスト教が明るいイメージなのはそのためです。
このゴシックという言葉は、ゴート式です。ゲルマン民族の中にゴート人という人たちがいました。その人たちの様式という意味で付けられました。
ーーーーーーーーー
ローマ帝国は、395年に東西が分裂し、西ローマ帝国は、476年に滅亡します。その原因は、ゲルマン民族の大移動が原因です。
傭兵隊長、オドアケルによって、西ローマが滅亡したと私は把握しています。
ローマ人ではなく、ゲルマン民族出身の傭兵が軍隊を掌握すれば、こういうことは必然の結果でしょう。
だから、中世はゲルマン民族の大移動によって、始まると覚えてください。
ーーーーーーーーー
そして、西ローマは、ドイツ、フランス、イタリアの辺りに、フランク族がゲルマンを抑えて、支配するようになり、フランク王国のメロビング朝、カロリング朝と続き、800年にカロリング朝のカール大帝がローマ法王から戴冠を受け、ローマ帝国が復活したとさえ、言われました。
ーーーーーーーーー
それに対して、東ローマ帝国は、ビザンチン帝国という名前で、存続し、1453年にオスマントルコに滅ぼされるまで、続きます。これは、レオナルドが1歳の時でした。だからルネッサンスです。
私はこのように、把握しました。
だから、東ローマ帝国の美術をビザンチン美術というのです。
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ビザンチン美術では、コンスタンチノープルが首都ですから、今のイスタンブールです。そこには、ハギアソフィア教会がありますが、初めはキリスト教の教会として作られ、その後、イスラム教の教会になりました。これは、特徴のある建物なので、記憶に残っています。また、ビザンチン美術というと、建築の壁の装飾に特徴があり、細かい模様が印象に残ります。
しかし、それ以外にあまり、記憶に残るものがありません。
それは、イスラム教が偶像を禁止しているためだと思います。絵画や彫刻は宗教的には作られないからでしょう。
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また、西ローマでも、やはり本来はキリスト教は偶像禁止であることが叫ばれ、800年頃、偶像破壊運動が興ります。これによって、たくさんの宗教画や彫刻などが壊されました。
だから、中世の美術と言ったときに、注目に値する美術作品が少ないのだと思います。
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また、もう一つの要素は、神様の表現でした。
モザイクが発達したとお話ししましたが、モザイクではフレスコ画のようには描けません。フレスコは筆で描けますが、モザイクは石を並べるわけですから、なかなか細部まで、リアルには描けません。それもあってか、絵画は平面的で、記号的になります。
それから、神があまり人間に近い感じだと、その辺に居る人と変わらない感じになってしまうので、できれば生身の人間から遠い表現の方が有難味が増すのです。
そのために、ますます、記号的な表現になっていきました。
ギリシャ、ローマで、理想的な美術が作られ、まるで本物のような彫刻が作られたのに、それがなくなるのは、この辺の事情によるのです。
だから、ルネッサンスは、ギリシャ、ローマに帰ろうという動きになったのです。
せっかくすばらしい芸術があったのに、キリスト教がだめにしてしまったというのは、この辺りの考えです。
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私が、中世をうまく掴めないというのは、記憶に残る絵画や彫刻で、時代をつないでいけないからなのです。
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ついでの話ですが、この頃から、絵画はお坊さんが描くという時代に入ります。
実は、イコンというものが出て来ました。
それは、聖母子像などを絵にしたものを教会が売りました。
人々は教会に来てお祈りをしましたが、それが自宅にいてできないだろうかと考えました。足が悪くて、教会に行けない人でも、神にお祈りができるようにと考えて、板に聖母子像の描かれたものを買ったのです。
だから、イコンという絵画がたくさん描かれました。
ルネッサンスになって、フラアンジェリコ、フィリッポリッピなどのお坊さんなのに画家であるという有名な人が出て来ますが、元を辿れば、それは自然なことでした。このイコンを描くのはお坊さんだったのですから。
お坊さんで画家である人はたくさんいたのです。
以上、私の記憶に残る中世を書いてみました。
また、よく調べてから、中世に挑戦してみたいと思います。
以前、ルネッサンスを勉強しようと思って始めたら、それ以前の中世がわからないと、ルネッサンスが分からないと思って、結局冬休みを全て使って、中世の勉強をしたことがあります。
その時は、百科事典を使って、かなり調べてみました。しかし、少し時間が経つとすっかり忘れてしまい、頭に定着していないことに気づきました。
原因は何かな?と思いますが、頭に残るほどの強烈な印象に残るものがないのだなと思いました。
だから、いま書こうとすると、またいろいろ調べて書くことになるのだと思って、つい、書くのが億劫になっています。
それで、とりあえず、私が記憶に残っている中世を書いてみて、その後に調べたことを付け加えて行こうと決めました。
ですから、曖昧な点はお許しください。
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私の中世の掴み方は、313年にミラノ勅令で、キリスト教が公認されたことから始まります。
それまでのキリスト教は、認められないから、カタコンベという地下墓地を隠れ家のように使って、広めていました。しかし、313年のコンスタンチヌス帝によってキリスト教が公認されたために、漸く表に出られるようになりました。
だから、このミラノ勅令は大変大きな出来事でした。
それによって、キリスト教の教会というものが作られ始めます。
時代は、ローマ時代ですから、まだ中世ではありません。
しかし、建築の点で見るには、ここから見ていく必要があるのです。
私の掴み方は、建築が以下のように発展します。
1、木造のバシリカ式
2、石作りのロマネスク式
3、石作りのゴシック式
です。
1、バシリカ式とは、三角形の屋根で長い学校の校舎のような建物と言えばいいでしょうか。(正確には、切り妻といいます)
妻というのは、端を意味します。だから切り妻とは、端を切った形という意味ですね。(昔は、夫も妻も、どちらもつまと言いました。)
(「爪」も、「つま先」という言葉も、この妻から来ています)
因みに、寄棟、入母屋、大社作りなども関連で覚えて置くといいでしょう。
ここでは、ちょっと省きます。
2、ロマネスク式
神は永遠という気持ちから、朽ちてしまう木材ではなく、永遠に壊れない建築という意味で、教会を石作りにすることを始めました。石の重さのために、窓があまり大きく開けられないため、教会の内部は暗くなりました。その結果、この時代から発展したモザイク絵画が神秘的な光を放つことになりました。
3、ゴシック式
建築技術が進み、尖塔式という方法で、教会が高くなりました。
その結果、石作りなのに、窓が大きく開けられるようになり、ステンドグラスが発展しました。教会が明るくなって、素敵なイメージになりました。
日本に伝わったキリスト教が明るいイメージなのはそのためです。
このゴシックという言葉は、ゴート式です。ゲルマン民族の中にゴート人という人たちがいました。その人たちの様式という意味で付けられました。
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ローマ帝国は、395年に東西が分裂し、西ローマ帝国は、476年に滅亡します。その原因は、ゲルマン民族の大移動が原因です。
傭兵隊長、オドアケルによって、西ローマが滅亡したと私は把握しています。
ローマ人ではなく、ゲルマン民族出身の傭兵が軍隊を掌握すれば、こういうことは必然の結果でしょう。
だから、中世はゲルマン民族の大移動によって、始まると覚えてください。
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そして、西ローマは、ドイツ、フランス、イタリアの辺りに、フランク族がゲルマンを抑えて、支配するようになり、フランク王国のメロビング朝、カロリング朝と続き、800年にカロリング朝のカール大帝がローマ法王から戴冠を受け、ローマ帝国が復活したとさえ、言われました。
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それに対して、東ローマ帝国は、ビザンチン帝国という名前で、存続し、1453年にオスマントルコに滅ぼされるまで、続きます。これは、レオナルドが1歳の時でした。だからルネッサンスです。
私はこのように、把握しました。
だから、東ローマ帝国の美術をビザンチン美術というのです。
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ビザンチン美術では、コンスタンチノープルが首都ですから、今のイスタンブールです。そこには、ハギアソフィア教会がありますが、初めはキリスト教の教会として作られ、その後、イスラム教の教会になりました。これは、特徴のある建物なので、記憶に残っています。また、ビザンチン美術というと、建築の壁の装飾に特徴があり、細かい模様が印象に残ります。
しかし、それ以外にあまり、記憶に残るものがありません。
それは、イスラム教が偶像を禁止しているためだと思います。絵画や彫刻は宗教的には作られないからでしょう。
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また、西ローマでも、やはり本来はキリスト教は偶像禁止であることが叫ばれ、800年頃、偶像破壊運動が興ります。これによって、たくさんの宗教画や彫刻などが壊されました。
だから、中世の美術と言ったときに、注目に値する美術作品が少ないのだと思います。
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また、もう一つの要素は、神様の表現でした。
モザイクが発達したとお話ししましたが、モザイクではフレスコ画のようには描けません。フレスコは筆で描けますが、モザイクは石を並べるわけですから、なかなか細部まで、リアルには描けません。それもあってか、絵画は平面的で、記号的になります。
それから、神があまり人間に近い感じだと、その辺に居る人と変わらない感じになってしまうので、できれば生身の人間から遠い表現の方が有難味が増すのです。
そのために、ますます、記号的な表現になっていきました。
ギリシャ、ローマで、理想的な美術が作られ、まるで本物のような彫刻が作られたのに、それがなくなるのは、この辺の事情によるのです。
だから、ルネッサンスは、ギリシャ、ローマに帰ろうという動きになったのです。
せっかくすばらしい芸術があったのに、キリスト教がだめにしてしまったというのは、この辺りの考えです。
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私が、中世をうまく掴めないというのは、記憶に残る絵画や彫刻で、時代をつないでいけないからなのです。
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ついでの話ですが、この頃から、絵画はお坊さんが描くという時代に入ります。
実は、イコンというものが出て来ました。
それは、聖母子像などを絵にしたものを教会が売りました。
人々は教会に来てお祈りをしましたが、それが自宅にいてできないだろうかと考えました。足が悪くて、教会に行けない人でも、神にお祈りができるようにと考えて、板に聖母子像の描かれたものを買ったのです。
だから、イコンという絵画がたくさん描かれました。
ルネッサンスになって、フラアンジェリコ、フィリッポリッピなどのお坊さんなのに画家であるという有名な人が出て来ますが、元を辿れば、それは自然なことでした。このイコンを描くのはお坊さんだったのですから。
お坊さんで画家である人はたくさんいたのです。
以上、私の記憶に残る中世を書いてみました。
また、よく調べてから、中世に挑戦してみたいと思います。